夏のタイムマシーン

4‐1

 通りの向こうに人影が見えたのは、それから数十分後だった。車内には未だうっすらと曲が掛かっていたが、静馬もニカも最早それを聞いてはいなかった。ニカもさいぜんいじっていたスマホを膝の上に置き、両手をハンドルにおいてうなだれている。

 通りに現れた人影は少しずつ大きくなり、辛うじてまだ生き残っていた電灯に照らされて、渡会が姿を現した。彼はすぐにハスラーが投げかけるヘッドライトに気づき、手振って合図した。


 静馬は深呼吸してからドアを開き、片足をだけ外に出したところで、車内を振り返った。

「ニカはここにいてくれ。エンジンは点けたままでいい。ライトは消した方がいいかもしれない。もし何か異変があったら、すぐに連絡してくれ、スマホ………通じるか分かんないけど。それと―」

「30分経って戻って来なかったら、逃げろ、ですよね。こんな映画みたいな台詞、まさか死ぬまでに聞けるなんてなぁ……」

 歯を見せて笑うニカに静馬は黙って頷くと、車を降り渡会に向かって手を振り返した。


「先輩、」

 車内からニカが問い掛けてくる。ドア越しに覗き込んだ彼女の顔は、先程とは一変し、固くしゃちほこばって震えていた。そこにありありと浮かんでいる不安と恐怖を、打ち消すほどの言葉を静馬は持ち合わせていない。

 むしろ、恐怖に負けた彼女が泣きじゃくって付いて来てくれた方がまだやりようがあったかもしれない。

 精一杯の笑顔で静馬が大丈夫だと頷くと、彼女は固くなった頬で無理矢理に笑みを作って頷き返して来ただけであった。



 大学構内に植えられた木々や植物は、都会のオアシスや自然との共生を歌っていたが、今や明らかな障害物となっていた。校門から正面の1号館まで真っ直ぐに続く歩道の両側に植えられたブナは、既に巨木へと変質し、あまりにも巨大な樹冠で月の明りを遮っている。景観を保つ為に植樹されたそれらの木々は、ひしめき合うように密度を高め、真っ暗な森を作り出していた。

 等間隔に立てられた街灯も、走光性を持っているらしき、異様な風貌の蔓や蔦にことごとく絡めとられて、破砕していた。まるで文明そのもの、人類の栄華そのものを否定し、嘲っているようなその光景は、静馬にある種の嫌悪感をもたらした。


 1号館の1階ホールには、ぐしゃぐしゃになったカーディガンと巨大な糞塊が落ちてあった。静馬と渡会は立ち止まり、少しの間それを見つめていたが、再び歩みを進めた。

 ホールを抜け、中庭へ向かいながら静馬は道中で見かけた恐竜、そしてゴルゴノプスのことを頭に思い浮かべた。その時は考えもしなかったことに気づいた。

 人や植物が変質してしまうのであれば、他の動物とて例外ではない。渋谷を横断していたモノクロニウスやニクトサウルス。それらは元々なんだったのか。鳥類か爬虫類か、それとも……。複雑に入り組み交じり会ってきた生物たちが一斉に逆行を始めたのだ。進化という淘汰や文明という理不尽を、全て勘定してしまった彼らはきっと人間を襲う。そのことに気づき始めた時、ぼんやりとした、それまでとはまた別種の恐怖が、頭の一部分を占領し始めた。


 中庭にあった噴水池からは、人の身体程の太さを持った樹根が溢れ、外へ這いだして来ていた。

 噴水周りの花壇には足跡があった。三叉に分かれたその窪みは、一見鳥の足跡のようにも見えたが、明らかに大きさが異様だった。前指から踵までの大きさを見れば、大凡の体高が予想できるという。ざっと見ただけでもそれは人間の身長を遥かにしのぐ大きさの生物が残した物だった。足跡は花壇を踏み荒らし、その場で暴れていたようにも見てとれる。

 変質しかけたパンジーや、朝顔を踏み潰した後を目で追って、静馬は絶句した。

 路盤に血塗れの白衣が落ちてあったからだ。白衣は小さな塊となり、粘膜に似たドロリとした透明の液体で濡れそぼっていた。


「食われて、吐き出されたのだろう」

 渡会が静かに言った。彼の言う通り、残された白衣は哺乳類へ退行してしまった跡ではなく、何らかの生物にこの場で食べられ、消化しきれない異物として吐き出されたものらしかった。

 土の上に点々と続く血痕を追うと、同じような白衣やスマホなどが、花壇を中心にしてそこら中に転がっていた。

 不意に顔を上げると、木の枝にも白い白衣がぶら下がってある。静馬はその下にパスケースが落ちているのを見止め、思わず手に取った。付着した血を拭うと「猫屋敷 澪」という名前が現れた。


「研究室に明かりが点いている。きっとうちのゼミ生が残っていたのだろう、な」

 絶望を嚥み込むような表情で、渡会は建物の一室に灯った白色の明りを見た。彼は鼻をすすってひとりごちる。

「恐竜に食われるのが先か、ネズミに戻ってしまうのが先か………か、」

「なぜ、僕らは何ともないんですか?」

 静馬はパスケースをそっとその場に戻し、尋ねた。大勢の人間が原始的な哺乳類へ退行し、人の形を保てなくなっているのに、何故、自分やニカ、そして渡会に異変が起きていないのか。疑問であると同時にそれは、今静馬が抱えている不安の多くを占めていた。明確なその理由が分からない内は、つまり次の瞬間自分もネズミに変身してしまう可能性を秘めていることになる。


 渡会は地面に散らばった白衣達を手に取り、丁寧に畳むと花壇の上へ重ねて置いた。そうして手を合わせ、何度目かの嘆息をつく。

「…………分からん。今は無事であることに感謝するしかない。イオテリスの芳香が細胞の退行を促しているのだとすれば、それを浴びている我々もいずれは…………とにかく、」

 畳んだ血まみれの白衣を渡会は一瞥した。

「今危惧すべきは、構内にいる何らかの生物だ。私としては、いくら好きな恐竜とは言え、それに食べられたいとは思わん。無防備に外をうろつくのは、思っている以上に危険なのかもしれんな」

 目的の温室は構内の最も北側。奥まった所にある。最短のルートはこのまま中庭を横断し、並んだ校舎の間を抜けて、付属している農場を迂回しなければならない。

 渡会の言葉はいつの間にか芽吹いていた、変質化とは別の不安を刺激し呼び起こした。広がり始めていた別種の恐怖は途端に優勢になり、静馬もまたその考えが得策ではないと強く思い始めた。


 静馬は中庭に視線を投げ、向かい側の建物を見た。

「4号館。4号館の連絡通路を使って、研究棟まで行けば、研究棟の一階は温室の西側に連結してます。それなら、外に出ず建物内だけを移動して、温室まで行けます」

 中庭を挟み、1号館と向き合う形で、3つの建物が並んでいる。向かって一番東端の建物が4号館であった。


 4号館の内部なかへ続く、黒ずんだ鉄戸は施錠されており、渡会は鍵の束をポケットから探った。

 彼が鍵を探している間、静馬は鉄戸に絡みついた蔦を引き千切って、闇の中へ投げ捨てた。闇はとこしえの深さを蓄え、静謐としている。しかし、ただならぬ気配が、湯気うんきの塊となって暗闇の中息をひそめていた。

 突然、原始的な恐怖が静馬の全身を打ち据えた。

 それは蛇を極端なほど嫌うのに似ていた。理屈ではなく、本能、細胞レベルで刻み込まれた恐怖。哺乳類が地べたを這いずり、ただの捕食対象だった時代に植えつけられた漠然とした忌避感が、無意識の中から無理矢理引きずり出されたのだった。

 全身に鳥肌が立ち、静馬は背後の鉄戸へと後退した。

 乾いた鉄の軋みが漏れ、ドアの開く音が聞こえた。


 早くその中へ逃げ込んでしまいたい衝動に、静馬は急いで振り返った。

 扉の向こうにあった物に、静馬と渡会が情けない悲鳴を上げたのは殆ど同時だった。

 そこには顔があった。細長く、巨大な爬虫類の顔。ステゴサウルスのそれだった。施錠された内部で巨大化してしまったのだろう。首は天井付近でくの字に曲がり、反転してドアに押し付けられている。暴れようにも、鉄筋コンクリートの壁や建物には流石に抵抗できなかったようで、ステゴサウルスは白目をむいて圧死していた。



 つづく

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