つい、貴女の手を掴んでしまいました。
菊陽重
虫の知らせ
いつもと変わらない電車のホーム。昨日と変わらない冷気が俺の肌を冷やす。けれど、俺は普段通りではなかった。
電車を待つ列からやや離れたところに彼女は立っていた。制服姿に鞄を携えた、どこにでもいるような装いの女の子。
肩まで垂らしたブラウン系の髪を、緩くウェーブさせた少女。
俺は彼女から目を離せなかった。ちらりと見えた、何かを諦めたような表情が脳から離れなかった。
突然だが、貴方は第六感というものを信じるだろうか。もしくは虫の知らせでもいい。兎も角そんな説明のつかないようなものを貴方は信じるだろうか。
俺は信じない。だってそうだろう。人間は目で、耳で、肌で、舌で、鼻で世界を感じる生き物であってそれ以上でもそれ以下でもないのだ。
それが突如新たなる感覚器官が生えてきて何かを伝えるなんてこと、ありえない。
もしそんな経験をした記憶があるのだとしたら、それはただの偶然だ。錯覚だ。妄想だ。
けれど、どうしてだろう。第六感など、虫の知らせなど存在しないとわかっているはずなのに、胸騒ぎが止まらない。
「間もなく二番線を列車が通過します。黄色い線までお下がりください」
お決まりのアナウンスが流れる。今日は妙に耳が冴えているのか、金属のこすれる音が段々と近づいて来ているのが鮮明に感じ取れる。
あと少しすれば電車が通り過ぎていく。ありふれた出来事だ、電車が通り過ぎるなんて。もう飽きるほど見てきた出来事だ。なのに今日は、なぜこれほどにも重たく感じるのだ。
ああ、段々と胸騒ぎが酷くなる。今走らなければ、きっと俺は一生後悔する。
……いや、まさか。そんなことはない。今走り出す理由など、どこにもない。
否、俺は走り出さなければならない。この心臓の波打ちが何よりの証拠だ。
電車はもう近い。
気付いたときには、俺は彼女の手を掴んでいた。
瞬間、身体が彼女の方へ引き寄せられる。
その勢いのままに俺たちの身体は線路に投げられて、そのまま鉄の塊にぶつけられる。そんな未来を錯覚した。
幼稚園、小学校、中学校。段々とこれまでの思い出が脳裏に描かれていく。
これが所謂走馬灯なのだろうか。これから俺は死ぬというのに、不思議と心は安らいでいる。……この気持ちのままに生を終えられるというのなら、なるほど死も悪くないのかもしれない。
高校入学、体育祭、文化祭、終業式。着々と、走馬灯は今に近づいていく。
最後の光景は、家の玄関だ。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
母さんが優しく微笑む。
……そうだ。まだ俺はただいまを言ってない。こんなところで、死ぬわけにはいかない。ああそうだ。まだ俺の人生には幾らでも未練がある。
こんなところでは死ねない。死にたくない。
そう思った瞬間にふっと走馬灯は消え、意識は肉体に戻った。
「ぅ、ぁぁああああああああああああ!」
力の限り、身体を後ろに引っ張る。
腕の筋が切れそうだ。きっとこの手を離せば俺は助かる。けれど、離したくない。
ここで離せば、それは一生付き纏ってくる。
どうしてあそこで手を離したんだ、と。どうして見殺しにしたんだ、と。
そんな重荷、俺には背負えない。そんなものを背負うくらいなら、女の子一人分の、おおよそ50kgの重荷の方が幾分ましだ。
「あああああああああああああああああ!!」
全身全霊で、彼女を引く。
ガンっ。ホームに、音が響き渡った。
何か硬いものと、ホームのコンクリートがぶつかる音が。
やったぞ、やってやったのだ。あのとき走ったのは間違いじゃなかった。
達成感に、胸が熱くなる。
けれども、周囲の人々の視線は冷たかった。痛かった。
……ひとまず俺は、まだホームの地面に座り込んでいる彼女を連れて、改札の方へ向かうことにした。
ホームに比べて改札周りは幾分か寒さが落ち着いている。空調こそ効いていないが、壁で風が遮られるだけでも大きな差だ。
さて、勢いのままに女の子を連れて来たはいいが、この後はどうすればいいのだろう。
彼女はまだぼーっとしたままだ。何か話してくれれば、ある程度は要求に沿ってあげられるのだが。
……とりあえず、何か温かい飲み物でも買ってくるか。
相変わらず力の入らないままの彼女を椅子に置いて、俺は自動販売機へ向かう。
ラインナップは緑茶にミルクティー、コーヒーにココア。
僅かに悩んだ末、俺はコーヒーとミルクティーを購入した。まあ、どちらも飲めないようならば新たにまた一つ買えばいいだけだ。
「コーヒーとミルクティー、どっちがいい?」
虚ろな目のままの彼女に問いかける。
「…………」
返事がない、ただの屍のようだ。......やめよう、縁起でもない。
「おーい、聞こえているか」
「…………」
さて、どうしようか。このまま放って学校へ向かう──というのはもはやありえない。
放っておけばいつかは気を取り戻すのだろうが、それは正気か狂気か。結局もう一度飛び込んで死にました、なんて後味が悪いにも程がある。
とはいえ彼女が気付くまでずっと待っていられるほど俺は気が長くないし、暇でもない。
仕方ない、強硬手段だ。
買ったばかりでまだ熱いコーヒー缶を、彼女の頬に当てる。
「……熱っ!」
漸く気が付いたみたいだ。
「ここは、死後の世界?」
どうやら狂気の方が出たらしい。うろうろと周りを見渡している。……どれだけ見渡しても、ここは紛うことなき改札だ。
不意に、彼女の双眸が俺を捉える。
「貴方が、閻魔様ですか?」
違う、俺はただの高校生で、ここは地獄ではなくただの改札だ。
ひとまず、落ち着いて貰うのが先か。
「コーヒーかミルクティー、どっちがいい?」
彼女の両目を見つめ返して、俺は再度問う。
「………ミルクティー」
俺の手からミルクティーを受け取ると、彼女は缶を開けていそいそとそれを飲みだした。
俺に残ったのはコーヒー。……ちなみに俺は、コーヒーが苦手だ。
ゴクリ、ゴクリ、ゴクリ。十数度か喉を鳴らしたのち、彼女は缶を床に置いた。
「落ち着いたか?」
「……うん」
しかし、改めて見ると端正な顔立ちの子だ。くりくりとした大きな目に、艶やかな唇。150cmに満たないであろう小柄な体系が、それらと相まって庇護欲を刺激する。
綺麗というよりは可愛い系だが、しかしこんな子でも自死を試みるのか。……いや、むしろこんな子だから自殺を試みたのだろうか。
「ねえ、何で私を止めたの?」
なぜ、か。なぜだろう。目の前で人が死ぬのが嫌だったから、というのは後付けな気がする。後悔がしたくなかったから、というのもどこかしっくりこない。
そもそも、言語化できるようなものでもないような気もする。けれど、あえて言語化するとしたら。
「なんとなく、かな」
「……なんとなく?」
「ああ。なんとなく、君の手を掴んだ方が良い気がした。それ以上でもそれ以下でもない。」
「そっか。……変わった人」
ふんわりと、彼女は微笑む。
「君には言われたくねえよ」
自殺を試みる方が、よっぽど変わっている。
「そう? 結構いると思うけどな、自殺する子」
ふんわりとした調子のままにそんなことを言われると、反応に困ってしまう。
「それでも、だ。自ら命を手放そうだなんて、俺には変わってるとしか思えねえ」
思わず、突き放すような言い方をしてしまった。
「……じゃあ、貴方は死にたいって思ったことない?」
そう言われると、ないとは言えない。特に受験で第一志望に落ちた時は、本気で死のうと思った。
「あるよ。でも、思っただけだ。実際に実行はしてない」
「そう。じゃあ、何で実行しなかったの?」
何で、だと?
「それが普通だからだ」
反射的に出たその答えに、彼女の纏う雰囲気が少し鋭くなった気がした。
「……じゃあ、貴方は自殺をするのが普通だったら、実行したの?」
「……そうかもしれないな」
「違う。貴方はしない」
先ほどまでのふんわりが噓みたいに、彼女は否を突き付ける。
「いや、するさ。結局人間ってのは周りに流される生き物だ。まして日本人は特にその色が強いときた。なら答えは当然──」
「それでも、貴方はしない! ……だって貴方は、生きたいと思っているから」
……何を言っているのだろうか。
「それじゃ前提から違う。この話はそもそも、死のうと思ってることが前提のはずだ」
「そうだよ。そんなこと分かってる」
「じゃあ、お前の言ってることは矛盾してる」
「そうかもね。……でも、じゃあ何で、貴方は死ぬときに普通を気にするの?」
それが、周りを気にするのが人間という生き物だからだ。
「知ってる? ……普通を、体裁を気にするのは、これからも生きようとしてる者だけなんだよ」
ハッとさせられた。
「そうでしょう?」
死にたいと思うことと、生きたいと思うこと。それは、決して競合するものじゃない。むしろ死にたいという思いさえ、あるいは生きたいという思いの裏返しなのかもしれない。矛盾しているようで、だが現実それは成立している。
そもそも、人間とは矛盾を孕んだ生き物なのだ。そんなこと、気の遠くなるほど昔から論じられている。
兎も角、人間の感情に矛盾を指摘するなんて、それほど愚かなこともない。
しかし、ならば。
「じゃあ、君の死にたい理由──いや、違うか。君が生きたいと、そう思わなくなった理由を、聞かせてくれないか?」
「……いいよ」
彼女は再び、ふんわりとした笑みを戻して是を告げた。
「じゃあ、付いてきて」
そう言って彼女は歩き出した。
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