束の間の安寧
「それで、枢っち。枢っちとこの子はどういう繋がりなの?」
自己紹介も終わり、話はそこに立ち返る。
「いや、なんて言ったらいいんだろうな。まあ、偶然出会ったというか……」
まさか電車に飛び込もうとしていたところを助けた、などと軽々しく言うわけにもいかず、曖昧に誤魔化してしまう。
「運命だったんだよ。ね、カナメ」
一檎はあえて油を注ぐような言い回しをする。
「枢っちー……」
ジト目でこちらを見る明花。
「……すまん、今はこれで勘弁してくれ。ほら、そろそろ授業も始まるし、な?」
「むぅー……、分かった」
不満そうに頷く明花。
そんなこんなで、授業が始まる。
「よし、それじゃあ授業始めるぞー」
雑な号令を掛けるのは、担任の樋山先生。水曜の一限は彼女の受け持ちなのだ。
訪れる、束の間の安寧。
しかしそれも、あっさりと破られてしまう。
「ねぇカナメ。教科書見せて?」
一檎が机をこちらに合わせながら言う。
「そっか、教科書は違うんだな。いいよ、ほら」
「ありがと、カナメ」
こちらに寄り掛かりながらお礼を口にする一檎。
「……おい」
俺は軽く咎めるように肘で小突く。
「ふふ、カーナメ」
尚も、一檎は甘えるような声でこちらにしなだれかかる。
「……なんだよ」
「私ね、カナメと一緒で嬉しい」
幸せそうに言う彼女に、俺はつい何も言えなくなってしまう。
だが、そんなやり取りを見逃さない少女が一人。
「……ちょっと、二人とも?」
明花だ。
「なに、桃井さん?」
「授、業、中、なんですけど。さっきから、近すぎない?」
「そうかな。ただ教科書を見せてもらってるだけだよ?」
「……! そっちがその気なら──」
明花もこちらに机を寄せ、
「──はい、蓉海ちゃん。あたしの教科書、使っていいよ」
一檎の机に自身の教科書を放った。
「……はあ?」
「これなら枢っちに見せてもらわなくていいでしょ? ってことで枢っち。あたし、教科書貸しちゃったから。見せて?」
「いや、明花、それは……」
俺の制止も虚しく、俺の教科書は明花の方へ引っ張られて行く。
「……これでよし。じゃあ枢っち、一緒に見よっか」
見せつけるように俺の右腕を引く明花。
「……ちょっと、桃井さん。私、桃井さんにそんな迷惑かけられないよ。ほら、桃井さんは自分を使って? 私は──」
今度は一檎が、俺の左腕を抱き寄せる。
「──私には、カナメが見せてくれるから」
俺の腕越しに明花を覗き込む一檎。
「「……!」」
再び、俺を挟んで見えない火花が散らされ始める。
「と、とりあえず、授業中だからもう少し冷静にならないか? な?」
「……じゃあ、枢っちはどっちと見たいの?」
「え?」
明花の思わぬ詰問に、思考が止まる。
「……そうだね。ねえ、カナメ。カナメは私と桃井さん、どっちがいいの?」
「待て、ちょっと話が飛躍し過ぎじゃないか? そもそもこれは、ただの教科書の貸し借りで……」
「「いいから!」」
決して授業中に上げてはならない迫力ある声で俺を問い詰める二人。
気付けば二人だけでなく、他のクラスメイトも、樋山先生でさえも、神妙な面持ちで俺の選択を待っていた。
俺は、俺は──
「──それで、あんな面白い形で授業を受けることになったんだね」
一限を半笑いで振り返る秀琉。
「笑うなよ秀琉。俺なりの最適解だったんだぞ」
結局、俺はあの二択に対して、どちらもを選んだ。
選ばなかったと言い換えてもいいだろう。
結果、机三つを横並びにして、間に二冊同じ教科書を並べるという、見るも珍妙な形態で授業を受けることになったわけだ。
「第三の答えってやつだよね。ま、あの場ではそれが正解か」
まさかあの場で痴話喧嘩を繰り広げるわけにはいくまい。お互いの矛を収めるには、良い落としどころだったはずだ。
「けど枢、分かってる?」
突然、秀琉は剣呑な空気を纏わせる。
「どれだけ先延ばしにしたって──いつかは、ちゃんと選ばないといけないよ」
「……ああ、勿論」
「うん、それならよかった」
まるで先ほどの気迫が白昼夢か何かであったかのように、秀琉はいつものトーンで話し出す。
「それじゃ、教室に戻ろうか」
「おう、そうだな」
ハンカチで手を拭い、秀琉はトイレを後にする。
俺もゆっくりとそれを追った。
「カナメ。ご飯、一緒に食べよ」
控えめに袖を引く一檎。
長い長い午前が、漸く終わった。
授業の度、ぴたりと両側に張り付く一檎と明花。
一体午前中だけで、何度火花が飛び散ったことか。
最初は物珍しげに見ていたクラスメイトたちも、四限になる頃にはすっかり慣れてしまっていた。
「……聞いてる、カナメ?」
「ああ、悪い悪い。そうだな、一檎も一緒に食べような。明花も、それでいいだろ?」
先ほどから、ジト目でこちらを見ている明花にも同意を求める。
「まあ、うん、いいよ。枢っちに免じて許してあげる」
こうして、俺たち五人の昼食が始まった。
「そういえば一檎、一檎は何でこっちに転校なんてしてきたんだ?」
唐揚げをつまみつつ、一檎に問いかける。
「何でって、カナメに会うためだよ」
一口大のサンドイッチを手に、何を今更と言いたげな顔の一檎。
「……えっと、蓉海さん。それだけの理由で転校してきたの?」
「そうだけど?」
きっぱりと言い切る一檎に、秀琉も二の句を失ってしまう。
「……一檎ちゃん、君影高校に進学してたんですね」
「うん。茅谷さんは外部受験してたんだ」
「ええ。両親からは内部進学も勧められましたが、君影以外の環境にも興味がありましたので」
「ふうん。そっか」
「ルカルーは、小学校からずっと君影だったんだよね」
「はい。ですので、かなり進路には迷いました」
小学校から九年間、ともすれば、これまでの人生ほとんどを過ごした環境から離れることになるわけだ。悩むのも至極当然だろう。
「それでも、今は正解だったと思ってますよ。お陰でこうして、皆さんと出会えましたから」
「ルカルーぅ」
瑠歌の言葉に、明花は嬉しそうに手を繋ぎだす。
「一檎も、小学校から君影だったのか?」
「ううん、私は中学の二年生からだよ。……引っ越しそば、覚えてない?」
引っ越しそば。はて、何のことだろうか──あ。
「あぁ、そういえば年末くらいに貰ったっけな」
中学二年生の十二月末。ちょうど、クリスマスが過ぎた辺りにそんなことがあった。
時期も相まって、年越しそばにちょうど良かったのが印象に残っている。
たしか、やけにスーツの似合う夫婦と、文学少女といった風貌の女の子が──
「──あれ。一檎って、雰囲気変わったか?」
「! カナメ、そんなとこまで覚えてるんだ」
「いや、覚えてるってほどでもないんだけどな」
昔からこういうのは、なんとなくキーワードが頭に残るのだ。
「そっか。じゃあやっぱり、卒業アルバムは見せ合おうね。カナメはいつがいい?」
「ああ、俺はいつでも、それこそ今日でもいいよ」
どうせ、向かいの家なのだから。
「じゃあ──」
そこに、割り込む声が一つ。
「──ねぇ、枢っち」
「……明花?」
「あたしも、枢っちの卒アル見たいな」
「ああ、だったら明日、俺が学校まで持ってくるか。ちょっと重いけど、明日は時間割的にも荷物は少ないし」
「そうじゃなくて。それもそうなんだけど、……あたしも、枢っちの家に行ってみたいなって」
いつかの誘いのように、明花の頬には紅が差していた。
「分かった、いいよ。けど、明花は家も遠いし、学校帰りにはちょっと厳しいよな」
「そうだね。流石にあたしも、平日に枢っちの方まで行って帰ってはしんどいかも」
「じゃあ、今週の土曜日にしよう。それでいいか、二人とも」
「うん、それなら!」
「……カナメが言うなら、それでいいよ」
こうして、俺の土曜の予定は埋まる。
「ねえ、瑠歌さん。僕たち、完全に空気じゃない?」
「まあ、話題が話題ですから。……でも、卒業アルバム、ですか」
「もしかして、瑠歌さんも興味あった? 枢の中学のだったら、僕も一応見せてあげられるよ」
「いえ、そういうことではないんです。ないんです、けれど……」
一体、何を思っているのだろう。
妙に歯切れを悪くする瑠歌は、どこか遠い目をしていた。
「今日も一日お疲れ様ー!」
放課後。
明花は恒例のように声を上げ、大きく伸びをした。
「お疲れ様、明花」
「うん、枢っち。お疲れ様ー」
かと思ったら、急に力が抜けたのか机に上半身を液体のように広げだす。
「ねぇ、カナメ。桃井さんっていつもこうなの?」
「ああ、基本こんな感じだな。……明花、今日はどこか寄るのか?」
「……うーん、今日はいいかな」
「ハルちゃんがそう言うのって珍しいね」
「ええ。こういうときは、大抵本当にお疲れのときなんですよ」
秀琉と瑠歌も合流する。
「それじゃ、帰るか?」
「うん。蓉海ちゃんも、一緒に帰るでしょ?」
明花は一檎にも問いかける。
「!」
一方、問いかけられた一檎は少し目を丸くしていた。
今日、一檎と明花はずっと競り合っていた。というのに声を掛けられたのが、一檎にとっては意外だったのだろう。
けれど、明花にとっては曲がりなりにも一日を一緒に過ごした相手だ。
そこで、変に壁を作ったりなどはしない。
「……あたしね、別に蓉海ちゃんのことが嫌いってわけじゃないから。ムッとすることもあるし、譲れないこともある。それでも、蓉海ちゃん──スミちとは仲良くしたいと思ってるんだ。」
「……そう、なんだ」
「だから、ね。一緒に帰ろ、スミち」
「……いいよ、桃井ちゃん」
未だ、ぎこちなさは抜けきらない。
それでもこうして、明花と一檎との関係は進展を迎えた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「よし、それじゃ乗るか」
帰りのホーム。
今朝は無かった温もりが、俺の左手にはあった。
「うん、カナメ」
二人で手を握りあったまま、ドアを潜る。
少しすると、軽快なメロディと共にドアが閉まった。
今日は寄り道をしなかったこともあり、帰宅ラッシュは回避できたようで、車内は
そこそこ空いていた。
「……ねぇ、カナメ」
窓を眺めていると、不意に一檎が口を開く。
「! ……一檎」
初めてだった。
一檎が、電車に乗ってから口を開いたのは。
「カナメ、今日はありがとね。私、楽しかった」
「ああ、それなら良かった」
それっきり、一檎は口を閉じてしまった。
けれど、窓越しに見えた一檎の目には、どこか活気が宿っていた気がした。
「またね、カナメ」
「ああ、また明日。一檎」
一檎の家の前で手を振り、別れを告げる。
思えば、一檎と駅から帰るのは、これで三度目だ。
一度目は、出会ったとき。
二度目は、明花とのデートの帰り。
そして、今日。
非日常だった行為が、いつの間にやら日常に浸透していく。
これからは一檎に合わせて、自転車から徒歩に変えても良いのかもしれない。
取り留めのないことを考えつつ、自室に荷物を置いて部屋着に着替える。
それにしても、冬の空気はやけに乾く。何か飲み物でも持ってこようか。
そんなことを思い、リビングに向かった折だった。
ピンポーン!
インターホンが鳴る。
家族が郵便でも頼んだのだろうか。
適当な憶測をしつつ、玄関に向かう。
すると、そこには──
「──えへへ、来ちゃった」
今しがた別れたばかりの少女、一檎がいた。
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