3‐2

 体を薄い膜が覆っているような感じがした。ベッドの上で身をよじっても、今自分がどこにて何をしているのか、感覚を掴み取るのは難しかった。そこから先は時間が消失していた。

 薄目を開けてデジタル時計を確認する。澪との食事から、一週間近くたっていた。

 意識を浮上させようとすると、頭の芯に強い負荷がかかり、鈍痛が走る。体中を覆う倦怠感と腹の底から沸き上がる吐き気とは対照的に、心はどこか満たされていた。この一週間、どこへも行かず、誰とも会わず、まどろみに身を沈めて意識を分断していた。

 

 寝返りを打つと、腹が猛るように喘ぎ空腹を訴える。静馬はベッドから滑り降り、テーブルの上に置いてあったゴディバの包み紙を乱雑に破り捨てた。

 個包装されたチョコレートを手当たり次第に口の中に突っ込み、無心で咀嚼する。ほどなく、渇きがやって来て、水道から直接水をがぶがぶ飲んだ。喉の奥に肉の動く気配があり、胸が激しく動悸した。


 皮肉なことに空腹が収まることは、心が満たされるよりもずっと充足感があった。

 静馬は口を滴る水を拭いながら、部屋を見渡す。夏の―恵梨香の気配がそこら中にへばり付いていて、妙な安心感があった。

 再び顔を見せ始めたまどろみに、身を揺蕩えながらぼんやり岡安の事を考えた。彼は一体どこへ行ってしまったのだろうか。そんな思いをかき消すように、あの日見た半開きの襖が頭に浮かんだ。

 まだ、あそこを確認していない。

 気が付くと、財布を掴み部屋を飛び出していた。


 岡安の部屋に入るとノスタルジックな気持ちに襲われた。64のコントローラーや冷凍庫の上に置かれた鍋。恵梨香が死ぬまでは、この部屋でよく二人で飲み明かしたものだ。

 静馬はスマホを取り出し、武蔵野・殺人で検索をかける。その時、初めて自分が震えていることに気が付いた。

『何かに食いちぎられたような死体』、『欠損した四肢』、『酷い損傷』また、何かを失ってしまう。


 彼を探さなければと思ったのも、満たされていた頃をもう失いたくないという気持ちからであった。

 過去を失ってしまう寒気が隣の部屋へ向かう彼の足を押し留めた。振り払うのは至難の業であった。

 静馬は打ち消すように首を振る。

 と、僅かに開いたキッチンの小窓に何かがこびり付いているのが見えた。

「毛?」

 犬もしくは猫の体毛によく似た毛がひと塊、窓枠に引っかかっていた。毛はそこから床へ散乱し、辿っていくと隣室へ続く襖に至った。

 拳を握りしめ、ふぅと呼吸を整える。

 静馬は躊躇わず、勢いよく戸を引いた。襖がタンッと高い音を立て、部屋に光が差し込んだ。


 むんとしたより濃厚な異臭が部屋には充満していた。口と鼻を押え、中を覗き込むと、四畳もない狭い和室にぐしゃぐしゃになった布団が引いてある。見回してみても、人影は無く万年床と散乱したゴミ、押し入れの小さな隙間からシーツがだらしなく垂れているだけだった。数十分の間に想像した最悪の状態はどこにもない。


 乱れた布団の枕元にはSwitchとこち亀が伏せて置いてある。部屋の至る所に散乱していたのは菓子類の個包装であった。隣室からの日差しをキラキラと反射している黄金色のパッケージには、ゴディバのロゴが印字されている。部屋の四隅には個包装を入れていたと思しき、空き箱がうずたかく積み上げられていた。


 無残な岡安を見なくて済んだという安堵が、胸騒ぎに変わった。部屋に満ちる異様に気圧され、後退ると、右足が何かを踏み抜く感触があった。

 岡安のスマホだ。すぐのそれと知れたのは、彼がしていた特徴的なケースカバーのおかげであった。

 スマホは鉄芯のようなもので中央を撃ち抜かれたようにくの字にひん曲がり、力の集中した点には穴まで開いている。カバーが無ければ、彼の、それもスマホだとは判別できないほど破砕していた。

 何かがおかしい。逃げなければと警鐘を鳴らす頭とは裏腹に、静馬の目が背後にあった押入れの襖に吸い込まれていった。

 押し入れからしな垂れたシーツに赤黒い何かがべっとり張り付き、固く乾いている。何かの気配が押し入れの中から溢れだしていた。



「岡安……?」

 数歩近づいたその瞬間、唸り声と共に押し入れの襖が弾け飛び、静馬は全身でそれを受け止めながら後ろへ倒れ込んだ。

 凄まじい重量が襖の上にのしかかってくる。上部にいる何かは、低い唸り声をあげると、体を襖へ激突させ始めた。襖越しに、何かがどんッどんッと強く押す力が嫌という程伝わってくる。重さや鳴き声から判断しても、中々の図体をもった生物だと静馬は考えた。その重さを跳ね除けることはほとんど不可能で、彼は這って寝室、そしてその部屋から脱出しようともがいた。


 何かの執拗な攻撃にとうとう襖が限界に達し、丸く空いた穴から頑強な肉食獣の口が迫り出して来た。ほとばしる唾液と、固くかみ合わされた歯茎に情けない声を出し、静馬はがむしゃらに襖を足で蹴った。


 バランスの感覚が一気に崩され、静馬は襖を跳ね除けるようにして立ち上がり、居間へとなんとか後退した。が、それが限界だった。


 何かは自らの口に挟まった襖を振り払い、その姿を現した。

 絶句し、混乱した。

 体高1.5m。全長は3mにもなる生物。犬や猫、熊やイノシシとも違う。のっぺりと横に張り出した四足と長く突きだした口。典型的な獣弓類じゅうきゅうるいの特徴だった。


 ゴルゴノプス。目の前にいるその生物は既にこの世から絶滅した、原始的哺乳類の一種だった。

 目の前で起こっている現象を筋立てて考えたり、証拠や状況から議論する時間と隙を生物は与えてくれなかった。身を屈め、臨戦態勢に入ったゴルゴノプスは寝室をぐるりと一周し、飛んだ。


 生物の身体を受け止めた反動は予想以上だった。静馬は殆ど圧し掛かられるようにしてその場に倒れ、頭をテーブルに強く打つ。痛みを噛みしめる間もなく、ゴルゴノプスの長い口が首筋へ食い込んでくる。人間を全く恐れていない。慣れすら感じさせる行動だった。


 静馬は左手で生物の顎を抑え、空いた方の片手で反撃のための武器を手繰った。掴んだ固い塊をがむしゃらに生物へ打ち付ける。数撃で持っていた塊―64のコントローラーは粉々に砕け散り、静馬はコードを生物の口へ巻き付けて行った。

 ドロついた凄まじい臭気を放つ唾液が、胸元へぼたぼたと落ちてくる。ゴルゴノプスは横転すると前足でコードをかき取ろうともがきはじめた。


 逃げるならば今しかなかった。後天的な知識が背を見せてはいけないと訴えたが、生を求める本能はそれに勝った。無我夢中で玄関を開け、外へと飛び出る。

「せ、先輩………?」

 目の前にニカが立っていた。彼女は乱れた髪と唾液まみれの姿に唖然としていたが、かまわず静馬は彼女の手を取って走った。


 走りながら、肺を満たす匂いに気が付いた。甘い芳香。心の中の冷静な一部が、澪と会食したあの夜と同じ匂いだと脳に信号を送る。


 程なくして、生物はドアを突き破り、姿を現した。生物は雷鳴のような咆哮を轟かせるや否や、二人めがけて突進を始めた。

 大通りを渡った所で、ニカが足をもつれさせようにして倒れた。

「先輩ッ!? なんなんですか、これ!」

 抱き起しながら振り返ると、こちらへ突進してくるゴルゴノプスの姿が見えた。もう、間に合わないと悟った。愚鈍な体躯と対照的に脚力は凄まじい馬力を持っている。地面を軽やかに蹴り、機敏にバウンドする生物は、ほんの数歩で射程圏に二人を捉える。開かれた口から尖った剣歯が覗いていた。


 しかし、生物の運もそこまでだった。

 視界の隅からやって来たトラックが一瞬のうちに、ゴルゴノプスを消し去ってしまった。どぐんッという鈍い音が後から聞こえてきた。


 トラックは生物にぶつかったまま、突き当りのブロック塀に衝突し停止した。

 ニカが口元を抑え、その様子を見つめていた。呼吸を整えるために服をパタパタ仰ぐと嫌な匂いがした。首元から漂う不快感に汗まで滲み始める。何か言葉をかけようかとしたが、終ぞ言葉は出てこなかった。


 立ち上がり、トラックの方へ歩くまでにはそれなりの時間を要した。なんとか、たどり着くと、内臓をぶちまけて生物は死んでいた。かっぴらいた口元からドロドロと赤黒い血と体液が流れ出し、地面に血だまりを作っている。

 煙の上がるトラックの助手席へ静馬は這いあがり、中を覗き込んだ。


「大丈夫ですか………?」

 返答はなく、車内に人影は無かった。そんなはずはない。先ほどからずっと車を見ていたが、誰かが出てきた様子はなかった。車内を隈なく見回すと、配送業者の制服だけがシートの下へ滑り落ちていた。よく見ると、シートベルトも掛かったままになっている。蒸発。そんな言葉を連想してしまいそうになるほど、忽然と姿を消してしまったような印象を受けた。


「先輩ッ!先輩ッ!」

 下の方で彼女は不安気な顔で通りを見渡していた。

「先輩………なんで、なんで誰も出てこないんです?」

 大きな事故。野次馬でも心配するにしても、誰か通りへ様子を見に出て来てもおかしくない。だが、トラックの上から路地を見渡しても、静かに焼け付いたアスファルトがどこまでも延々と続いているだけだった。



 つづき

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