第2話 白亜の寺院、サクレ・クール

 サクレ・クール寺院へ行くにはいくつかの方法があるが、僕は丘の中腹にあるアベス駅を使うことをお勧めする。なぜなら、この駅自体がアール・ヌーヴォーのオブジェのような、非常に絵になる外観をしているからである。

 深緑色の装飾的な鉄骨柱に掲げられた「Métropolitain」の飾り文字。パリのメトロの入り口によく見かけるデザインだが、アベス駅にはそれに加えてガラス張りの屋根がついている。帽子のつばのように柔らかくカーブを描いて広がっているところがなんとも美しい。アール・ヌーヴォーというと少し奇抜でキッチュな印象があるが、これが意外と周りの風景にしっかりと溶け込んでいる。


 アベスの周辺にはレストランやカフェや雑貨店などが軒を連ねていて、駅を出た瞬間から、もうモンマルトルの下町の雰囲気が全開である。すぐそばの公園には、世界各国の言語で「愛しています」と書かれた「ジュ・テームの壁」があって、ひそかな人気スポットとなっている。

 

 さて、ここから適当に坂道を登っていけばどこを通っても自動的にサクレ・クールへ着くのだが、この道のり、なかなか足に来る。傾斜が強く、階段だらけで息が上がる。どこから向かおうがとりあえず坂の街の洗礼を受けることになるのだ。

 歩くのがつらい方は、サクレ・クールの石段の下から出ているケーブルカーで登るのがいいだろう。しかし、個人的にはこの下町の雰囲気を感じながら石段を登ってゆるゆる近づいていく方が面白いと感じる。ややこしく曲がりくねった道を彷徨い、本当にこの通りでいいのか、と不安になった頃に突如視界に入るドーム型の白亜の寺院は、なんともいえない感慨を与えてくれるのである。


 モンマルトルといえばサクレ・クールというぐらい、今やもう揺るぎのない観光名所だが、どれだけ歴史が深いかと思えば、できあがったのは20世紀の前期。そもそも1870年から71年の普仏戦争の戦没者を弔うために建てられたのだが、一般に公開されたのは第一次大戦のあとである。エッフェル塔が造られたのが19世紀末なので、それよりも若いというのがちょっと信じがたい。


 中央の大きなドームの左右に小さなドームがふたつ。てっぺんに角が生えたような特徴のあるロマネスク・ビザンティン式のかたちは愛嬌と威厳の両方を備えている。個人的に一番好きな教会はノートルダムなのだけど、この丸屋根にはゴシック式とは違うおおらかさを感じる。

 そしてなにより、いつも洗い立てみたいな真っ白な美しさ。

 これには材料となった石の質が関係しているらしい。


 サクレ・クールに使われている石は、表面を覆っている層が雨と接触したときに白い物質を分泌する。それが太陽光に当たると硬化して、保護膜のような白いベールを作るということである。簡単にいえば、雨が降るたびに表面を洗っているようなものだ。晴れの日に寺院があそこまで眩しく見えるのは、郊外の石切り場から特注で運ばせたこの材料のおかげということである。


 青空の下でくっきりと白くそびえ立つ姿もいいが、夜にライトアップされたときの眺めも素晴らしい。昼間とは違って輪郭がうすれ、白くぼんやりと浮かび上がるドームには幻想的な美しさがある。これは近くで見るのもいいし、丘の麓から見上げるのもいい。曲線的なフォルムが妖しさを醸し出し、教会らしからぬ色気がある。


 観光シーズンは入場するのに行列ができるほどだが、少し時期を外した夜間に中へ入ったときが印象的だった。

 昼間の観光名所の顔が消えた聖堂は、物寂しいほどに静かだ。ぽつりぽつりと数えられるほどしか人がいない。おそらく地元の住民だろう。

 椅子に座ってただじっと祭壇を見つめている人、頭を垂れて黙々となにかを祈っている人。物音ひとつ立てるのも憚られるような静寂がそこにはあった。その静寂が体の内側にも沁みこんでくるような、冷たく神聖な空気があった。


 サクレ・クールに限らず、教会はぐるりと見て回るだけではもったいない。古びた木の椅子に腰かけて、しばらくぼうっとするだけでもいい。それだけで不思議と心が落ち着く。何かを浄化するような心地になる。そこにはきっと「祈り」という人間の根源的で真摯な気持ちが詰まっているからではないだろうか。



 さて、サクレ・クールの裏手から土産物屋の並ぶ通りを過ぎると、絵描きのメッカであるテルトル広場へ出る。キャンバスを前に風景画や似顔絵を描く画家たちの姿はおなじみの光景だ。忘れてはならない。モンマルトルは画家の街である。

 

 ルノワール、ドガ、ゴッホ、ロートレック、ピカソ、モディリアーニ……。モンマルトルゆかりの芸術家を挙げたらそうそうたる名前が並ぶ。


 しかしそのなかでも異彩を放つ者がいる。モデルとして多くの画家に愛され、自らも絵描きとなり、母として、ひとりの芸術家として図太く生き抜いた時代の反抗児のような女。シュザンヌ・ヴァラドンである。

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