モンマルトルはお好き

柊圭介

第1話 殉教者の丘と風車小屋

 モンマルトルはパリの北部18区にある、丘を中心とした地区である。


 名前の意味は「殉教者の丘」。

 3世紀、パリ(当時のリュテス)で最初の司教となった聖ドニという人が、この丘で斬首刑に処されたのがその謂れである。殉教した聖ドニは、自分の首を抱いたまま北へ歩き、そのあと命尽きたという。(その場所がパリの北の郊外にあるサン=ドニであり、聖人が息絶えた場所にはサン=ドニ大聖堂が建っている。)


 聖人の絵画や彫刻はたくさんあるが、聖ドニは一度見たら忘れられないほどインパクトが強い。なにしろ頭がないのだから、一見するとちょっとホラーだ。自分の首を手にして立つ聖人の像は、厳かでかつ生々しく、殉教という言葉がリアルに迫ってくる姿である。

  

 いきなり物騒な話からはじまって恐縮だが、そういうわけで「モンマルトルMontmartre」=「殉教者Mont desの丘 martyrs」は、パリになる以前から有名な言い伝えを持った場所なのである。


 

 モンマルトルがパリの中に入ったのは19世紀の中頃と、比較的最近(?)のことだ。パリが現在のように20区の編成になった時に統合されたのだが、当時の絵画や写真を見ても、風車小屋の立つなんとも田舎っぽい景色であり、今のような観光地になるとは想像ができない、のどかな風景である。


 19世紀中期から後期にかけてのオスマン知事による改造で、パリではそれまでの古い家々や道が多く取り壊された。その中で住処を失った人々は、家賃の安い場所を求めてモンマルトルへとやってくる。多くは労働者階級や芸術家たちで、娼婦や犯罪者などもその中に紛れていた。なので決して華々しい地区ではなく、むしろ場末のような危なっかしい雰囲気があった。現に今でも18区にはそういう部分が多くある。

 しかし別の見方をすれば、このような環境だからこそ、自由なボヘミアン文化が生まれ、芸術が発展し、ハイソなエリアとはひと味違う個性が育っていく土壌になったともいえる。


 ここには他のエリアにはないノスタルジーがある。複雑に入り組んだ小路や、石畳の多い坂道、今でも残る低い建物。オペラとかサン・ジェルマンなどのオスマン式の建物が整然と並ぶ界隈に比べればいまひとつ垢抜けないのだが、かえってその素朴で憧憬を誘う景色が、人々の心をとらえるのだと思う。


 ノスタルジーを誘うもののひとつに、この街のシンボルともいえる風車小屋がある。


 モンマルトルの麓、メトロのブランシュという駅から、ルピック通りという道がのびている。丘に向かって坂道になっている活気のある商店街だ。この通りには、映画『アメリ』で主人公が働いていた「カフェ・デ・ドゥ・ムーラン」がある。「ふたつの風車」という意味である。


 実際、このルピック通りを道なりに進んでいくと、坂の上に現在も残るふたつの風車を目にすることができる。

 ひとつはルノワールの絵で有名な「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」という屋外ダンスホールの入り口にある風車。現在は小さいレストランで、中身よりもどちらかというと外観重視の写真スポットのようになっている。

 もうひとつはそのすぐそばの私有地の中にある風車。なので立ち入りはできない。こちらの方は全体像が見えないのが残念だが、昔はムーラン・ド・ラ・ギャレットの敷地はこのふたつの風車のあいだにあったというから、かなり広いダンスホールだったと分かる。ほとんどの人は現在のムーラン・ド・ラ・ギャレットの方に目を取られてしまうけれど、この隠れ風車の控えめな佇まいもいい。

 どちらにせよ地味な建物が並ぶ通りに突如ニョキっと風車が生えている光景は一見の価値ありだ。昔の田園風景をしのばせる、モンマルトルには欠かせないアイテムである。


 そういえば赤い風車が目印のキャバレー、「ムーラン・ルージュ」があるのもメトロのブランシュ駅の目の前だ。この風車は昼間見るとただの巨大オブジェなのに、あたりが暗くなり、看板に真っ赤なネオンが灯ると途端に迫力と貫禄が出る。さすが老舗のキャバレー。フレンチカンカン発祥の地。


 ブランシュ駅とその隣のピガール駅は、丘の麓のクリシー大通りに面している。この一帯はショーパブ・ストリップ・アダルトショップなどが立ち並ぶ一大歓楽街である。決して危なくはないけれど、露骨なネオンには欲望まる出しな感じが否めない。男女のカップルで歩いたらそこそこ気まずいんじゃないかな、とは思う。賑やかさといかがわしさが混在しているところは新宿の歌舞伎町と似ている。夜の顔に興味のある方はぜひ日が暮れてからいらっしゃいませ。


 

 さて、メトロの駅といえば、モンマルトルの中心に位置するアベス駅。散策に最も便利な駅である。曲線的なアール・ヌーヴォーのアーチがかかった入口が、周囲の景色にもよく似合っている。この付近であればピガールのような怪しさはいっぺんになくなるので、夜でも安心して歩ける。なにより下町らしさがぐんとアップするので、ただ散策するだけでも楽しめる界隈だ。


 では、次はこのアベス駅からモンマルトルの象徴である白亜の寺院、サクレ・クールまで足を延ばしてみよう。

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