4‐4
来た道を戻るのには、来るとき以上に気を使わなければならなかった。漠然としたものを漠然としたまま恐れることは、無限の闇から逃れる果てのない遁走のようだ。そしてその内、恐怖の原因を突き止めさえすれば、冷静に対処できるのではないかと錯覚する。恐怖のベールを引き剥がせば、そこに解決が待っていると思い込む。
しかし、恐怖の原因や正体が顕在化しても、そこにはまた別種の恐怖が待っているだけだった。
ともかく、頭上を無防備にしないことが最重要だと、静馬も渡会も無意識のうちに感じていた。道中、闇を作り出し、不安と嫌悪の対象であった樹木たちが、却って安心感を与えてくれた。
空にはケツァルコアトルスの気配こそなかったが、遮るものが何もない中庭を走る間は、静馬も生きた心地がしなかった。
彼は渡会を先導し、4号館の壁を伝い、中庭を横切り1号館を抜けた。糞塊を横目に建物を出ると、西側に図書棟が見えた。古い西洋風煉瓦造りの建物には後付けで作った、入館口に続くスロープがある。その上には雨避けの簡易な屋根が設けられており、スロープの路頂に影を落としている。
静馬と渡会はそこまで走り、屋根の下にしゃがみ込んだ。
「先生は、ここにいてください。あとは自分が、」
何をしようとしているのか、渡会に伝えていなかったが、彼は何も聞かず、ただ闇の中で力強く頷いた。深々と隈の浮き出た彼の目は、言葉に出来ない感情と健闘を伝えていた。
影から身を乗り出し、空を見上げる。爛漫の月と星が輝いている中に、翼竜の姿はない。
視線はそのまま、直線上にある駐輪場へと移った。図書棟から駐輪場までは60mほど。大した距離ではないが、頭上を遮るものはない。
振り返って、図書棟の入口を見た。ガラス開き戸になっている玄関には分厚いシャッターが降りて、万が一のために破壊しておくことは出来そうもない。もし、ケツァルコアトルスに見つかり、ここへ退避して来たとしても………
静馬は考えるのを辞めた。もはや勇気と意思は捨て鉢に近い。今からやろうとしていることだって、上手く行く保証はない。澪は言った。五分五分。これはそれよりももっと悪いだろう。だが、やめるという選択肢は存在しない。どうやったって、後には引き返せないのだ。
ため息を吐き、ポケットのカギを取り出した。冷たい金属を握りしめると、渡会を見ずに言った。
「もし、自分が失敗した時は………お願いします」
返答を待たず、彼は走った。駐輪場の砂利を踏む音が、いやに大きく聞こえる。自分のバイクはすぐに見つかった。あの日置き去りにしたままのカワサキ W650は同じ場所で、静馬を待ちづけていた。
色あせたスピノサウルスのステッカーを指で撫でると、静馬はバイクに跨った。タイヤが軽く沈む感触があり、奇妙な安心感が腰のあたりから這いあがってくる。キーを差し込むと、静馬はいつものように、念じるように捻った。
ろろろッというエンジンがアイドリングする振動がわずかに起こり、黙りこくる。闇を裂くエンジン音が、沈黙を倍加させているように、辺りは静まり返っていた。
落ち着くことだけを考えた。ここで焦ってしまうことは、その後の不幸を呼び込む因子になりかねないと感じた。
静馬は深呼吸して、微笑する。
いいんだ。焦らずゆっくり。もう一度、もう一度だけ走りだす。それだけでいい。
再びキーを捻る。エンジンのコイルが始動し、マフラーが咳き込むようなガスを吐き出した。点火プラグが何かを引っ張り出し、呼び起こそうとしている感じがした。バイクは、先程よりも強く唸り、沈黙へと帰結する。
いい。調子が上がってきている。大丈夫だ。
バイクを心の中で宥め、先程よりも優しくキーを動かした。エンジンが少しずつ調子を取り戻していく感触で、綱渡りをしているような危うさが和らいでいった。
先ほどから、ケツァルコアトルスの影も形も見えないことがそれに拍車をかける。順調に事が進み、自分は何の問題もなく、この事態を片付けることが出来る。何故かそんな確信が湧出してくる。
もう一度エンジンをかけながら、狩場の範囲はどのくらいなのだろうかと考えた。渡会はこの大学構内が狩場だと言った。だが、ひょっとすると自分達が思っているよりも、もっとずっと広いのではないか? それならば、再び大学へ戻ってくるにはまだまだ時間の余裕が―
頭上を影が走った。いびつな二等辺三角形のような暗がりが、どす黒い冥闇で
顔を上げると、大きく旋回し、ゆっくりと高度を落として来ているケツァルコアトルスが見えた。右傾した両翼が月の光を舐めて反射している。
キーを掴む手が硬直し、緊張が走った。意識は筋肉や神経から
二度、三度、立て続けにキーを回した。それでも自体は好転しなかった。一切の沈黙を保ち、バイクは鉄の骸と化した。それはもう一度走ろうという意志すら放棄したように見えた。
バイクはそれきりだった。
ワッと風が巻き上がり、木立がざわざわと
持てる力をすべてかけ、キーを握りしめた。客観的な視点が焦っている自分を俯瞰している。その焦りが更なる危機を呼ぶかもしれないと、分かっているだけに焦りはその分増幅する。
掛からないエンジン。動かないバイク。苛立ちと絶望が、混沌とした悲しみとなって彼の背中にのしかかって来た。
背中? 背中へ向けた意識が、バイクの後部座席に降りてきた霊妙な気配を感じ取った。それは最初、一点だけに集中していたが、やがて背中全体に広がり、果たしてぴったりと密着して来た。
恵梨香だ。静馬は思った。彼女が今、自分の背後に来ている。理由は明白だ。彼女は死のにおいを嗅ぎつけ、
ああ。喘鳴の中、定まらない感情が定まらない言葉を吐かせた。もう逃げることも、助かることも出来ないのか。あとほんの数秒後。ケツァルコアトルスの強靭な嘴が自分を八つ裂きにする。恵梨香はそれを知って、迎えに来たのだ。
気配は震える静馬の右手―キーを未だに掴んだままの右手に絡みつき、指先へと伸びて行った。冷たさが柔らかい感触となって、確かに肌へ触れているはずなのに、静馬には何も見えなかった。
右手がゆっくりと左へ回転する。それが自分の意思なのか、超常的な力のなせる業か。考える間はなかった。
次の瞬間、ドッという音と共にエンジンが勢いよく始動し、静馬は条件反射でアクセルを握りしめた。
つんのめるようにしてバイクがスタートするや否や、背中を巨大な塊か擦過して行く感触が走った。砂利にタイヤを取られ、足で地面を蹴って体勢を立て直す。バックミラーには地面すれすれを滑空し、再び空へ舞い上がっていくケツァルコアトルスの姿が見えた。
静馬は駐車場からバイクを出し、校門から1号館へとまっすぐ伸びた直線上へ乗り入れた。1号館の校舎の方に向かって、アクセルを吹かすと、翼竜は静馬の上空を追い抜いて行く。
1号館の上空で、急速旋回する翼竜を睨みながら、静馬はポケットからハンカチを取り出した。ニカから借りたままになっていた、青いハンカチは風になびいて、手の中で暴れ、逃げ出そうとする。静馬は取り落とさぬ様に、ハンカチを口で噛みしめ、自由になった片手で股座の給油口を器用に開けた。
ツンとする科学的な悪臭が跳ね上がり、静馬は顔を背け、鉄製のキャップを闇へと投げ捨てる。もうそれは必要のないものだった。
ハンカチを給油口の中に押し込み、毛管現象でガソリンが染みて行くのを待った。程なくしてそれを引き上げると、給油口の縁へ引っ掛け、落ち込んで行かないように保持した。
工場の流れ作業の如く、全てを順番にそして的確にこなしていった。行程がほぼ最後の段になって、静馬は渡会からもらったジッポライターを握りしめた。
頭は冴え渡っていた。ケツァルコアトルスは正眼に獲物を捉えて急降下して来ている。だが、それを真正面に見据えても、まったくと言っていい程、恐怖は湧いてこなかった。背後にある恵梨香の気配が、懐かしさと記憶を盾にして不安や恐怖を取り払ってくれていた。
おかげで、神経と筋肉だけが正確な運動器官として働いた。そこには何の迷いも絶望も無い。意識は寸刻前から過去への回想をはじめ、前進するのを辞めてしまっていた。
恵梨香とのツーリング。冷たいが柔らかく優しい気配。静馬はその気配が腰に手を回してくれるのを、今か今かと待っていた。そこには名状しがたい心地よさがあった。
―人生の絶望など知りもしなかった時代に誰しもが帰りたくなる。多くの人がそうだ。前など見ずに生きていく。全てを過去の中に閉じ込めて―
―いいんです、いいんですよ、先輩―
過去の中に自分を閉じ込める。こういう事か。静馬は理解した。進むべき先に望みや未来が無くなった時、人は過去への逆行を始める。
このままバイク共々ケツァルコアトルスに食われ、爆殺してしまえば、じぶんはずっと恵梨香と走っていられる。垂涎してしまいそうになるほどの誘惑に、感覚が索漠し思考が静止して行く。
―あの花、咲いたらきっと綺麗だと思うな。静馬もそう思うでしょ?―
耳元ではっきりと、恵梨香の声がした。心臓が今にも破裂せんと動いた。
過去の中に自分を閉じ込めて生きていくことなど、誰も出来ない。
人間は多くの過去を捨てて前へ進む。いや、前にしか進めない。
「ありがとう、」
静馬はライターをハンカチに押し付けて、着火した。ケツァルコアトルスの嘴がバイクをすくい上げてしまうのは、それとほぼ同時であった。
その光景は、静馬の脳内で何十倍もの時間間隔をもって引き延ばされ、糖蜜のようなどろどろした世界となって知覚された。
ケツァルコアトルスの開かれた口が眼前に迫った、ほんの刹那、静馬はハンドルから手を離し、重心を横へと逃がした。バイクがそれに引っ張られるよりも早く、彼の身体が地面に強く打ち付けられ、路頂に引きずられて何度も回転した。
鈍い爆発音と暗闇の中、赤々と燃えるバイクと翼竜。意識が薄れていくその最中、静馬はもう既に背中から恵梨香の気配が消え去っていることに気が付いた。
つづく
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