罅の入った日常
一つ、白状しよう。
俺は、最低の人間だ。
あの後。
俺が最悪の返答をした後、明花は「そっか、わかった」とだけ言い、曖昧に笑みを浮かべて去っていった。
時折、俺のことを優しいと言う人がいる。
しかし、俺は決して己のことを優しい人間だとは思わない。
ただ、嫌われたくないから。ただ、薄情な人間と思われたくないから。
結局のところ、俺の優しさに見えるものは、そんな薄汚い見栄の産物なのだ。
一切の信念もない、単なる保身の末に零れ落ちたものなのだ。
だから、俺は失敗した。
明花に見放されたくない、一檎を見捨てるわけにはいかない、それから──
見栄と、また別の見栄と、そして僅かばかりの下劣な想いに挟まれ、明花の想いと向き合わないままに逃げ出してしまった。
ガタン、ガタン。
列車が揺れる。
それに合わせて、茶色の髪もふんわりと揺れ動く。
明花とデートした帰りの電車。
何故だか俺は、一檎と乗り合わせていた。
別に、何か示し合せたわけじゃない。言葉を交わしたわけでもない。
ただ、一檎はそっと、寄り添うように俺の隣に座っていた。
ぼんやり窓を眺めていると、いつのまにやら駅についていた。
列車から降りると、一檎が口を開く。
「カナメ、ごめんね。偶然、通りかかって」
「いや、別に一檎が謝ることじゃない。……けど、妙なところを見せちゃったな」
これは、神様の悪戯だとでも言うのだろうか。
「ううん。……あの子、カナメの友達だったの?」
「……ああ。大切な、友達だ」
「そっか」
それだけ聞いて、それっきり一檎は口を閉じた。
月曜日。
いつもと変わらない電車のホーム。
昨日と変わらないはずの冷気が、どこか俺を咎めている様に思えた。
「おはよ、カナメ」
「……ああ、おはよう」
挨拶とともに一檎が駆け寄ってくる。
俺はそれに返事をし、そして手を繋いだ。
別に、決まった約束事があるわけじゃない。
それでも毎朝、なんとなく、俺たちは手を繋いでいた。
「手、冷たいね」
「まあ、自転車だったからな」
一檎の手は小さくて、柔らかくて、ほんのり温かい。
「カナメ、それ。マフラー買ったの?」
「……ああ、まあそんなとこだ」
一体俺は何がしたいのだろう。
明花の──俺に告白をしてくれた女の子の贈り物を身に着けながら、別の女の子と手を繋いで、一体何をしているのだろうか。
「……カナメ、やっぱりまだ昨日のこと引きずってる?」
一檎は上目遣いで、心配そうに俺を見る。
「今日のカナメ、変だよ」
「……そうかな」
「うん。カナメらしくない」
俺らしいとは、何なのだろうか。
「辛いんだったら、私に話してね。そのときは、私が味方してあげるから」
そう言って、まるで存在を主張するみたいに、一檎は俺の手に指を絡め入れる。
明花との思い出が、次第に塗り替わっていく。
「ね?」
埋めてはならない穴を、不当に満たしていくような感覚。
それでも俺は、振りほどきはしなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「……おはよう」
扉を開け、努めて普段通りを装って教室へ入る。
「あ、おはよ。枢」
こちらに向かって手を振る秀琉。
明花たちは、まだ来ていなかった。
「……へぇ、枢がマフラーなんて、中学以来じゃない?」
「そうだな」
「新調したの?」
「……」
「……どうかした?」
「……いや、なんでも。これは、明花から貰ったんだ」
「そうなんだ。ハルちゃん、相変わらずいいセンスしてるよね」
明花が選んでくれたマフラーは、紺色をベースにチェック模様が入ったものだった。
「ああ、そうだな」
「それ、もしかして昨日の──」
秀琉が何かを言いかけたタイミングで、教室の扉が開く。
「おはようございます、枢君、秀琉君」
「お、おはよー」
瑠歌と、そしてその陰に隠れるように明花が入室する。
「おはよ、瑠歌さん、ハルちゃん」
「……おはよう、二人とも」
「うん。……枢っち、それ。マフラー付けてくれたんだ」
「ああ、見せてほしいって言われたからな」
「そっか。うん、やっぱり私の見込み通り、制服にも似合ってるね」
「ありがとう。使い心地も良かったよ。暖かかった」
「そうなんだ。気に入ってくれて嬉しいな。……ねぇ、枢っち」
「どうした、明花」
「あたし、待ってるから」
「……わかってる」
重い、沈黙が流れた。
「そういえば知ってますか? 最近、那古宮駅の方に新しくスイーツビュッフェができたんですよ」
「あ、知ってる知ってる。あたしも一回行ってみたいと思ってたんだよね」
「へぇ、そんなものができたんだ。じゃあ今度みんなで行ってみる?」
「うん、行こ行こ。何時がいいかな──」
気まずい沈黙をカバーするように、瑠歌が話題を転換させる。
それっきり、明花が告白について触れることはなかった。
昼休み。
「いただきまーす」
今日も今日とて、明花は駅前のクリームパンを齧る。
「……はむっ。んー、甘くておいしい」
「では、私も。いただきます。……あむっ」
「瑠歌さんがパンなんて、珍しいね」
なんとも稀有なことに、今日は瑠歌もクリームパンを買っていた。
「ええ、まあ。私もたまには明花ちゃんの食べてる味を味わいたくて」
「どう? 美味しいでしょ?」
「はい、ふわふわと生地と甘いクリームが合っていて美味しいです。でも、やっぱり、ちょっとお昼には甘すぎますね」
「えー、それがいいんじゃん」
完全同意には至らなかった瑠歌に、明花は肩を落とす。
「そんなに甘いのか?」
そこまで話題にされると、俺も少し気になってしまう。
「あたしにとっては普通くらいなんだけどねー。枢っち、一口食べる?」
何の気もなく、食べかけのクリームパンを差し出す明花。
「……えっと、いいのか?」
「へ?」
しかし、歪んだ波線を描くパンの先端と明花の唇が目に入り、どうにも躊躇してしまう。
「え? あ、か、間接キス……」
「……おう」
「じゃ、じゃあ、はい」
明花は食べ進めた方とは逆の先端をちぎり、俺に渡す。
「ああ、ありがとう。……ん、美味しい。ほどよい甘さだ」
「でしょ? 枢ならそう言ってくれると思ってた!」
明花は嬉しそうに俺の手を両手で包み、
「あ、ご、ごめん。つい……」
そして、我に返って手を放す。
「……ねえ。二人とも、絶対何かあったでしょ?」
「ええ。今日の二人、ちょっとぎこちないですよね」
妙な態度の俺たちに、秀琉と瑠歌はニヤニヤと追及しだす。
この様子を見るに、明花はきっと告白のことは話してないのだろう。
確かに、俺たちの間に"何か"はあった。
けれど、それは大手を振って話せるような"何か"ではなくて。
「あー、あはは、ごめんね枢っち。昨日遊びに行ったばっかだから、つい気分が盛り上がっちゃってて……」
だから、明花は誤魔化しの言葉を口にする。
「ほんとに、何もなかったから。……うん、何も、なかったから」
念押しするように繰り返した言葉は、まるで消え入るようだった。
「……わかりました。まあ、明花ちゃんが言うなら、信じましょう」
「ルカルー……うん、ありがと」
「そうだね。枢ならともかく、明花ちゃんが言うなら僕も信じようかな」
「……ちょっと待て、秀琉。俺ならともかくって何だよ」
「いやあ、だって枢はズル休みの件で既に前科があるからね」
「ぐ、それを言われると弱い」
「あはは、残念でした。……と、ごちそうさま」
軽く手を合わせて、弁当箱を仕舞い始める秀琉。
「秀琉、今日は早いんだな」
「いや、枢が遅いんじゃない? だってほら、瑠歌さんも」
「はい、私もそろそろ食べ終わりますよ」
言われてみると、いつのまにやら瑠歌の持つパンも別のものになっていた。
「ちなみに、そのパンはもしかして……?」
「キウイデニッシュです」
出た、キウイデニッシュ。
「ね? 今日は枢が遅いんだよ」
「ああ、そうらしいな……」
「やっぱり、今日の枢変だよね。なんかあったんじゃないの?」
「いや。明花も言った通り、本当に何もなかったからな、何も」
「……うん。何も、なかったよ」
「ふうん、そっか」
「じゃあ、そろそろ席に戻るね」
昼食も片付け終わってだらりと雑談に興じていると、気付けば五限の開始が迫っていた。
「うん。またね、ルカルー、秀君」
「五限も頑張ろうな」
瑠歌たちが席に戻っていく。
「ねえ、枢っち」
不意に、右袖を掴まれる。
「なんだ。明、花……?」
明花は、今にも泣きだしそうな顔をしていた。
「枢っちはさ、全部、なかったことにしたいの……?」
震えるような声。
「何もなかった方が、よかった?」
揺れる、瞳孔。
「違う。さっきのは、そっちの方が明花にも都合がいいと思っただけだよ」
噓だ。
「よかった……。あたし、枢のこと信じてるからね」
やめろ。
「ああ。必ず、答えは出すよ」
俺をもう、信じないでくれ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
那古宮駅、地下鉄二番ホーム。
学校からの帰り道、二人の少女──明花と瑠歌はそこにいた。
「うわ、電車遅延してるっぽいよ」
「ああ、道理で。今日は妙に人が多いと思ってました。……けど、そっちの方が都合が良いかもしれません」
「え? どういうこと?」
意味ありげな瑠歌の言葉に、明花は首を傾げる。
「明花ちゃん、お昼のことは覚えてますか?」
「……えーっと、と言いますと?」
やけに不明瞭な瑠歌の言い回しに、明花は一層疑問符を浮かべる。
「昨日のこと。何もなかったって、あれ、嘘ですよね。……本当は、何があったんですか?」
瑠歌が鋭い目を向けた、その途端、
「……ルカルーぅ!」
明花の涙腺が決壊した。
「聞いて、聞いてよルカルー……!」
瑠歌の肩に手を回し、そのまま顔を押し付ける。
「はい、明花ちゃん。聞かせてください、昨日何があったんですか?」
瑠歌はそっと、あやすように明花の頭を撫でる。
「ルカルー。あたし、あたしね。枢っちに、フラれたかもしれないの……」
それは、必死に押し沈めてきた明花の本心だった。
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