2‐4
自宅へ人を呼ぶことに静馬は多少の抵抗を覚えた。そこにはある種のやましさめいた不安があったからだ。そう、疚しさだ。まだ自宅に、あの夏の気配を残したままにしていることを誰にも知られたくなかった。
シャワーを浴び終わったニカが礼を言いながら、部屋に戻って来ると、静馬はなるべく彼女の方を見ないよう、ベッドに腰を掛けたまま、テレビを注視した。
ニカが部屋のことや、そこに満ちた空気について、何も聞かないことを祈った。紺青色に染まった空がテレビ越しの窓から透けて見える。土砂降りの夕立は上がり、やけに澄んだ夕陽が雲の切れ間から、光の筋を放っていた。
「これ、彼女さんのですか?」
窓に反射したニカがTシャツを仰ぎながら、言った。
「ああ、」
静馬は短く返した。確かに、貸してやった恐竜博のTシャツは彼の彼女、
テレビでニュースキャスターと着ぐるみの鳥が、明日の天気を伝えていたが、目も耳も一切受け取らなくなっていた。
スマホが鳴った。
スマートフォンの唸る振動音に、つい視線はそちらへと流れた。画面には渡会教授からのメッセージと、ロック画面に設定してあった一枚の画像が表示されていた。
バイクに腰を掛け、ソフトクリームを食べる彼女―恵梨香の写真。昔、ツーリングに行った時に取った写真だ。咄嗟に隠したいという気持ちに襲われたが、既に遅かった。
「1年、 ですか?」
ニカはスマホを手渡しながら、静馬の隣へ腰を掛ける。
「8月で丁度1年になる」
応えると、ゾッとする様な悪寒が体中を駆け巡った。
あの夏― 恵梨香が死んだあの夏が、今この瞬間戻ってきたような感覚に陥った。
恵梨香と出会ったのがいつだったか、もう忘れてしまった。何がどうなって、そういう方向に転んだのかは分からない。だが、大学1年の夏には既に恵梨香と付き合い始めていて、静馬は嫌な駆け引きや気遣いのない平穏な恋愛がこの世に存在していることを知った。
デートはもっぱらツーリングだった。食事や買い物はお互い興味が無かったし、何より彼女の方が静馬のバイクに興味を示した。バイクの後ろへ乗りたいとせがむ恵梨香を、危ないからといなしたこともある。それでも彼女は
「だってそれ、二人乗りしてもいいやつでしょ? だったら、二人で乗らないと何か損じゃん。それに、岸田君の背中で風を凌いでるとき、なんか安心するんだよね。なんか、子供の時に戻ったみたいで」
二人で一つのバイクに乗り、どこへでも行った。行った先が着いた所。目的地や辿り着いた先で見る夜景はいわばおまけだった。必要以上の言葉を交わさない。恵梨香の温もりを背中に感じながらどこまでも、風の中を進んでいくのが気持ち良かった。
その日も、そうしてツーリングに行った翌日であった。
海老名までドライブした後、静馬の自宅に戻り、くたくたの身体でセックスをした。寝て起きると、翌日の夕方で酷い夕立がベランダを叩いていた。
ベッドに恵梨香の姿はなく、彼女はキッチンで何かを作っていた。
「起きた? 夜ご飯、作っといたから。あとで食べなよ。私、雨やんだら帰るからさ」
寝返りを打ちながら彼女の言葉を聞いた。どうして一緒に夕食をとらないのか、この後何か用事でもあるのか。少し気になったが聞かなかった。
夕立が止むと彼女は約束通り、帰り支度をして部屋を出て行った。
「あ、今度行くときはさ、海老名のサービスエリアでメロンパン食べたい」
それが、恵梨香と交わした最後の言葉だった。
家を出た彼女は少し先の路地で、信号無視したトラックに跳ねられて死んだ。
辺りの騒がしさに目を覚まし、部屋を出た時には、何もかもが終わってしまった後だった。
静馬の頭に先日見た、規制線の光景がフラッシュバックした。あの時も同じだった。
現実を分断するように貼られた規制線と群がる雑踏。その僅かな隙間から、見覚えのある青いバッグと大量の血痕が見えた。はるか遠く、黄色いテープの向こうで恵梨香は、この世から消えたのだ。
消えてしまったのは彼女だけではなかった。その日を境に静馬の世界は前を進むのをやめ、あの夏の日、それ以前、何もかもがあり、誰もが生きていた時間の中に全てを閉じ込めてしまった。
「忘れられないんですか?」
耳元でニカの声がした。忘れる忘れないの話ではない。心がそこから離れようとしないのだ。理性や感覚で掴んでいる死や別れ、それをどうにかしたいという捉えどころのないあがきが、いつまでも静馬の心をその場所に縛り付けているのだった。
「だから、バイク、調子悪くっても捨てられないんですね」
締まった喉に唾液を流し込むと、胸が押し広げられるように痛んだ。彼女の言う通りだ。あの夏を保っていたもの、内包していたものを手放すことが出来なかった。二つ残った歯ブラシも、恐竜博のTシャツも、彼女が作り置きした料理も、そして彼女と旅したバイクも。
「恵梨香さんの事、まだ好きですか………?」
答えられなかった。答えはあるはずなのに、どこにもなかった。
「ねぇ、先輩………私が、新しい彼女じゃダメですか?」
ニカの手が静馬の太ももと左手に触れた。
「先輩。私がいつも先輩と鉢合うの、偶然だと思ってるんですか?私は先輩の役に立ちたいんです。なんでだと思います? だって、先輩の役に立てば少しは好きになってくれるかなって……あのブタの遊具を知ってたのだって、偶然じゃないんですよ? 私、先輩のために必死で画検して……」
彼女の頬は紅潮し、目元は潤んでいる。
「先輩。先輩、私、本当に先輩のことが―」
絡みついて来るニカの手を静馬は払って、首を振る。
「………ごめん、ニカ。今は…………誰も好きになれそうにない…………」
ニカは笑った。
「今はもう誰も、愛したくはないよ、ってアリスの歌みたいですね、先輩」
「悪い、俺は本当に……」
刹那、顔を近づけてきたニカから逃れようと、静馬は反射的に身を逸らしベッドへ仰向きに倒れてしまった。
上から圧し掛かる形になったニカがうつろな目を向けて来る。
「先輩……」
「ニカ、」
「もう、忘れてもいいと思いますよ。そんなに過去に捉われていたら、前へ進めないですよ。だから私が―」
体を重ねてきたニカに耐え切れなくなった。色々な物が爆ぜて、ぐさり突き刺さってくるような衝撃があった。静馬は彼女を突き飛ばすと、息を吸いながらベッドから立ち上がった。
「お前に、お前に何が分かるんだよッ! 前に進めない? 過去に捉われてる? じゃあ、じゃあお前はどうなんだッ、昔の曲や映画、漫画、手の届かない過去へ捉われているのはお前も同じじゃないかッ!」
耳鳴りがして、軽く眩暈を覚えた。火照った体を扇風機の冷たい風が舐め、やがて手も足も動かなくなった。ニカの表情や子細な挙動が見えない。ぼやけた視界で彼女の影が動いていることだけ分かった。
彼女は後退るとそのまま姿を消した。そして、ガチャッと玄関の閉まる音がした。
慌てて外へ飛び出した時には既にニカの姿はどこにもなかった。アパートの前の道へ出て来ても、車が走り去っていく様子さえ見止めることが出来なかった。短いため息を吐いて、頭を掻きむしる。いわれのない罪悪感とそこに垣間見えた現実に、胃の奥がギュッと冷えて行く。
雲に陰った月を仰ぎ、自分の部屋を振り返った。突然、強い虚脱感に包まれていた体が緊張し、ほんのひと時呼吸を忘れた。
街灯のまばらに立つ暗い街路が奇妙に広く、空虚に感じた。だだっ広い空間の持つ、冷ややかな気配が静馬の背中にはいすがり、二つの強烈な視線となって投げかけられていた。
人ではない、なぜかそう思った。
感覚が混乱し、なぜ自分がこんなことに捉われているのか全く分からなくなった。背後にいるのは何か。それが人間ではないとすれば、一体―
ぬるい大気の中、両手がかじかんでいた。
静馬はゆっくりと振り返ってその視線を辿った。
が、そこには何もいなかった。寂しい電灯が等間隔に夜の闇へ続いている。
溜まっていた息を肺から一気に吐き出す。よく見ると、一番手前の街灯の下、蕾のままで自生したイオテリスが生えていた。きっと岡安の家から飛んできたのだろう。
『きっと、あの花咲いたら綺麗だろうなぁ』
恵梨香の声が闇の中から聞こえた様な気がした。
つづく
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