3‐4
再び目を覚ますと、気だるさが全身を押さえつけていた。不安は先ほどから地続きで頭に流れ込んできたし、安らぎや冷静さもまるで取り戻せてはいない。時間が止まっていたのではないかと思えるほど、空間の密度が高く感じられた。その圧縮された空間の中、何重にも濁った音でニカのスマホが鳴っている。
壁にかかった時計を見るとまだ9時前。先程から1時間と少ししか経っていない。
ニカは寝ぼけ眼でスマホを手に取ると、着信に応対した。頷き、少しずつ意識を取り戻していくニカを静馬は少しの間、何の感情もなしに見つめていた。
「先輩!」
ずっと見ていたはずなのに、その言葉で目の焦点が一瞬にしてニカにフォーカスする。彼女はスマホを差し出し、電話に出るようにと促していた。
眉をしかめ、首をかしげると
「先生からです。渡会先生」
とニカは答えた。
「岸田君! 君も無事でよかった!」
それが、彼の最初の言葉だった。
「君と、万城目君は無事なんだね」
「ええ。とりあえず、今のところは………」
事の成り行きを説明すると、渡会は電話口で長いため息を吐きだした。
「分かった。今すぐにそこを離れた方がいいだろう。万城目君が車を持ってると言ったね? その車で、大学まで来られるか?」
「大学? どうしてです?」
静馬は眉をしかめる。
「訳は車に乗ってからだ」
電話を繋いだまま、コンビニを出た。外に出てみれば、拍子抜けするほどいつもと変わらない風景がそこに広がっていた。空には月が出て、地上には水銀灯と家々の明かりが灯っている。静けさも、夜であるという事を考えればとりたてて奇妙であるとは思えないような気がした。変わっている点があるとすれば、まだあの甘い香りがどこまでも大気の中に満ちていることぐらいだ。
自分たち以外の声を聴いた安心感は肥大化し、希望となって静馬たちの足取りを軽くした。
ニカの車に乗り込むと静馬はスピーカーにして、助手席にもたれ掛った。
「数日前から、都内で見つかっている古代の植物。君も見たのであれば、気づいていると思うがアレはイオテリスのようにどこかから種子が飛んで来て、自生したとは言い難い。まるで、既存の植物が太古の植物と入れ替わってしまったように、生えている。そこで、私はある仮説を立てた。
あらゆる動植物の細胞がある瞬間に退行を起こし、太古の昔、例えば白亜紀までさかのぼるように一種の退行をおこしたのではないか、」
「まさか、ありえない……」
「あくまで仮説だ。しかし、収斂進化理論の一ノ谷解釈の中では一つの生物は母体の中で数十億年の進化を経験しながら生まれてくるとも言われている。前にも言った通り、細胞にはかつての記憶、能力がストックされている。どんな生物にも進化を辿って来た記憶のようなものがデータとして保存されているとしたらどうする?」
「細胞記憶、というやつですか? でもそれが何故、今更機能を」
「花だ。岡安君の育てたイオテリスの花だよ」
「花?」
「君はオイリス島のモドリバナを知っているか? 真っ赤な花を咲かせるモドリバナは開花した環境が生育に適さないと分かると、そのまま球根へと戻ってしまう。そのきっかけは周囲の木々が放つ葉緑素の匂いだそうだ。同じようにあの花が、イオテリスの放つ香りが細胞のノスタルジアを刺激したとすれば?」
「そんな馬鹿な………仮にそうだとしても、自分が存在する前の記憶なんて」
「でも君たちにもあるはずだ。生まれても、経験もしていないのに懐かしくなると思える事柄が」
ニカがチラッと静馬を見た。車内にはまた、彼女の曲が流れていた。聞き覚えのあるその曲は、たまの【さよなら人類】だった。
「植物にもこの現象が起きていたのだとすれば、生物に起っていても不思議ではない。君が見たのは、人間が原始的な哺乳類に戻っていく所だったのだろう」
ハッとした。そこで、全てが繋がった。
「ということは、岡安は………」
「……………ゴルゴノプスは哺乳類の祖先だ。そのゴルゴノプスはきっと……」
静馬はひじ掛けを強く叩いた。固く握りしめた拳を口に当てると、やりようのない気持ちをグッと握りつぶした。消えた岡安。武蔵野周辺で起こった殺人事件。食いちぎられた手足や無残な遺体。換気口にこびり付いていた体毛を見るに、きっとゴルゴノプスまで退行した彼は毎夜、アパートの周囲をうろつき獲物を求めていたのだろう。
「とにかく、元凶となったイオテリス自体はこれ以上増えることはない。ただ、研究室にはまだ遺伝子操作をした種子が数百株残っている。このようなことが起った以上、廃棄せざるを得ない。もし、何らかの手違いでばら撒かれてしまえば、それこそ………」
それまで黙って運転していたニカは、つまりつまりに言葉を絞り出して叫んだ。
「あ、あの、東京は、東京はどうなるんですか、先生ッ」
沈黙があった。渡会が鼻をすする音が聞こえ、スピーカーから乾いた口を開く音が静かに流れた。
「白亜紀になるだろうな。人も、植物も、みんな」
さよなら人類をバックに語られる人類の終焉は感慨深いものがあった。今から出発するという、渡会の電話を切り、代々木公園から道玄坂を下って、渋谷の方へ抜けて来ると、路上には抜け殻のような衣服が大量に散乱していた。中にはまだ生き残っている人たちも、まばらにはいたが、泣きじゃくるか、茫然と座り込んでいるだけでまともに行動している人は一人としていなかった。
サロンパスの巨大なネオンの掲示板には、巨大なシダ植物が絡みつき、火花を上げて赤く燃え盛っていた。
「先輩、あれ!」
ゆっくりとニカがブレーキを踏み、静かに囁く。
スクランブル交差点を、体高5mほどの恐竜がのっそりと歩いていた。四足と特徴的なフリル。そしてそこから突きだした太い角。角竜類の特徴を持ったその恐竜はさも当然というように、交差点を横断し車止めの石柱を蹴り飛ばした。
「と、トリケラトプス…………」
いや、あの湾曲した角はモノクロニウスだ、静馬は心の中で応える。あまりにも艶めかしい体皮や滑らかに蠢く恐竜の筋肉を見て、高揚している自分がいた。
TSUTAYAの電光掲示板に影が走って、巨大な翼竜が駅の方へ飛び去って行った。巨大な鶏冠をもつそれはニクトサウルスだった。
都会や人間が自然を制したという。文明の発展が自然を駆逐し、あらゆる生物を絶滅させたと。しかし、それは一時の夢に過ぎなかったのかもしれない。そんな事を静馬は考えた。
絶滅。生物はそう簡単には絶滅しないのだ。記憶として、遺伝子として、次の生物の中に息づいている。
塩基配列の隙間、細胞膜の間にひっそりと生き残っていた植物、生物の記憶が一斉に目覚めたのだ。まだみんなが元気だった時代の活力を取り戻したかのように。
植物が人工の建物を飲み込み、道路には無人車両が点在していた。最初は驚きやおののく声を上げていたニカも、高架の上を歩く恐竜や、路面を這うネズミの群れ、そして今まさに変質しようとしている人間を見ている内、黙りこくってしまった。
その間もずっと、車内には古い曲が流れていた。そこに存在しえないノスタルジーを湛えながら。
大学の校門前には人影は無く、路肩の縁石にスウェットとワンピースが重なり合うように落ちていた。ヘッドライトが照らす、大学通りは巨大なフウインボクが林立し、渡会はまだ到着していないようであった。
「あ、あの………先輩」
車を停め、サイドブレーキをかけながら、ニカは口を開いた。
「この間は………ごめんなさい。私、先輩の気も知らないままで………何もわかってなさ過ぎて、」
静馬はこめかみを掻き、答える。
「いや、俺の方こそ悪かった……」
チラリとニカを見ると、彼女はハンドルを握ったまま下唇を噛みしめ、ジッと前を見ていた。
「先輩。私、そこまで悪いことじゃないと思うんです。過去の中に生きることって…………」
静馬はシートに身を横たえ、何か言葉を紡ごうとした。しかし、それよりも早く、ニカは続けて言った。
「今、どうして古い曲とかが流行ってると思います? それは過去には未来があるからですよ。今の世界には展望や希望、行き先はない、みんな漠然とそういう風な不安を抱えてるって思いませんか? でも、昔なら今に至るまでの未来がある。それって、なんかとても安心すると思うんです。だから………過去に身をゆだねて生きるのも全然悪くない、そう思います」
乾いた口に静馬は唾液を絞り出し、飲み込んだ。窓を降ろし、外の空気を吸ってみると都会とは思えないほど濃ゆい新芽とあの、甘い香りが大気の中に満ち満ちていた。
「でも…………そんな生き方は誰にもできない。時間はずっと、前にしか進まないんだ」
静馬はニカを振り返って、腕を取った。あの日出来なかった口づけをすれば、何かが変わる。そんな気がした。
目をつむり、受け入れる準備をしたニカに静馬は顔を近づける。
あの花、咲いたらきっと綺麗だろうなぁ、静馬もそう思うでしょ?―
脳髄に響く恵梨香の声に静馬は手を止め、苦笑いして俯いた。ほんの少し、あとほんの数センチの行動が何かを変えるかもしれなかったが、静馬はそこまでが限界だった。
うなだれた彼の頭をニカが抱え込んだ。
「いいんです、いいんですよ、先輩」
優しい彼女の言葉は余計に静馬の心を抉り、冷え冷えとした恐怖と不安を沸き上がらせてくるようであった。
つづく
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