4‐5

 岸田 静馬は夢を見ていた。長く、ゆったりとした夢。それは、記憶と言うストレージを媒介とした、ある種の追体験めいた夢だった。


 過去のことを夢見ることがある。いい記憶であることもあれば、無論、本来思い出したくはないような記憶を蒸し返してしまうことだってある。それらはどれも、かなりのリアリティをもって上映される為、多くの人は大切な事実を見失う。

 どんな夢であったとしても、それは所詮夢。新しく作り上げられた新作であって、決して再上映ではない。

 過去と言う一つのテクスチャを元に、足りない部分、不明瞭な部分を都合よく穴埋めして作られた全くの虚構であることを忘れてしまうのだ。


 静馬は今まさにそのおぼろげで曖昧な世界を一つの意識として、漂っていた。意識も縦へ横へと混濁していたが、本人はいたって明瞭で、思考は冴えわたっていると錯覚している。体の神経が自らと密着した座席の形状を読み取り、続けて微細な振動を捉えた。

 自分は車に―それも、助手席に座って眠っている。誰の車? 疑問は漂う芳香剤が補完した。

 甘いシトラス。母の運転するRV4のレジスターに差し込むようにして取り付けられた、ボトルタイプの芳香剤の香りだ。

 そうか。今自分は母の車の助手席に座って、眠りこけているのだ。母がRV4に乗っていたのは自分が10歳の時。つまり今自分は10歳……ということか。わずかに湧いた違和感を脳ミソは取り払い、器用に整合させ、静馬をまだ眠りの中に留めて置こうとしていた。

 しかしそれをろうしたのは、口をかっぴらいたケツァルコアトルス、引き千切られる澪の首、そして燃えるバイクたちだった。


 意識が覚醒すると、開いた眼に疼痛が走った。痛みは鈍足な耕運機のごとく、眼の奥から脳髄へと突き抜けて行った。脳は機嫌を損ねながらも、徐々に周囲の情報とこれまでの記憶を拾い集め始めた。

 芳香剤はニカのハスラーに置かれたものだった。自分が不意に心地よさを感じていたのはそれだったのかと気づくと、再び目の奥に痛みが走る。自分は今、ハスラーの助手席に座っている。

 車窓の外はまだ恐ろしく暗く、ヘッドライトの明りだけが前方を照らしている。光の中に一瞬、現れては過ぎ去っていく標識で、静馬は今自分が高速道路に乗っているのだと理解した。路面には打ち捨てられたのか、そのまま放置された乗用車や、運転を誤ってしまったのか、ガードレールや中央分離帯に突っ込んだとトラックが点在していた。そのうちのいくつかは猛然たる炎を闇夜に巻き上げていた。時折、車が大きく蛇行すると、路面には内臓をぶちまけたラプトルと思しき生物がヘッドライトに現れる。


 無事に終わったのだ。そして自分も助かった。現状確認の最終地点に辿り着くや否や、どっと虚脱感が全身を包んだ。いくらか安堵もあったが、どういう訳か拭い去れない寂寞感も漂っている様であった。

「気が付いたか?」

 隣を見ると、渡会が乗っていた。彼は眼の下に未だ隈を蓄えたまま、ハンドルを握っている。

「東名高速道路ですか?」

「ああ。しばらく、東京を走ってみたが、どこも埒が明かなくてな。山梨を目指して南下中だ」

 闇の中、一瞬浮き上がった横浜町田ICの看板を見る。


「………すべて、終わったんですか?」

「終わった、か。それは何が、かによるな。この現象のことを言っているのなら、まだ終わってはいないさ」

 渡会はブレーキを踏み、車を停車させる。彼が指さす方を見ると、鳥のようなものが路面をびっしりと埋め尽くしていた。

 身を乗り出し、光の中でよく観察るするとそれは、鳥ではなかった。道路を埋め、じっと固まっているそれは、鳥よりも一回りほど大きく、光沢のある硬質な外皮を持っている。中生代に生息していた巨大なトンボ。メガネウラだった。

 渡会は大きくため息を吐き、ゆっくり車を前進させる。集団の外縁にいた一匹のメガネウラが驚き、飛び上がると、途端にすさまじい連鎖の波が広がっていった・

 ドア越しでも聞こえる羽音を唸らせながら、闇の中へ舞い上がっていく巨大昆虫の渦中を、渡会は徐行で進んだ。途中、何匹かのメガネウラがフロントガラスにぶち当たり、醜悪な腹部と節足を見せつけて、再び飛び去って行った。


「ケツァルコアトルスのほうは、上手くいったさ。種子も処分できた」

 静馬は嘆息を突き、無音のカーオーディオへ手を伸ばし、テレビをつけた。チャンネル名が黒い画面に表示され、タイムラグがあって画面がカラフルな映像に変わる。表示されたカラーバーは、無機質な電子音を流しっぱなしにするだけで、変調はない。どこの局もおなじだった。最後の望みで回したテレビ東京も、カラーバーで放送休止を伝えていた。

 ラジオも同様だった。流れ続けるホワイトノイズは、電波を隔てた向こう側にもう誰も残っていないことを、殊更に強調しているような気がして、静馬はオーディオの切り替えスイッチをヤケクソに押した。

 唐突に曲が流れ、彼は手を止めた。聞き覚えのある女性の声、どこかで聞いたことがある様な歌だった。前にニカが教えてくれた誰かの曲かもしれない。少し迷ったのち、止めようと手を伸ばすと、渡会がそれを制止した。

「いや、そのままにしておいてくれ。気が紛れるよ…………懐かしいな。小泉今日子……夏のタイムマシン、か」

 そうだ。思い出した。小泉今日子。ニカが一番好きなアイドル。ニカ? そうだ、なぜ彼女の車を渡会が運転している。彼女は、ニカはどこへ行ったのだ?


「に、ニカは!?」

 渡会は、何も言わず、バックミラーで後部座席を見た。急いで振り返ると、そこにはシートに横になり、口を開けて爆睡しているニカの姿があった。

「君を担いで戻ってきたら、もうすでにあの状態だった」

 思わず、笑みが漏れた。本当の意味での安堵がやって来たのはこの瞬間だった。自分でも理解できない幸福感が、その他の不安を一瞬で駆逐してしまった。ニカが無事、このなんでもない事実が今は一番彼の心を平穏へと近づけてくれていた。

「この現象について、あくまで希望的観測には過ぎないが、それなりに明るい予想をすることは出来る」

「元通りになるという事ですか?」

「ああ。恐竜も、イオテリスも、そしてその他の動植物たちも全て、白亜紀以前のモノばかりだ。当時の動植物全般が巨大だった一つの理由にはその気候がある。寒暖の差がない、温暖な気候では無駄な体温調節をしなくてもよくなる。その分のエネルギーを体の巨大化に注ぐことが出来たというわけだ。しかし、今は生憎間氷期だ。東京には雪も降る。春になる頃には、すべて死滅しているだろう。この回想現象も夏の間だけ、そうだ。まさに夏のタイムマシーンだよこれは」

「夏のタイムマシーン………」



 車をしばらく走らせた後、渡会は路肩に停車した。

 ハンドルから手をはなすと、彼は大きく伸びをしながら欠伸を漏らした。

「……悪いが、そろそろ運転を変わってもらえるかな。なにせもう、3時間余り運転しているんでな。それに―」

 渡会は右手をスッと静馬に見せた。手の甲にはびっしりと固く太い、とげのような毛が生えていた。肌は血筋が走り、所々、ひび割れている。

 渡会は寂しく笑う。

「残念だが、ここでお別れだ。どうやら、私も過去に引きずられていく人間らしい」

 彼が車を降りると、静馬もそれに続いた。彼は道路の縁へ歩いていき。高架の上から街を眺めた。まだいくらか点灯している電気と燃える炎。少しずつ崩壊している東京は何故か美しかった。

 遠くの地平にうっすらと空が白み始め、朝の到来を告げている。やり場のなくなった言葉を隠すように、静馬はポケットに手を入れた。指先に触れるものは、渡会から借りたライターだった。

「先生、これを」

 渡会は礼を言ってそれを受け取り、闇の中に点火した。小さくつたない炎ではあったが、どういう訳かそれは、2人を随分安心させた。渡会は声を漏らし笑い、静馬もそれにつられた。火影が少しの間、暗闇の中にぼんやりと二人の顔を浮き上がらせ、やがて風にかき消された。

「先生、自分達もきっと、そう長くはないと思います。だから、先生も自分達と一緒に―」

「いや、君たちは大丈夫だろう。理由は分からんが、何故かそんな気がするよ。……それに、さっきアパトサウルスとディモルフォドンを見たんだ。研究者としては、もっとじっくり観察したいしな」

 渡会はそう言うと、高架下へ降りて行く非常用の梯子を見つけ出した。梯子は高架の欄干に沿うような形で取りつけらており、容易には入れないように金網で封鎖されてあった。金網を留める、鉄製の掛け金は施錠されていなかったが、内側―高速道路側からしか、明けることが出来ない仕組みになっていた。

 金網に触れると、堆積した埃と排気ガスが指を真っ黒に染めた。静馬はそれを手で払ったが、渡会は気にすることなく、梯子の手すりを掴み、最上段へかけた。吹き上げてきた風が渡会の前髪を大きくなびかせた。


「じゃあ、元気で」

 渡会がゆっくりと慎重に、梯子を下っていく様子を静馬はずっと上から見下ろしていた。革靴が鉄を叩く振動は静かな夜明けに反響し、風の音と溶け合った。

 下へ降り切った渡会は上を見上げ、大きく手を振ると軽快な足取りで歩いて行った。彼の姿が見えなくなってしまうと、少し躊躇いながらも静馬は金網を閉めた。少しの間、渡会が上がってくるのではないかと、梯子を見つめていたが、やめた。


 迸るような紫色の朝焼けは、遥か彼方の空からじわじわと迫ってくる。心地よい夜気の気配と微かな湿気がまだそこら中に残っていて、日中のうだる熱気に点火する準備をいそいそ始めていた。

 皮肉なことに空気はいつもより澄んでいるような気さえする。そして、静かだ。それが自分をゾッとさせるのは、人間と生き物が常に寄り集まり、意識や気配の集合体となることで平穏を得ているからではないかと、静馬は考えた。

 人間、ホモサピエンスはたった一人、たった一種、置き去りにされてしまった。進化の樹形図の突端で。

 どこか遠くの方で、猛烈な咆哮が聞こえた。そして、パタリとやんだ。

 東京は静まり返っていたが、生き生きとしているようでもあった。数百年、数千、数万年ぶりに手に入れた平穏と静寂を一心になって貪り食っている。東京は悠然たる巨体で、何者をも寄せ付けぬ様に横たわっていた。

 だしぬけに、一つのある考えが静馬の頭を過った。

 澪は岡安に種子を育てるよう頼んだ。もしも、 東京という土地自身が過去への郷愁を捨てきれずに―



「先輩………?」

 声に驚き、振り返るとニカが立っていた。彼女は欠伸の在庫を小刻みに消化しながら、眠気のベールを瞼から引き剥がそうと擦っている。

「上手く、いきました?」

 彼女の手が耳に移り、ぼりぼりと掻きむしった。

「まあ、なんとか」

「先生は?」

 開きかけた口をいったん閉じ、息を吸った。

「恐竜を見に」

「……………行っちゃったんですね」

 彼女は大きく嘆息を吐いて、大体の事を飲み込んだようだった。


「そういえば、ハンカチ……」

 静馬は言った。

「ハンカチ?」

「前に借りてたハンカチ、あれ、ごめん……」

「無くしたんですか?」

「いや、燃やして……」

 ニカは一瞬キョトンとした表情を浮かべた後、笑った。

「ありがとうございます」

「え、あ……」

「私、子供の頃ずーっと泣き虫だったんです。ずっとむすっとした顔で何かある度に泣いてて。あの青いハンカチ、あれそんな私に母が持たせてくれたものだったんです」

「……す、すまない。そんな大事なものとは知らず」

「違いますよ、先輩。私、母が私が泣いてあのハンカチを使う度、洗濯してくれるのが嫌だったんです」

 ニカは鼻梁を手で擦り、高速道路の欄干まで歩いていき茫乎として薄明の東京を見つめた。


「私が泣いて洗う度、真っ青だったハンカチが色あせていくのが嫌で……それで私、笑うようにしたんです。どんな嫌なことも笑っていれば、泣かなければ、あのハンカチは色あせない………でも、先輩がそれを燃やしてくれた……」

 振り返ったニカは両目に溢れんばかりの涙が溜めていた。

「先輩…………今は、泣いてもいいですよね……」

 震える声で抱き着いて来る彼女を静馬は拒まなかった。彼女を腕の中に迎え入れ、強く抱きしめた。

 ニカが一体いつから、泣くことを辞めてしまったのか分からない。しかし、十数年ぶりであろう涙は激しい慟哭となって横流した。

 ニカはそれかしばらくの間、おんおんと泣き続けた。



 泣き疲れたニカは泣き腫らして真っ赤になった目をこすって、笑った。

 それは今まで見たニカの笑顔とは違っていた。そこには澄み切ったある種の爽やかさがある。静馬は本当の笑顔を今この瞬間見た気がした。

「で、私達はどうするんですか?」

 ニカは両手で涙を拭って尋ねた。

「そうだな、とりあえず、行けるところまではいこう。東京以外は無事だと信じたいしな」

 ニカは再びニッと笑った。

 えくぼが暗がりの中でもはっきりと浮き上がり、静馬は笑い返した。


「車に戻ろう」

 ニカを促すようにして車まで歩いていくと、静馬は助手席のドアを開けた。そして、どうぞとニカに合図をする。

「え、先輩が運転してくれるんですか!?」

「たまには、な」

「やった! 私、先輩の車でドライブに行くのが夢だったんですよ!」

 運転席に乗り込むと、静馬は固くハンドルを握る。すると腹が情けない音を立て、ニカはまた笑った。

「朝ごはん、食べないとですね」

「だな、」

「あ、そうだ。私海老名のサービスエリアにあるメロンパン食べてみたかったんですよ!」

「決まりだ」

「あ、待って、曲、曲!」

 まだ外は暗く、碧い闇が包んでいた。再び走り始めた車のヘッドライトは、闇を少ししか照らすことはない。しかし、それでも常に車の走る先を、ずっと照らし続けるのだった。



 おわり

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東京白亜紀 諸星モヨヨ @Myoyo_Moroboshi339

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