第4話 葡萄畑とウサギのキャバレー

 ルノワールやヴァラドンとユトリロ親子が暮らしたモンマルトル美術館の裏手の坂道を降りていくと、「こんなところにこんなものが」という光景に出くわす。今までの灰色の町並みから一転、田舎のような緑の空間が広がるのだ。これがモンマルトル名物のひとつ、葡萄畑である。


 もともと日当たりの良い丘であることから、モンマルトルは葡萄の生産地で、丘の上の修道院ではワインを作っていた。しかし20世紀にかけて都市化が進むと、田園風景はどんどん影をひそめ、第一次大戦後にはついに最後の葡萄畑も姿を消してしまう。


 これを嘆いたのが風刺画家のプルボという人だった。彼はモンマルトルに生きる子どもたちのイラストをたくさん描いた、地域愛にあふれた画家である。パリ市がこの最後の葡萄畑の跡地に宅地計画を立てた時、プルボは地元住民らと大きな反対運動を起こした。そのおかげでパリ市は畑として保存することに決定。一度は空になった土地に、また葡萄の苗が植えられ、現在まで栽培され続けている。品種はガメーやピノ・ノワールで、赤が主流だが白やロゼワインも造られる。


 毎年10月になると、モンマルトルでは盛大な収穫祭が開催される。サクレ・クールの周辺には白いテントの屋台が並び、フランス中のワイン生産者が自慢の品を持ってやってくる。ひとつ1ユーロのマイグラスを買えば、色んな屋台で色んなワインを味わえるという、ワイン好きには楽しすぎるイベントである。

 この時にモンマルトル産のワインもお目見えする。熟成型ではなく早飲みタイプのワインで、希少価値のせいか値段はややお高めだが、いちど話のネタに買ってみるのもいいかもしれない。


 

 さて、この葡萄畑の向かい側に、二階建てのなんとも可愛らしい一軒家がある。赤みがかったオレンジの壁、緑の窓枠、いかにも手作りなボコボコした木の柵。田舎の風情たっぷりな建物の壁には、片手鍋から飛び出すウサギの看板。


 これぞモンマルトル文化の最後の砦、老舗キャバレー「ラパン・アジル」である。


 キャバレーというとムーラン・ルージュのような華やかなショーがある店を連想しがちだが、このラパン・アジルは居酒屋とライブハウスが混ざったような場所である。かつては「シャ・ノワール(黒猫)」とか「ディヴァン・ジャポネ」とか、モンマルトルにはいくつもキャバレーがあった。この店もそのうちのひとつで、ユトリロやピカソ、モディリアーニなど数々の芸術家が通った場所である。

 ラパン・アジルLapin Agile という名前は、看板の絵を描いたアンドレ・ジルの名と、「すばしっこい」という意味のアジルをひっかけた言葉の洒落からきている。外壁にかかっているのは複製だが、オリジナルはモンマルトル美術館で見ることができる。赤いサッシュベルトを巻き、ワインボトルを掲げて片手鍋から陽気に飛び出すウサギのイラストはお茶目で可愛らしい。


 この店がモンマルトルの芸術家のたまり場になったのは、オーナーである「フレデ爺さん」の功績が大きかった。

 もともと行商人だったフレデ爺さんは、ロビンソン・クルーソーかカリブの盗賊かと見まがうような、ひげもじゃの独特な風貌をした男である。自らギターを持って客を盛り上げ、金のない芸術家にはただで飲み食いさせ、かわりに歌や詩や絵などの「才能」で払わせたという。作家も画家も音楽家も、分野を問わず色んな者が交わり、議論を戦わせ、冗談を言って笑いあい、歌に聴き入った。フレデ爺さんは若い芸術家にとって、親父のような存在だったのだろう。

 

 ラパン・アジルを支えたもうひとりの立役者は、実際に役者であり当時のキャバレー界の人気歌手であった、アリスティッド・ブリュアンという人である。

 名前を聞いてピンとこない方も、ロートレックのポスターの男といえば「ああ」と思われるかもしれない。黒い帽子に黒いマントで赤いスカーフを巻いた男の図柄は、今でも土産物屋で「黒猫」のモチーフと同じぐらい使われている。

 有名キャバレー「シャ・ノワール」や自身の店「ミルリトン」で活躍したブリュアンは、ブルジョワの家庭に生まれながらも父親のアル中と破産により学業を諦め、労働者として生きることを余儀なくされた苦労人である。キャバレーのテーブルの上に立って庶民の憂さや苛立ちを歌い、露骨な言葉で金持ちを攻撃する姿は拍手喝采の的だったという。彼はまさに底辺に暮らす者たちの代弁者だった。

 都市開発のためにラパン・アジルが存亡の危機に瀕したとき、店を買い取って守ったのがこのブリュアンだ。彼がいなければ、とっくにここもアパートに建て替えられていただろう。彼はその生涯をモンマルトルの守護聖人のごとく生きた、伝説のスターなのである。


 ラパン・アジルは現在も営業を続けている。牧歌的な風景が今なお残るこの片隅で、ベル・エポックから現在までのモンマルトルを見守ってきた生き証人のようなキャバレーである。



 * * *


 モンマルトルは奥が深く、知れば知るほど興味が湧いてくる場所だ。ここでは書ききれなかった逸話、もうとっくに忘れ去られた歴史の遺産が、この界隈にはまだひっそりと残っている。それぞれの時代を生きた者たちの情熱や欲望や挫折や喜び哀しみが、石畳の坂道の中に沁みこんでいるように感じる。

 それでいて、誰をも受け入れる器の大きさ、親しみやすさがある。初めて足を踏み入れた者にさえほんのりとした懐かしさを感じさせるのは、先人への尊敬と愛情が街のいたるところに溢れているからではないだろうか。

 街というのはどんどん進化するのが常だけれど、残したいもの、大切にしていきたいものは、現代を生きる人間しか守れない。モンマルトルはパリの中にあって、一番それを強く感じさせる場所なのである。

 


 了

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モンマルトルはお好き 柊圭介 @labelleforet

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