カナメの新たな日常

 翌日。

 俺は普段通り、学校に向かっていた。

 代わり映えしない電車のホームで、いつもと変わらない時間の電車を待つ。

 ただし、これまでとは異なるのが一つ。

「カナメ、おはよ」

「ああ。おはよう、一檎いちご

 蓉海はすみ一檎。彼女の存在だ。

「カナメって、いつもこんなにギリギリなの?」

「まあ、朝はあんまり強くなくてな」

「そうなんだ。全然来ないから、今日はお休みなのかなって思った」

「いや、流石に二日連続でサボタージュって訳にはな……」

 結局、昨日俺は学校へ行かなかったのだ。

「そう? 案外そういうのも悪くないと思うけどな」

 あの後。

 一檎の部屋で、俺たちはとりとめのない言葉を交わしながら、ただ漫然と時間を溶かしていた。

 そんな時間も昼過ぎには終わったのだが、それからどうにも学校へ行こうという気分にはなれなかったのだ。

 結局、その日は適当な理由をでっち上げ、学校には行かなかった。

「それはともかく。一檎は朝、早いんだな」

 向かいの家に住む彼女は、俺と違ってこの駅までは徒歩だ。だというのに、彼女は俺よりも早くここに着いていた。

「うん。私、朝は強い方だから」

 ぽやぽやした見かけからは、なかなか想像がつかない。

「あ、電車来たよ」

 線路の奥の方を見れば、ライトが徐々に近寄っている。

「……そうだな。」

 ただ、昨日の今日だ。一檎と電車の組み合わせを見ると、ついつい不安な気持ちになってしまう。

「? カナメ、急に掴んでどうしたの?」

 無意識のうちに、一檎の手首を握っていた。

「悪い、何でもない」

 指摘されてすぐに手を放す。

「手が繋ぎたいなら、そう言ってくれればいいのに」

「別に、そういうわけじゃなくてだな……」

「ウソ、冗談だよ。別に、そんなことしなくたって今日は飛び込んだりしないから」

 悪戯っぽい顔ではにかむ一檎。

「だって、私のコップの底は、カナメが塞いでくれるんだもんね?」

「ああ、勿論だ。約束したからな」

 一檎の生きる理由を見つけてやる。

 それが、佐瀬さぜかなめと蓉海一檎を繋ぐたった一つの誓いだ。

「うん、信じてるよ。カナメ。……それで、結局手は繋がなくていいの?」

「いや、もう電車も来てるからな」

「電車も大概空気を読んでくれないよね」

「むしろ丁度いいくらいだったろ。ほら、さっさと乗ろう」

 そう言って、やや強引に一檎の手を引きながら、俺は電車に乗り込んだ。

「……なんだ、結局繋ぐんじゃん」

 幻聴だろうか。一檎の最後の呟きは、どこか弾んだ声に聞こえた。




 ガタン、ガタン。

 さしものマイペース少女蓉海一檎といえども、車内マナーはきっちり守るようで、車両に乗り込んでからはそれっきり口を閉ざした。

 もっとも、電車内での私語を是とするか非とするかという問題は少々議論を生むテーマではあるが。ここ、約一年ほど電車通学をした俺としては、出勤と退勤の時間帯くらいはそっと静かにしてやりたいというのが結論だ。というか、まるで最後の審判を待つかのように目を瞑る社会人の皆様方を見ていると、とても騒がしくする気などは起きてこない。

 と、閑話休題。

「一檎、そろそろ手を放すぞ」

 先ほど語った自分マナーに反しない程度の声量で、ぼそりと一檎に声をかける。

「………」

「一檎?」

 尚も、一檎からは応答がない。

 ならばと一方的に放そうとするも、これがなかなかどうして外れない。

 繋いだままでは大した力は感じず、しかし外すには少々抵抗を感じる。そんな、なんとも絶妙な力加減がそこにはあったのだ。

「一檎、どうかしたか?」

 ちらり、彼女の顔を覗き込む。

 けれども、彼女は頑として反応を返さない。

 ただひたすら、一檎は虚ろな目で外を眺めていた。

「………」

 思わず、俺も言葉を失ってしまう。

 なるほど、これが彼女の言った、空っぽというやつだろうか。

 俺が単語帳と睨めっこしていた内も、はたまたスマホに興じていた内も。

 彼女はこれまでずっと、今日のように目の奥を空にしていたのだろうか。


 こうしていると、俺は全く一檎のことを知らないんだと思い知らされる。

 これで生きる意味を見つけてやるなど、全くお笑いぐさもいいところだ。

 ならば、せめて。俺も、彼女と同じ景色を眺めることにした。




「次は、白金川しらかねがわ。白金川です。お降りのお客様は──」

 乗り込んでから、都合二度目のアナウンスが流れる。

 それから徐々に電車の速度が鈍くなり、がくり。少々のGが体にかかる。

 一檎の体幹は中々に良いらしく、ぼっとしていながらも倒れたりは決してしない。

 そんな風に一檎を眺めていた折、急に彼女は気を取り戻す。

「! 私、ここだから。じゃあ、またね、カナメ」

 一切の余韻もなく握り合っていた手を放し、彼女はそれをひらひらと振っていった。




 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆




「あ。おはよ、枢」

 教室に入ると、すぐに声を掛けられる。

「おはよう、秀琉」

 こいつは南沢みなみさわ 秀琉ひずる眉目秀麗びもくしゅうれい、文武両道。おまけに人当たりも良し。もしランク付けをするなら文句無し、満場一致で最上位にカテゴライズされるであろう、俺のクラスメイトだ。

 俺と秀琉は、中学からの付き合いだったりする。

「枢、昨日はどうしたの? 体調不良?」

「あー、まあ、そんなところだな、うん」

「そっか、しっかり休めた?」

「ああ、今はもう万全だ」

「よかった。ハルちゃんとかも、枢のこと心配してたんだよ」

 おおう、罪悪感がすごい。

 大したことないのに心配されるというのは──いや、別の意味合いで大したことはあったのだが、にしても半分はズル休みだというのに心配されるのは、中々に胸が痛い。

「みんな、おはよー」

「おはようございます」

「噂をすれば、だね。おはよ。ハルちゃん、瑠歌るかさん」

「おはよう、明花はるか、瑠歌」

 入ってきたのは二人組の少女。


 如何いかにもギャルらしい雰囲気の方は、桃井ももい 明花はるか。果たして名字に合わせたのか、それとも単なる趣味か、髪を桃色に染めたツインテールの女の子だ。

 秀琉からは名前の頭二文字を取って、ハルちゃんなどと呼ばれている。


 もう一方の、おしとやかな雰囲気の女性は茅谷かやたに 瑠歌るかうるしのような黒い髪を腰まで垂らした、まさに大和撫子といった感じの女性だ。

 秀琉曰く、「瑠歌さんはどうしてもさん付けで呼びたくなっちゃうんだよね。」だそうな。


 二人は大抵一緒に行動していることから、ハで、ルカルカ姉妹などとも呼ばれている。

 尚、どちらが姉で、どちらが妹であるかについては、言わずもがなである。


「枢っち、今日は来れたんだね。元気になったの?」

 恐らく明花も、俺が昨日体調不良で休んだのだと考えているのだろう。

「ああ、お陰様で。秀琉から聞いたぞ、心配してくれてたんだってな」

「だって何の連絡もないんだもん。心配だってするよー」

「枢くん、お元気そうで良かったです。でも、今日はあまり無理せず、少しでも具合が悪くなったら保健室に行ってくださいね」

「ああ、えっと、うん。ありがとうな」

 やはり、途轍とてつもない罪悪感だ。三人に増えて、罪悪感は三倍どころか三乗まで跳ね上がった気がする。

「むむ。枢っち、何か隠してない?」

 ぎくり。

「明花、急にどうしたんだよ」

「なんかさー、さっきから枢っち、妙にぎこちないんだよね」

「い、いやあ、そんなことはないと思うけどナ?」

「枢、露骨に声が上ずったね」

「はい、今のはちょっと、流石に怪しいと思わざるを得ないですね」

 俺の見せた僅かな隙に、すかさず援護射撃をしてくる秀琉と瑠歌。

「ちょっと、なーに隠してるの。吐いちゃいなさいよー」

 やめろ、肩を揺らすな明花。吐くの意味が変わってくるから。

「わかった、話すから。とりあえず揺するのはやめてくれ。実はな──」

 ごくり、三人ともが固唾を飲む。

「──俺、昨日は普通にズル休みなんだ」

「「「………」」」

 一瞬、空気が凍った。

「はぁ?」「あぁ……」「えぇ?」

 順に、明花、秀琉、瑠歌。三人は、文字通り三者三様の反応を示した。

「ずっと居心地悪そうにしてたのは、そういうことだったんだ」

「秀琉、お前気づいてたのか」

「まあ、中学からの付き合いだからね。なんとなくは分かるよ」

 秀琉は肩をすくめてみせる。

「っていうか、そうならそうと言ってよね。心配し損じゃん」

 むう、と明花は頬を膨らます。

「まあ、言いだし辛かったのはわかりますけどね」

 そんな明花の頬を指でぷしゅと突きながら、瑠歌。

「でも、突然ズル休みなんてどうかしたんですか?」

「それ! 枢っちって、あんまりズル休みするタイプじゃないよね。似合わないっていうか、キャラじゃないっていうか」

「確かに、枢がズル休みなんて初めて見たかも。どういう風の吹き回し?」

 まいった。こいつら、思ったよりも掘り下げてくるな。

「……いや、昨日朝起きたら、急に何もする気が起きなくなってな。俺もびっくりなんだけど、それでそのまま休んだんだ」

「えー、何ソレ。まだ何か隠してるんじゃないのー?」

「まあまあ。ハルちゃん、その辺にしてあげようよ。枢だって人間なんだから、たまにはそういうときもあるよ」

ひず君も枢っち側なの!? なんか、納得いかないんだけど」

「まあまあ、明花ちゃん。あんまりしつこいと、嫌われちゃいますよ」

「い゛っ」

 窘められた明花は妙な声を出す。 

「い?」

「な、なんでもない。まあ、ルカルーがそういうなら、この話は終わりね」

 一時はどうなるかと思ったが、秀琉と瑠歌が手心を加えてくれたお陰で、どうにか収拾がつきそうだ。

「ああ、この辺でもう勘弁してくれ」

「いいよ、二人に免じて勘弁したげる。……でも──」

 手で口元を覆い、そのまま俺の左耳に近づける。


「──本当に何かあったなら、相談してね?」


 ほんのり顔を紅潮させた明花の顔は息を吞みそうなほど魅力的で、たまらず俺は目を逸らした。




☆ ☆ ☆ ☆ ☆




「今日も終わったー!」

 両手を挙げ、大きく伸びをする明花。

「お疲れ、今日も疲れたな」

 隣の席に座っている俺も、明花に同調する。そう、実は俺と明花は両隣の席なのだ。

「ほんとだよ。あーあ、この世から学問が無くなればいいのになー」

「明花ちゃん、いつも言ってますよね」

「まあ、ハルちゃんの勉強嫌いは筋金入りだからね」

 少し離れた席から瑠歌と秀琉もやってくる。

「その癖して、別に勉強が出来ないわけじゃないってのが明花の面白いところだよな」

 こんなことを言っておきながら、明花の成績は全然悪くない。どころかむしろ、一般的にはデキる側に分類される方だ。

「好きと得意は別物なんだよぅ」

 芝居っぽく、机に上半身をぐでんと寝かす。

「はいはい、はしたないですよ」

 口ではそう言いつつも、瑠歌は労わるように明花の肩を揉む。

「えへぇ、ありがとルカルー。あ、そうだ。みんなこの後空いてる?」

「どうかしたの?」

「あたし、そういえば今日クレープが食べたい気分だったの思い出してさ。どう、帰り寄ってかない?」

 明花は唐突にそんなことを言い出す。

「僕は大丈夫だよ。二人は?」

「私もいいですよ。枢くんはどうですか?」

 明花が突発的な提案を投げて、それに俺たちがついていく。それが、俺たち4人のよくある流れだ。

 でも、今日は──

「──ごめん、俺はちょっとパスで」

「え、珍しいね。何か用事?」

「まあ、そんなところ。悪いな」

「えー、そうなんだ、残念。じゃあ、次は来てよね」

「そりゃ勿論。というわけで、俺はそろそろおいとまするよ。じゃ、また明日」

「うん、また明日」

「またねー、枢っち」

「お気を付けて、また明日」

 そんなこんなで、俺は学校を後にした。




☆ ☆ ☆ ☆ ☆




 俺が学校を出てから数十分。今ごろ明花たちはクレープ屋に行って甘味に舌鼓を打っていることだろう。


 さて、 一方の俺はといえば、

「お待たせ、カナメ」

「俺もさっき着いたばかりだよ、一檎」

 一檎と待ち合わせをしていた。

 そう、さっき言っていた用事とはこのことである。


 すなわち、一檎の生きがい探しだ。 

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