さよなら人類

3‐1

 猫屋敷 澪から連絡があったのはその数日後だった。二人で食事がしたいと呼び出された新大久保の個室居酒屋は、一見それと分からない店構えをしていた。

 店先には看板や店名を示す掲示はなく、銀色の金属プレートが黒いスライドドアに埋め込まれているだけ。凡そ、客を呼び寄せるという事を否定したような入り口だった。


 入店すると店は薄暗く、暖色の間接照明だけがぼんやりと漆喰の壁を照らしている。通路には白い玉砂利が敷かれ、隅の方に椿を刺した花瓶が照明に照らされてあった。

 玉砂利の上に敷かれた飛び石を踏み、奥へ進むと、それぞれの個室に続く襖が廊下の左右にずらっと並んでいる。

 レジに控えていた店員に澪の名前を告げ、静馬は奥から3つ目の部屋に通された。部屋は4畳と少し上がり框のあるこじんまりとした個室で、掘りごたつの上に年季の入った黒い木製のテーブルが渡してあった。


 澪は入ってきた静馬に気づくと、スマホから顔を上げ、あの何とも言えない妖艶な笑みを返してきた。

「お酒、好き?」

 向かい側へ座る静馬に澪は尋ね、メニューを表らしき紙を一枚よこす。好きなのを頼んでいいと澪は言ったが、そこに記されていたのは殆どが日本酒で、正直名前を知っている物は皆無に等しかった。加えて、値段も載っていない。迷った挙句、静馬は澪が頼むという日本酒と同じものを頼んだ。酒が出てくるまで、二人は無言のまま待った。布巾で手を拭きながら部屋を一望する。ここに至るまでの雰囲気に、一介の大学生が利用できる店ではないのではないかと静馬は思った。


「ここ、魚がおいしいのよ」

 澪がぽつりと言い、

「先輩はこういうお店、よく来られるんですか」

 と静馬は返した。

「ええ。頻繁にじゃないけどね」

 相槌を打ち、静馬は自分の腰のあたりに小さな窓があることに気づいた。開閉不能のその小窓から、苔むした中庭らしき場所が僅かに見える。幾らか涼しくなった夜気の水分を集めた苔は薄く、濡れそぼっていた。


「来てくれてありがとね。正直、断られると思ってた」

 フッと澪の方を見たが、彼女はメニュー表に顔を落とし、一瞥もくれない。いえ、と軽く返した静馬だったが、彼も別に傷ついた心を癒そうと思って誘いに乗ったわけではない。むしろ、その逆。ニカとの一件があって、それまで心の中で抱いていた靄にある決心がついた。その決心はゼミ長である澪に伝えなければならなかった。


 名前のよく知らない酒は、なかなかキツイ余韻を口内に残した。澪はグラスに入ったそれを一気に飲み干すと、二杯目はウイスキーを頼んだ。

 琥珀色の液体に浸かった角氷を指で触りながら、澪は顔を上げ、静馬を見据えた。

「聞いたわ。井の頭公園のこと。あなたが見つけたんでしょ? あれ」

 そう言いながら、澪はスマホの画面を静馬に見せた。あの日、ニカと見た巨木と原始的なシダ類が画面に映っている。画面の隅の方には、ゼミ生の姿が数人見て取れた。


「今日ね、丁度実地調査してきたの」

 渡会にその異変を伝えた数日後、やはり彼はゼミ生を連れ立って調査に出かけたらしかった。

「すごかったわよ。大きいなんてもんじゃないし、無尽蔵で無秩序。植生なんてお構いなしにどこまでも多種多様な植物が広がってるの。でも、それだけじゃない」

「それだけじゃない?」


「ほらこれ、」

 そう言って澪が画面をスクロールすると、同じような植物の写真が次から次へと現れた。彼女はあとは自分でと、スマホごと静馬に手渡して、ウイスキーのグラスを片手に持った。

「新宿御苑、代々木、上野、駒沢、それから武蔵野公園も。同じような植物が見つかってる」

 返答を忘れ、しばらく静馬はその画面を見つめていた。何かは分からない。しかし、その微かな異変の兆候は明らかな不穏因子として、彼の中で萌芽しそうになっていた。


「教授が言うには、武蔵野公園が西端として、そこから南下するように現象が広がっているそう。まるで、何かが伝播するようにね………ねぇ、岸田君。こういうのって、あの花、イオテリスの仲間なの?」

「ええ。そうです。どれも白亜紀後期に自生していた植物によく似ています」

 画面を見つめながら、静馬は澪の言葉に生返事した。画面に映っている植物は確かに異質で、異常事態だ。しかしそれよりも奇妙なのは、どの植物もまるでずっと昔からそこに生えているような雰囲気があることだ。

 あの時、ニカと見た大木もそうであった。百歩譲って、絶滅したと思われていた植物が何らかの偶然によって、発芽し成長したのであれば分かる。いくらか飛躍しているとはいえ、それは常識の範疇、筋道だった論理の先に説明できる。

 だが、画像やあの巨木はいうなれば、現代の植物が過去の植物と入れ替わってしまったようにしか見えない。それは常識や理解、そして自然の摂理から逸脱していた。


「ねぇ、岸田君。例えばだけど、こういう気温や植生も違うような植物が勝手に生えてくることって難しいの?」

「そうですね………植物が環境を選ぶと人は考えがちですが、環境が植物を選ぶと考えた方が自然です。だから、たとえ、太古の植物の種子が何らかの理由で現代まで残留していて、それが自然に発芽したとしても………」

 可能性としてはゼロでなくとも、限りなく低いことに変わりはない。静馬はしばらくの間、澪に伝えようとしたことも忘れスマホの画面を食い入るように見入った。

「じゃあ、イオテリスみたいに人工的に飼育すれば可能?」

「まあ……それなら……」

「なら、

 静馬はスマホから視線を外し、澪を見た。彼女は細く鋭い眉を動かし、首をかしげる。


「僕が、ですか?」

「ええ。岡安君はあの花を自分で育てたでしょ? それぐらいの事って、岸田君にも出来るのかなって」

「先輩はこの写真の植物も誰かが作ったと?」

 澪は飲みかけのグラスを持ったまま、目をパチパチさせ少し黙りこくった後、微笑した。

「そうじゃないけど、可能性の問題よ。ほら、もしも、岸田君でも珍しい植物を育てられるのなら、ほかの人が作れたって不思議じゃないでしょ?」

 静馬は少なくなったグラスの水滴を指で拭い、呻吟する。

「確かに、植物は一定のプロセスと段階を踏めば、誰にでも育てることは可能です。ただ―」

「じゃあ、岸田君や岡安君みたいに動植物全般に覚えがある人なら尚更って感じか……」

 しかしそうとは言え、見たこともない植物を育てるのは誰もが出来ることではない。現にイオテリスはあれだけ厳重な環境においても、たった一つしか発芽させることが出来なかった。岡安にそれが出来たのは、正に天賦の才以外の何物でもない。植物を育てるプロセスは確立されていても、そこに絶対的なセオリーなど存在しない。生物という存在はいついかなるイレギュラーが発生し、異変をもたらすのか誰にも計算など出来ないのだ。

 澪は微笑を浮かべたまま、指でグラスをかき混ぜ、指先に付いた水滴をそっと舐めとった。


 途切れた会話を埋めるように静馬は口を開いた。

「先輩、その岡安なんですけど、」

「今日はその話、なしにしない? 岡安君がいなくなっちゃったのは心配だけど、あなたも例外じゃないのよ。岸田君」

 澪は静馬の手をそっと取った。彼女の手は冷たく、白い陶磁器のようであった。

「私はあなたも心配。あんなことがあって、それからゼミにもほとんど来ていない……無理に出てこいとは言わない。でも、私でよかったらなんでも……」

 静馬は唇を噛みしめ、逡巡した後答えた。それを伝えることが今日来た目的でもあったのだ。

「ゼミ。辞めようと思ってるんです」


 ゼミへ行かなくなったのには理由があった。ゼミが恵梨香との特別な場所だったというわけではない。いわばそれは日常だった。しかし、それがあまりにも平凡な普遍の日常であったが故に、喪失感はひとしおだった。

 渡会ゼミに所属したのは、古生物を研究するため。思い出を作るためでも、まして仲良しクラブをするためでもない。最初は研究に熱中することで、恵梨香の思い出を乖離させようとしたこともあった。しかし、ふとした瞬間、恵梨香の気配を感じる。喪失感を見る。時折、岡安の存在が気分を和らげることもあったが、どうやっても取り戻すことのできない日常を渇望することは、あまりに彼の心身を疲弊させた。そうして、静馬はゼミへ行かなくなった。


 無くしてから気づくと人は言う。台風の目の中にいるのと同じ。自分が今、青春の渦中にいてそれを心の底から謳歌しているなどと、その時は考えもしない。恵梨香や岡安がいる空間。それが青春だった。

 だが、2人はいない。もう充分だ。

 過去に囚われていれば、前へ進めないとニカは言った。その通りだ、人間はどんな時でも前に進まなければならないし、前に進むことしか出来ない。過ぎ去った過去の中で生きることなど誰も出来ない。しかし、正しいことが人を救うとは限らない。未来は常に不定で、真っ暗だ。そこに幸福や成功がある保証などどこにもない。それを希望だと思う人もいるかもしれない。だが、静馬は恵梨香の死を過去と割り切って、暗闇の中に分け入っていくことはとても出来ないと思った。自分はそこまで強い人間ではない。


 ならば―


 もう前に進まなくていい。

 静馬は思った。これ以上、過去への上書きさえやめてしまえば、記憶はクリアなままそこに残り続ける。

 また、何かを失ってしまうのはごめんだった。

 彼にとって、ゼミを止めることは過去を永久に保存する手段だったのだ。



「どうしてもやめるの?」

 帰り際、澪はレジ前で店員にクレジットカードを手渡しながら、再三尋ねた。それは2時間余り続いた説得の、最後の一押しだった。


 今日一日で、猫屋敷 澪という人間がいかにとらえどころがないのかを、静馬は痛感した。よく考えてみれば、同じゼミに所属していながら彼女の事は何も知らない。今日も見るからに呼吸そうな居酒屋に招きながら、その実彼女の金回りの良さの理由を知らない。

 神妙な面持ちで、静馬の進退を憂惧ゆうぐする澪に別の意図を汲み取ろうとしてしまうのは、あまりに邪推だろうか。しかし、彼女の目や口の動きは一種の警戒心を抱かせる。彼女がそこまでして、自分を引き留めようとする理由が静馬には分からなかった。


 もしか、と静馬は思う。ゼミ生が減ってしまう事を危惧しているのではないか。だとすれば―

「大丈夫ですよ。岡安を探すのはまだ続けるつもりですから。彼が戻ってくればゼミも―」


 静馬の言葉をレジが発した電子音が遮る。

「お客様、こちらのカード、お使いできないようですが」

 店員が言って、カードを返すと澪は「ああ。じゃあこっちでお願い」と別のカードを差し出す。


 同じやり取りが二度ほどあり、澪は首をかしげながらヴィトンらしき財布を弄り始めた。

 やがて、手元が狂った彼女の手から財布が滑り落ち、玉砂利の上へ無数のクレジットカードがぶちまけれた。澪はしゃがみ込み、長髪を耳にかけ、散らばったカードへ手を伸ばす。

「私ね。岡安君、もう戻ってこない気がするの」

 突然、彼女は言った。

「分からないけど、何となくそんな気がするのよ。彼はもう戻ってこない。あなたも、そう感じてるんじゃない?」

 何かに打ち据えられ、静馬はその場へ立ち尽くした。彼女の言う通りだ。もう岡安には二度と会えない気がする。理由や証拠などはない。だが、いやだからそこ、その直感には嫌な信憑性がある。


 店を出ると、霧のような雨が降っていた。霧雨がちろちろと舞っている様子は場違いな雪を思い出させる。

 むわりとした夏の夜気の中、かすかに甘い芳香が混ざっている。静馬が反射的に鼻を動かしたことで、澪もそれに気づいたようだった。

「何かの花のにおい………? なんだろ、私この匂い知ってる……」

 静馬も知っている気がした。しかし、それが一体何のにおいなのか、結局二人で駅に着くまで分からなかった。


 改札口で礼を言い、会釈をした静馬に澪はスッと持っていた紙袋を手渡す。

「これ、お土産」

 光沢のある袋の中には、金色の箱が入っていた。箱には箔押しの文字でGodivaと刻まれていた。

「あ、ありがとうございます」

 紙袋を受け取る静馬の手を澪は再び掴んだ。彼女のしなやかな手はさいぜんに増して冷たく、わずかばかり震えていた。

 彼女は口を少し動かし、一度しっかりと静馬を見据えてから、視線を下げた。深呼吸をした彼女は

「ねぇ、岸………、静馬君。あなたは、いなくならないでね」

 そう言って、少しだけ微笑んだ。



 つづき


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