底の抜けた紙コップ

 歩き出した彼女は、改札を潜りそのまま駅の外へと階段を降りだした。


 重厚な雲が太陽を隠しているのが、やけに不吉じみていて嫌だ。折角助けられたのだから、空ももっと祝ってくれて良いだろうに。


 駅を出た後も彼女は止まることなく歩いていく。一体何処へ向かっているのか。いや、それよりも。

「ちょっと待ってくれ」

「……どうかした?」

 彼女は振り返って俺を捉える。

「自転車、取って来てもいいか?」

 俺は普段自転車で駅まで来ているのだ。何処へ行くにしても、このまま歩いて行かれては少々困る。

「いいよ。ここで待ってる」

 了承を得た俺は、急いで自転車の下まで向かう。

 自転車置き場に着くと直ぐに、左ポケットにあった鍵を挿す。そして自転車を右脚で跨ぎ、なるだけ速く漕ぐ。

「おかえり。早かったね」

 良かった、彼女はちゃんといた。

 実のところ、戻ってきたら彼女は何処かへ消えてしまっているのではないかという疑念があったのだ。

「ああ、ちょっと急いだ」

「そっか、それじゃあ行こっか」

 再び彼女は歩きだす。

 通るのは、とても見知った景色だ。それこそ、今朝も通った位には。

 俺の記憶が改竄されていない限り、こちらの方は住宅街しか無かった筈だ。

 向かっている先は、必然的に絞られる。恐らく彼女が今向かっているのは彼女自身の家だろう。


「着いたよ」

 ……こんなことがあるのだろうか。

 道路を挟んだ対岸、そこに見えるのは、俺の家だ。

 つまり彼女は、

「貴方、お向かいの家の子でしょ」

 向かいの家の子、ということになる。


 もう一度言おう、こんなことがあるのだろうか。




「入って」

 俺の動揺を他所に、彼女は鍵を開けて俺を招く。

「あ、ああ」

 今更ながら、会ったばかりの女の子の家に押し入る事にやや抵抗感が沸いてくる。

「?  寒いでしょ、早く入ったら?」

 まあ、先ほどまでの出来事を思えば本当に今更な話だ。……よし、入ろう。

「……お邪魔します」

「誰もいないよ?」

 ……なんとなく、そんな気はしていた。

「飲み物とか取ってくるから、ここで待ってて」

 リビングまで俺を引き連れて、そのまま彼女は奥の方へ消えていく。

「お待たせ」

 少しして彼女は紙コップ2つとジュースのボトルをお盆に乗せて戻ってきた。

「リンゴジュース、飲める?」

「おう、ありがとう」

 こうしていると、いたって普通の女の子だ。

「私は、蓉海はすみ 一檎いちご。貴方は?」

「え? あ、ああ、自己紹介か。俺は佐瀬さぜ かなめだ」

 訂正しよう。蓉海はどうやら、少し独特なペースの女の子だった。


「で、私が飛び込もうとした理由だっけ」

「ああ。えっと、生きる気がないみたいなこと、言ってたよな」

 あの改札で蓉海が語ったことを思い出す。

「そうだね。……私の部屋、行こっか」

 蓉海は突然立ち上がった。

 よくわからないが、俺も黙って付いていく。

「どうぞ」

 案内された蓉海の部屋は、とても小ざっぱりとしたものだった。

 学習机に、ベッド。クローゼットに、申し訳程度の小棚。

 まるで、モデルルームのようなラインナップだ。

「カナメも座ったら?」

 ベッドに腰をかけた蓉海は、その左隣を軽く叩く。

「え、いや」

「どうしたの?」

 なんというか、距離感が近い。

「普通、同じベッドに座るのって、恋人くらいの距離感になってからじゃないか?」


「……なら、あっちの椅子にでも座ってれば?」


 急に、突き放すような言い方だ。


「何か俺、嫌なこと言ったか?」


「………」

 

 沈黙が痛い。


「………私に、普通を押し付けないで」


 そういうことか。


「……蓉海、俺が悪かった。隣、座ってもいいか?」

 俺の問いかけに蓉海はベッドを叩き、無言で肯定の意を示す。

「一檎って呼んで」

「わかったよ、一檎」

 改めて、独特なペースの女の子だ。

 けど、それが、それこそが、蓉海一檎という人間なんだろう。

「ねえ、カナメはどう思う?」

 普通の子でなくとも、せめて指示語くらいは使ってほしい。

「何が?」

「私の部屋のことだよ。気づかないかな」

 期待した眼差しを向ける一檎。

 やや博打な考えだが、

「我が無さすぎる、なんてどうだろう」

 最初、入ったときにも思ったことだ。まるでモデルルームのような部屋──つまるところ、この部屋には個性が無さすぎる。

 ともすれば悪口になりかねない、それ故に博打だ。

「ふふ。カナメ、すごいね」

 どうやら、俺の解答は一檎の琴線に触れたらしい。

「そう。私、私ね──空っぽなの」

「空っぽ、か」

「そう、空っぽ。別に、感情がないってわけじゃないんだよ?」

 言葉の重さとは裏腹に、軽やかな表情で一檎は語る。

「ジュースを飲んだら美味しいって思うし、小動物を見たら可愛いなって思うもん。けどね──」


 不意に、一檎は飲みかけの紙コップを持ち上げ、そして、底に指を刺した。

 

 チョロロ。

 指を引き抜かれた紙コップは、当然のようにリンゴジュースを流出させていく。


「──どれだけ注いでも、穴が開いてたら意味がない。この底の抜けた紙コップが、私。蓉海一檎なんだ」


 漏れ出したジュースが、フローリングを汚す。

 どこまでも笑顔で語る一檎は、心底気味が悪かった。


「私にはね、叶えたい夢も、実現したい目標もないの。ただ、身体が死んでないだけ。そんなの、生きてるなんて言わないよね」

「だから、飛び込もうとしたのか?」

「うん。もう、いいかなって」

 にへへ、と頭を擦る。

 そんな、そんな理由で……?

「で、どうかな。カナメも満足した?」

 満足、だと。

「できるわけないだろ! そんな、そんな理由で飛び込むなんて、普通じゃ──」

 ──普通じゃない。そう言いかけて、すんでのところで思い留まる。

「……ありがとう、そこでやめてくれて」

 駄目だ、こんな言葉じゃ一檎には届かない。

「私、それ以上言われたら、カナメのこと大嫌いになってた」

 一檎が離れていく。

「ミルクティー、奢ってくれてありがとね。あと、お話しできて楽しかったよ。ちょっとだけ、だけどね」

 距離は近いままなのに、何故か一檎が遠のいていくような気がする。


「……待ってくれ。」


 咄嗟に、一檎の手をつかんでしまう。

「何?」

「一檎。さっき、自分のことを底の抜けた紙コップって言ったよな」

「うん、そうだね。それが?」

「じゃあ──」

 立ち上がり、一檎が穴を開けた方の紙コップに手を伸ばす。

 そして、一檎が開けた穴に被せる様に、親指を差し込んだ。


「──これなら、いいだろ」


「……はあ?」

 啞然とした様子の一檎。

「だから、これならこぼれないだろって」

 空いた片手で、俺の飲みかけた紙コップを掴み、そして中身を一檎の方に流し入れた。

「な?」

 渾身の表情で、一檎の方を見る。


「……ふふ、ふふふ。何それ」

 一檎は、笑っていた。

「指、だんだん濡れてきてるよ?」

 見れば、差し込んだ親指を伝ってリンゴジュースが少しずつ漏れ出ていた。

「これは、まあ、誤差みたいなもんだろ。水だって常温でも、ちょっとずつ蒸発するんだから、それと一緒だ」

「そっか。まあ、そうかもね」

 こんなのはどう考えても詭弁だ。それでも、一檎は乗ってくれた。

「わかった。じゃあ、カナメが私のコップを塞いでくれるんだね。カナメなら、私の空っぽを、満たしてくれるんだね」

「……ああ。俺が、一檎の生きる理由を見つけてやる」

 もはや、やけっぱちだ。

「うん。信じるよ、カナメのこと。信じるから」

 それでも、俺はこの手を手放そうとは思わなかった。




「それじゃ、とりあえず掃除しよっか」

 フローリングに落ちたリンゴジュースは、なんとも悲惨な光景を作っていた。

「そうだな」

「ところでそれ、中身、どうするの?」

 一檎が指差すのは、今も俺の親指が刺さったままのコップだ。

「俺が飲むよ」

 流石に、指で触れた液体を人に飲ませるわけにはいかない。

 ゴクリ、ゴクリ。

「あっ。……間接キス、だね」

 やや赤らんだ頬。

「俺にはもう一檎の恥じらいの基準がわからん……」




 くして、俺と一檎の妙な関係は始まった。

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