4‐2
その場から、再び行動を起こすには少し時間を要した。4号館を外側から周り、構内の北側にある温室まで走っていくと決断するにはかなりの勇気が必要であった。
冷静で論理的に考えれば、蛮勇が必要なほどリスクのある決断ではない。
そんな事に勇気を振り絞っている事実を、静馬も渡会も馬鹿々々しく、情けないと思った。だが、抗いようのない無意識の恐怖が二人の足をすくませ、判断を鈍らせた。血塗られた白衣の山や、ステゴザウルスの白目は、二人の漠然としていた恐怖を、一つのテクスチャに落し込むには十分すぎるほどのファクターだったのだ。
闇の中を壁伝いに走り、温室の入口まで行く。二人は闇から逃れたい一心で、無茶苦茶に走った。数分もかからない、強行軍などとは微塵たりとも言えない移動ではあったものの、電子ロックで施錠された温室の前へ辿り着く頃には、二人とも全身にびっしゃりと汗を掻いていた。脇や首筋、そして背中へ噴き出したそれらは、熱さによる物ではなく、走っている間ずっと全身に纏わりついていた「誰かが見ている」というあの感覚の所為であった。
渡会は息つく暇もなく、首から下げた、ドアを開く為の入館証を取り損ね、何度も掴み直した。彼は震える手を伸ばし、開錠しようとしたが、その必要はなかった。
「先生、これを………」
静馬は破壊されたドアを指さして言った。ドアノブは叩き折られ、捥がれるようにして無くなっている。ほんの少しだけ開いたドアの隙間からは、涼し気な夜気と一筋の光が漏れだして来ていた。
そこには明らかに、何かが侵入したような形跡があった。
静馬と渡会の視線がぶつかった。温室内に乾いた物を踏みしだき、折損する音が響いている。何も言わなかったが、二人ともが、中で蠢く何かの気配を感じ取っていた。
手で軽く押すと、ドアは相槌のような軋みを上げてゆっくりと開いた。
扉を静かにくぐると、丁度ドーム型の天井から月明かりが差し込んでおり、それが光源の正体だった。くすんだガラスを透したように、明りが偏光していないのは、天蓋のドーム部分が瓦解しているからであった。突き抜けて見える夜空はまぶしく、床に落下した無数のガラス片が、月の明りを受けチロチロと光っている。
そこは植物の坩堝だった。持て余した空間にびっしりと、多種多様な植物が敷き詰められている。
本来、温室の入口からは舗装された通路が奥へ奥へと続いているはずであったが、植物はそれを遮る壁となって立ちはだかっていた。中を縫って行くことへの徒労を覚えた静馬に、渡会がスッと前方を指し示す。
「そこだ、人の入った形跡がある」
彼の指が示す先、
奥へ分け入っていくと、植物の壁は途切れ、開けた空間が現れた。
それは見知った温室の様子だったが、全て自然の浸食に犯され、爆発的生命力の潮流に飲み込まれつつあった。規格外の蔦が絡みついたつる棚は、互いに押し合い圧し合い、倒れ掛かり、通路の両側に並んだウィンドウボックスからは溢れんばかりの植物が地面へ、雪崩落ちるように値を伸ばしていた。
静馬は地面に転がったバードバスを跨ぎ、イオテリスの種子が保存されている小型のテラリウムを探した。
幸い、植物はその周囲のコンテナや、棚受けを占領するに留まり、テラリウム自体は無傷のようであった。そばに植樹してあったヤシは、細長く背の高い裸子植物に変質しており、太い幹がテラリウムとその周囲に、深い影を落としていた。
その影の中、紛れ込むようにして蠢いている黒い塊があった。
静馬は眉を顰め、唾を飲み込む。人の気配。それを捉えようと目を凝らした彼は、ハッとして息を吸うのを忘れた。
そこにいる人物を自分は知っている。途端に沸き上がって来た断片的な記憶が、一つの連鎖した輪となって、静馬の脳髄に明文化された。
苦汁に似た唾液を喉奥へと流し込むと、彼は肺が痛くなるまで、酸素を吸い込んだ。
「猫屋敷さん、」
黒い塊はぬるりと動き、月明りの下にその姿を現した。
猫屋敷 澪がそこにいた。
ブラウンの髪の毛が月光で艶めかしく光っている。青白く、陰影が強く浮き出た端正な顔は、いつも以上に美麗で妖しかった。
「ね、猫屋敷くん……君、ぶ、無事だったのか?」
驚いた渡会がそばへ寄ろうとするのを、静馬は制した。
「ええ。大丈夫です。先生もご無事で」
彼女はいつになく、優しい笑顔を返して来た。
「残っていたのだろう? 他のみんなは……?」
渡会が尋ねる。
「恐竜です。恐竜にやられたんです。助かったのは……自分だけで……」
やはりか、と渡会は呟き、失意と安堵の混じりあったため息を吐いた。何かを続けて言おうとした彼を静馬は遮り、言った。
「他の人を囮にして、自分だけ助かろうとしたんじゃないですか?」
渡会が不快な視線を向けて来るのを、静馬は無視する。
「あなたなんでしょう? 岡安に植物の飼育を頼んだのは」
「ど、どういうことだ?」
渡会の視線が静馬と澪を行ったり来たりした。
「岡安の家には大量にゴディバの包み紙がありました。彼をそそのかし、植物の飼育を頼み、それを売りさばいたのはあなたなんじゃないですか? 猫屋敷さん」
澪は表情一つ変えず、首を傾げた。
「私が? 何の為にそんな事をしなけれはいけないわけ?」
「お金が必要だったんじゃないですか?」
静馬は先日見た、澪のカードだらけの財布を思い出した。ゴディバさん、見栄っ張りなんですよね― ニカはそうも口走っていた。
「あなたと食事をした時、クレジットカードはどれも使い物にならなかった。それも限度額が一杯だからではなく、支払いを延滞しているから。あなたには借金があった。だから、岡安に希少な植物の栽培をさせ、高額転売した。そうでなければ、なぜ、あなたがここにいるんです?」
澪はそれを鼻で笑い、振り返ると数百株の種子が詰まったガラス製のソケットを抜き取った。
「探偵ごっこは終わった? 静馬君。まさかそんな無茶苦茶な推理で、シャーロックホームズを気取るわけじゃないでしょ? 岡安君の家にゴディバの空箱が大量にあったからと言って私がそそのかしたことにはならないし、カードが沢山あるのは、いろんなポイントを貯める為、使えなかったのはカードに付随してるサービスを受けるためだけに契約しているから、本当に使える物は少ししかないの。そして、私がここにいるのは、この貴重な研究資料を守るため。って、私が主張したらあなたはどうするの?」
静馬は下唇を噛んだ。
「ほら、答えられないでしょ? いい? 推理っていうのはね、論理的に客観的な事実を積み上げて行って作る物なの。確信も無いのに、感情だけで自白させるなんて、馬鹿な刑事のやることと一緒じゃない。でも、いい。教えてあげる。あなたの言った通り、私が岡安君に植物の飼育を頼んだの」
渡会が呻きを上げた。
「お金、必要だったの。悪い癖だって分かってる。でも、浪費やめられなくてね…………たぶん、静馬君が思ってる以上にいい商売になったわ。プラントマニアっていう人たちがいて、植物が高値で取引されているって知った時ピンときたのよ。この古代の植物を売れば、高額で売れるんじゃないかって。でも、一つ問題があった。私は植物の飼育なんかできない。だから、岡安君に頼んだ」
「脅迫したんですか? 岡安は頼まれてすぐにおいそれと従う人間じゃあない」
「まさか。普通に頼んだわ。彼って、その………女性経験が無かったんだと思う。私が少し優しくして、興味を見せたら、大人しく頼みは聞いてくれたわ。でも、これだけは言わせて、彼がいなくなったのは私の所為じゃない。だって―」
そこまで言いかけて、澪は手を口に当て、ニヤ付くような笑みを浮かべた。
「岡安君、私といるのが好きみたいだったし………待って、勘違いしないでね。あんなキモデブに体を許すほど私穢れてないから。少し触ったり、手でしてあげる程度。でも、彼はそれでも充分みたい。実験中の植物を勝手に持ち出して、勝手に飼育するのは悪い事だって、彼も分かってたと思う。でも、それだったら断ればいいでしょ? だけど彼は従った。お互いもちつ持たれつだったの」
「あんたの、あんたの所為で岡安は………」
「だから、それは知らない! 岡安君に種子を渡したのは確かに私だけど、疾走したことは知らない。それは本当よ。だから、静馬君あなたに私を責める権利はない。岡安君が疾走したのは彼自身の責任よ」
静馬は嫌悪の目で澪を睨んだ。知らないとはいえ、悪意の欠片もなく、東京中で起こっている惨劇の元凶が、まさか自分にあるとは思ってもみない彼女の姿に酷く憤った。
「先生。確かに私は間違ったことをしました。それは反省します。ただ、今ってそんなこと言ってる場合ですか?先生だって薄情じゃないですか、自分の事や家族の事を顧みないでこの種子を取りに来ようとするなんて」
説明する余地を彼女は与えなかった。
「外、見たでしょ? もう無茶苦茶で何が起こってるのか分からない。秩序は崩壊してる。だから、この種子の所有権は私にあるはず。でも、待って。だからこそ、取引しましょ?先生は車出来たのでしょう?」
澪は言いながら、背後をチラチラと確認した。彼女の後ろには、藪と化した植物の渦があり、もしそこへ飛び込まれてしまえば、追跡は不可能だと静馬は直感した。彼女の額を伝う汗とどこか余裕を持った顔から、彼女もまた、その事実を承知しているのだと静馬は気づいた。
「私もここから脱出するには車が欲しい。知ってる? 東京以外は今のところなんともないみたいなの。だから、ここから脱出しさえすれば、みんな助かる。もし、私も一緒に連れて行ってくれるなら、この種子を少し分けてあげてもいい。どう? これってメキシカンスタンドオフでしょ?」
「いや、メキシカンスタンドオフじゃない。成立してない。もし、僕たちが断れば、あなたはここの独りぼっち。あなたに選択権はない」
「いいえ、あるわ。私は大学構内で生徒を食べたやつの正体を知ってる。それがどんな奴で、どうやって襲ってくるのかも。この目で見たから知ってる。静馬君はここまで無事でやってこれたから、無意味な取引に思えるかもしれない。でもそれは私に言わせれば奇跡よ。じゃあここから車に戻るまで、同じ奇跡が起こるかもしれない。でも、起こらないかもしれない。無残に食べられて、はいそれまでかもしれない。可能性ならいくらだって言えるわ。確率はどんなものかしら? 五分五分? それって、かなりのリスクだと思わない? でも私なら、何がいるかも知ってるし、安全に切り抜ける方法も知ってる。だからって、絶対安全とは言わないわ。でも、少しだけその確率を上げることが出来る。これって、一方的で自分の保身や取り繕うための馬鹿な提案かしら? 種子を渡さないって言ってるわけじゃない。少しだけ、私に分けてくれればそれでいい。
これは取引よ。私だって死にたくない。ここであなた達から逃げても、確実に助かる保証なんてどこにもない。私もあなた達が必要。メキシカンスタンドオフ、互いの銃は互いに向けられてる。成立してるわ」
返答に迷った。一時的に彼女に同意し、車まで誘導することは出来るかもしれない。だが、もしも脱出途中、恐竜に襲われれば? 3人ともがやられてしまえば、種子はどうなる。ここで、今この場で焼却処分するしか手段はないのだ。
「3人目はだれだ?」
渡会が鋭い声で言った。
「メキシカンスタンドオフは大抵、三人がそれぞれ別々の相手に銃を突き付けているだろ。しかし、ここには君と我々しかいない。2人ではメキシカンスタンドオフは成立しないのではないか? 猫屋敷君。君は分かっていないんだ。そもそもその種子が―」
「分かっていないのは先生の方だわ! 3人目?この状況になってもまだ分からないんですか!? 3人目は恐竜。それもただの恐竜じゃない! いたのよ、ここに! この大学に! あの、あれが。あの、ケツァ―」
気味の悪い、肉の抉れる音が、彼女の声をかき消した。
植物の影になっていた澪の胸のあたりから、 細くとがった何かが突き出し、月明かりを受けてテカテカと光っていた。
つづく
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