第3話 モンマルトルに愛された女

 サクレ・クールの足元にあるケーブルカー乗り場には「シュザンヌ・ヴァラドン広場」という名前がついている。


 シュザンヌ・ヴァラドンと聞いてすぐに誰か分かる人はおそらく美術を勉強したことがあるとか、印象派の時代に詳しい方ではないだろうか。本国のフランスでも知名度は決して高くない。同じ時代に活躍した芸術家たちが多すぎて埋もれてしまっている印象もある。しかし、この人ほど枠にとらわれない生き方をした女性はいないと思う。そういう意味ではモンマルトルに絵描き多しといえども、唯一無二の存在である。


 洗濯女の私生児として生まれ、5歳の時に母とともにモンマルトルに移り住む。

 この時代、労働者階級の私生児に生まれることは、世の中の底辺に暮らすことを余儀なくされるのと同じである。例にもれず、ヴァラドンも子どもの頃から様々な職を転々とした。

 15歳の時にサーカス団に入ったが、ケガがもとで断念。それから彼女はピガールなどの歓楽街をうろつき、この街へ移り住み始めた画家たちと知り合い、彼らのモデルとなる。


 きりりと濃い眉毛に射抜くようなまっすぐな視線、キュッと閉じられた唇。絶世の美女というわけではないが、彼女のポートレートからは可憐な少女の部分と硬質な色気、そしてどこかしら開き直ったような強さを感じる。その佇まいにはどうにも画家たちの創作意欲をかきたてるものがあったのだろう。彼女はあっという間にルノワールやピュヴィ・ド・シャヴァンヌ、ロートレックなど数々の画家たちを魅了してしまった。そしてモデルとしてだけではなく、彼女はこうした崇拝者と肉体関係でも結ばれていく。


 18歳の時、ヴァラドンは父親の分からない子どもを身ごもった。生まれた男の子はモーリスと名づけられ、のちに推定上の父親であるユトリロという美術評論家から認知を受ける。これが白の風景画で有名なモーリス・ユトリロである。ヴァラドンは皮肉にも私生児の母という、自分の母親と同じ運命をたどっているのだ。

 

 こういう生き方をすると、世間ではふしだらな女とみなされるだろう。モデルという社会的地位の低い職業もあいまって、下手をすれば使い捨てにされるのが関の山だ。

 しかしヴァラドンはそうはならなかった。彼女は母と息子のために裸でポーズをとりながら、キャンバスの向こうにいる男たちの筆の動きをしっかりと見ていたのである。そして自らもコンテを握ってデッサンをするようになる。


 彼女の才能にいち早く気づいたのは、同棲相手でもあったロートレックだった。ロートレックはたまたま目にした彼女のデッサンに才能を見出し、エドガー・ドガへ師事するよう勧める。こうしてヴァラドンはドガのもとで本格的に絵を学び、さらに腕に磨きをかけることになるのである。

 それにしてもなんという豪華メンバー。彼女がつきあった面々は、今の絵描きがよだれを垂らしそうな名前ばかりだ。


 しかしここで思うのは、こうした男たちがヴァラドンをただのモデルや性の対象として扱うのではなく、才能を認めればしっかりとバックアップをする気概があるということだ。ひとりの芸術家の芽を育てたいと願うとき、それが女であろうと身分が低かろうと関係ない。これは旧式の考え方に支配されない、器の大きなモンマルトルの文化がそうさせたのだと思える。もしも他の界隈だったら、彼女は画家として成功しただろうか。誰の子か分からない子どもを育てながら自分の絵の才能を開花させていくヴァラドンの人生は、モンマルトルという土地でないと成り立たなかったようにも思えるのだ。


 ところでヴァラドンの絵はどんな風かというと、大胆なラインと鮮やかな色遣いが特徴である。人物は太く意思をもってくっきりとふちどられ、線に迷いがない。そこへ乗せられる色は対象色が多く、特にハッとするような青の使い方は印象的だ。とにかく個性の強い絵ばかり。女性だからパステル系の柔らかい作風では、とイメージしがちな頭にはいいパンチを食らうだろう。


 ヴァラドンは女性で初めて国民美術協会の会員となり、精力的に展示会に出展する。当時は女性が裸体を描くのは不謹慎とされていたが、そんな壁も軽々と越えて多くの裸体像を制作。『アダムとイブ』や『網を打つ人』では、ご法度だった男性のヌードを描いている。彼女は時代の反逆児でもあり、後続の道を作った人でもある。

 

 ちなみに息子のモーリスの絵は風景画が多く、情緒的で繊細な絵だ。この親子にはまた別のドラマがあり、この母を持つことは息子としては苦しかったろうと思う。しかし、ひとりの絵描きとしては、ユトリロはヴァラドンを尊敬すべき存在として敬い続けた。


 ふたりが暮らした家は、現在モンマルトル美術館として公開されている。もともとルノワールがアトリエにしていた家で、展示品もそうだが建物自体がすでに貴重な文化遺産である。ルノワールの絵に描かれたブランコが再現されている中庭も情緒があって、周りの喧騒が嘘のように感じる。

 美術館があるコルト通りは低い家々が並ぶ石畳の坂道で、石壁には蔦が這う非常に風情のある通りだ。土産物屋のないモンマルトルを歩きたいときはこのあたりをお勧めする。


 

 さて、コルト通りを下り、突き当たりのソール通りを右へ折れてさらに下っていくと、交差点の丘の斜面に意外な景色が広がっている。

 それはモンマルトル産のワインの原料となる、葡萄畑である。

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