4‐3

 暗さの所為ですぐには理解できなかったが、突先から滴り落ちるドロついた液体は、間違いなく血だった。

 澪はポカンとした表情のまま、眉をぴくっと動かし、自分の胸の辺りを手で探った。痛みよりも違和感がそこにあり、それを探っているかのような仕草であった。

 両手にべっとりと付いた鮮血を見た澪は、何度も瞬きをして、何かを言おうと困惑の表情を浮かべた。しかし、理解不能な状況はいちいち彼女の反応を待っていてはくれなかった。


 矢庭に彼女の身体が、強い力で持ち上がったかと思うと、細長い突起は胸から抜け落ちた。自由になった澪の身体は宙を舞い、ほんの少し重力という重い枷から解き放たれたが、再び強い力で引き寄せられ、静馬の足元へ叩きつけられた。


 視線が足元で、胸にぽっかりと穴を穿ち、うつ伏せになっている澪から前方へと転じる。

 すらりとした三角錐のような塊が、そこに立っていた。


 恐竜だった。


 長い嘴に、長い首。地面へ着く四つ足。前脚はただの足ではなく、折りたたまれた羽だ。翼竜。それも翼指竜亜目よくしりゅうあもくに分類される恐竜。

 史上最大の翼竜。が血塗れになった噛をカパカパと開閉し、冷たい目で静馬を見ていた。


 見る者を圧倒する巨大さ。木々に紛れていたために気づかなかったのか、その体高は6m近くあり、温室の天蓋すれすれだった。感情のないただの視認機関としてだけ機能している目が静馬を見据え、一瞬、彼の思考が吹き飛んだ。


 逃げなくては。意識して、足を動かし、後方へ牛歩で退避し始めた。一度ひとたび足が動き始めると、無意識は歩速を早めようとする。静馬はそれを必死にこらえた。突発的な行動が、ケツァルコアトルスを刺激するのではないか。張り詰めるような緊張が切れれば、どんな惨劇が起るか分からない。そのトリガーを引き絞ることだけは避けたかった。


 その時、強い力が静馬の足を掴んだ。澪の手だった。胸を消失してしまった人間が出すとは思えないほどの握力が、くるぶしを締め付ける。追随して、ゆっくりと澪の顔が上がった。

 額はぱっくりと縦に裂け、両鼻からは鮮血がしとどに流れ落ちている。彼女は血を口に含みながら、震える声で言った。

「なに……?あれ? なんお?おお? なんあの? え? え? あ? の?」

 脈略を持たず、纏まりのない言葉は、未だ恐怖や絶望の遥か手前にあった。彼女は助けではなく、説明を求めていた。今自分の陥っている状況。顔を覆う血と、全身に走る脱力感に対する説明を。


「静馬君、ソケットを……」

 かすれた渡会の声がした。 彼は腰を低くし、ケツァルコアトルスを見据えたままゆっくりと後退っている。

 そうだ、種子のソケットを―

 現実的な提案が、緊迫した状況を律した。ガラス製のソケットは、澪の右手から零れ落ち、地面に転がっている。静馬が手を伸ばそうとすると、澪はそれを俊敏な動きでガッと口に含んだ。

「だめッ、取り、引き、だめッ……」

 前歯でソケットを噛みしめたまま、澪は言う。静馬が手を伸ばそうと動いた時、一陣の風が吹き抜け、彼は反射的に固く目を閉じた。


 瞼をこじ開けたのは、ドームを震わさんばかりの、澪の絶叫であった。

 一瞬の間に眼前へと迫っていたケツァルコアトルスは、前肢で澪の身体を地面に押し付け、もたげられた彼女の頭を長い嘴で咥えていた。

 首を無理に捻じ曲げ、もぎ取ろうとするケツァルコアトルスの嘴と、澪は最期の力を振り絞って戦っていた。


「痛いッ! いだいぃぃぃッ! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いッ! いだいいいッ!!」

 むじむじという耳架も拒絶したくなる不快音を立てながら、首の筋肉がねじ切れていく。澪の細い目が自分を見ているのに気づき、静馬は唱嵯に目をそらした。

「許してッ ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんな―」

 びりびりと服が破けるのとその音は似ていた。緩慢な速度で、彼女の首は胴体からねじ切られていった。胴体と首とを繋いでいた数十の神経や血管、そして筋肉の筋がぷちぷちと千切れ、肉片と血飛沫が静馬の頬に飛び散る。

 頬を伝う冷たい液体。上を向いてしゃくったケツァルコアトルスの口内に澪の首がごろりと飲み込まれていくのを、静馬は茫然として極めて冷静な思考のまま見ていた。


 !!


 それが渡会の声だったのか、それとも自分の思考であったのか、後から考えても静馬には分からなかった。

 爆発した情動が神経反射の如く、彼の身体を動かした。瞬時に身をひるがえし、温室の入口に向かって静馬は走った。足はまどろっこしく、もつれあい、幾度も転倒しかけた。

 植物の壁の向こうで、渡会がドアに足を駆け、早くというジェスチャーを繰り返しているのが見える。背後を見なくとも、彼の表情で危険なのは十分理解できた。巨大な空気の圧が背中の向こうでこちらへ押し寄せてきている。乱造された植物をなぎ倒し、振り払いながらそれは迫ってくる。


 飛び込むようにドアをくぐると、地面を転がり、 這いずりのたうって背後を見た。

 どぐんッと重量のある塊が、壁にぶつかる衝突音とともに、細長い噛がドアを通り抜け、 静馬の足元を突き刺した。

 腰はいつの間にか抜け、擦るようにして後ろへ下がるしか方法はなかった。

 少しの間、嘴をガツガツと動かしていたケツァルコアトルスは、やがてそれが意味のない行動だと気づくと追撃の手を緩めた。


 静馬も渡会も、動くことが出来なかった。静馬は飛び出そうとしているのかと思うほど、強く高鳴る心臓の痛みを深呼吸で宥め、自分の足に未だしがみ付いていた澪の手をじっくり観察した。

 腕は二の腕の途中で千切れて無くなっていた。切断面は黒ずみ、適る血もほとんど出切っている。自分の頬に手を伸ばすと、飛散った澪の血は既に凝固し、ザラザラと乾いていた。


「大きかったな」

 渡会は自分でもなぜ、そんなことを言っているのか分からないと言った表情で近づいてきた。彼は静馬の足元にしゃがみ込み、硬くなった滞の指を一本一本引き剥がしていった。

 執念によって塗り固められた彫刻かのように、折れ曲がり硬直した滞の右手に、渡会は手を合わせ、邪魔にならない場所へと退けた。


「タバコ、吸うかい?」

 くしゃくしゃになったタバコの包みから、渡会は一本差し出す。

 煙草を吸う人の心理は、子供のころから分からなった。あんな不快なにおいを放つものを、 どうして肺にくべてしまおうなどと、思うのか疑問だった。

 毒にしかならない、百害あって一利なしの賭好品をなぜ、ああも多くの人間が好き好んで呑んでいるのか理解できない。だが、今なら分かる気がした。煙草を吸う必要に迫られる人の心理はきっとこんな感じなのだろう。


 差し出された一本を静馬は受け取ると、渡会はくすんだ色のジッポライターで火をつけてくれた。深呼吸するように煙を吸い込むと、名状出来ない不快な感じが喉の中、肺の奥深くまで染みわたり、吐き出そうと咳き込んだ。

 渡会は笑った。

「それでいい。せき込んで毛細血管が広がるとそれだけ、血中にニコチンが吸収されやすくなる」

 忠告通り、喉の奥で煽っていた煙たい感じは、やがて粘膜と溶け合い、心地よい針の刺激に変わった。紫煙を吸い込むとスゥっとして、 頭が冷水につけられているような感覚が目の奥を走り抜けていく。


「私も初めてタバコを吸った時はそんな感じだったよ。若くてね。タバコがもたらす害悪など、知っていても先延ばしに出来る余裕があった。若く幼い頃の爆発的な生命力と言うのは、その、つけが効くという謎の余裕から生まれるものかもしれないな。誰もが年を取るにつれ、そのつけが回ってくる事に気づき、どう頑張っても避けられないということを悟って絶望し、郷愁の中に幻想と願望をゆだねる。実際にどうだったのかはさほど重要じゃあない。あの余裕があり、人生の絶望など知りもしなかった時代に誰しもが帰りたくなる。多くの人がそうだ。前など見ずに生きていく。全てを過去の中に閉じ込めて。

 このジッポもタバコを吸い始めた時、買ったものだ。未だに使い続けているのは、私もその一人だということだ。

 この現象もそう言う細胞や進化と言った摂理の郷愁が引き起こした、ある種の理想ならば、遮二無二になって食い止めなくてもいいのかもしれん」

 幾分心地よくなってきた肺と脳髄から紫煙を吐き出し、静馬は返答する。

「………………だとしても、自分は否定します。時間は前にしか進まない。いくら自分が過去の過去の姿、過去の形になろうとしても、起ってしまったことは取り戻せません…………」

 静馬は大分短くなったタバコを強い力で地面に押し付けて、消火した。


「イオテリスの種子はまだアイツの腹の中にあります。翼竜は飛翔する。アイツを始末しなければ、種は東京どころじゃない。日本、いや下手をすれば世界中に同じ現象が起こるかもしれない。それは何としてでも、僕は防ぎます」

「…………仮に我々が死んでも、郷愁を否定しても、現象を食い止める価値があると思うかね?」

 静馬は手をついて立ち上がり、腰と服についた土を払った。

「あります……ありますよ」

 渡会は名一杯の紫煙を吐き出すと、ぼんやりと光るタバコの穂先を見つめた。

「ケツァルコアトルスか………そこら辺の生き物を駆除するのとはわけが違うぞ」

 吸殻を足で踏み消しながら、渡会は首を回す。彼の口元がわずかに高揚しているのを見て、静馬はいくらかの安堵を得た。恐怖は未だ感情の底面に滞留していたが、情動はそれを敏感に汲み取るほど繊細ではなくなっていた。使命感と言う名の麻痺が、感覚を鈍磨させ思考をストイックにさせた。


 やれるだけのことはやろう。希望はさほど残されていないのだから。恐怖は恐怖としてではなく、客観的な状態に変質してしまっていた。

 深呼吸をし、温室を睨んだ時、突如として起った突風がドアから吹き抜けた。青々とした臭気と木や木の葉の欠片を手で防ぎながら、渡会が叫ぶ。

「上だッ!」

 温室の上空。肥大化した木々の隙間に覗く、碧い闇夜を巨大な影がさあーっと飛び去って行くのが見えた。

「まずい、逃げ去る、」

「いや。翼竜のたぐいは一定の狩場意識をもって生活をしている。餌が尽きたり、身の危険が無い限り、そうそう狩場を離れることはないはずだ」

 狩場。静馬は飛び去って行くケツァルコアトルスを見つめながら思った。無数の白衣や猫屋敷 澪。皮肉なことにそれらの餌が、彼をここに縛り付けてくれている。しかし、それもどこまで持つか分からない。


「問題は、どうやって、あれを始末するか………だ。猟銃や投擲できる武器があればまだ、やり様はあるが………静馬君は何かいい方法が?」

 静馬は答えなかった。いや、答えられなかった。不意に突っ込んだ腰のポケットの中に冷たい金属の感触に心の細動を全て持って行かれたからだ。細長く、ギザギザとした意匠の刻まれた鉄の塊。カギだった。バイクのスペアキーだ。

「一つだけ。1つだけ、自分にいい考えがあります。……………先生、ライターを貸していただけますか?」

 


 つづく


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