1‐2
駅まででいい、ニカにはそう言ったものの、彼女は家まで送ると言って聞かなかった。車内では『A・ LONG・ VACATION』が2週目の曲を奏でていた。
車は東八道路から武蔵野公園を横切り、住宅街へ入った。空は淡い群青色に染まりつつ、雑踏は夏独特の妙な活気に溢れている。夕景の中、熱い一日がまだ名残惜しそうにその場へ居座っていた。
居抜きになっている建物を通り過ぎ、ローソンの角を曲がり切ると、四階建ての粗雑なアパートが見えてくる。3年前に上京してからずっと住んでいる、静馬の自宅だった。築年数の定かではないくたびれ具合と退色した外壁。八畳半で4万5千円という破格の家賃だけが取り柄のようなアパートだ。
静馬はぐったりとシートに身を横たえたまま、暮れなずむ町を何となくぼんやりと眺めた。深呼吸をすると柑橘系の芳香剤が鼻梁に囁き、口内へ溢れる。そして、ふと気が付いた。この安らぎ。それは懐かしさに由来するものだ。芳香剤の放つ香りは、昔母が車で使用していたものと同じだった。
そうか、だから落ち着くのか。誰からも守られていて、世界が希望に満ち溢れ、そして彼女も―
瞬間、車の前に黒い影がフッと飛び出して来た。
「危ないッ」
静馬の叫びに驚いたニカが急ブレーキを踏み、2人は前へつんのめった。
「な、なんですか先輩………ビックリするじゃないですか」
路上を見回したが、既にその影は消えていた。
「いや、猫が………」言いかけて思った。猫にしては異様な大きさだった。一瞬だったとは言え、黒いその塊は人間の腰ほどの大きさに見えた。イタチやテン。武蔵野公園が近くにあることを考えればあり得なくはないが、果たしてあそこまで大きくなるだろうか。
思案する静馬を尻目にニカが呟く。
「猫………猫ですよ、先輩………」
彼女が指さす方を見ると、アパートの一階に見覚えのある人物が立っていた。
「うげぇーッ、なんで、こんな所にゴディバさんがいるんですか………」
と疎ましそうにつぶやいた。
アパートの駐車場へ車を停めながら、ぶつくさ言う彼女に静馬は尋ねた。
「ゴディバ?」
「知りません? あの人、いーっつもゼミに来ると皆にゴディバ配ってるんですよ? お金持ちなのか知りませんけど。なんかこれ見よがしに」
そう言えば、自分の時もそうだったなと静馬は思った。猫屋敷 澪がゼミにやって来る時は必ず、何らかの差し入れを持って来る。実家が特段金持ちというわけでもない。だが、常に身持ちの良さを漂わせている。
「見栄っ張りなんですよ、あの人、」
追撃のようにニカが言う。誰かに貢がせているのではないかという言う噂があったことも静馬は思い出した。ゼミに顔を出さなくなって半年しか経っていないにもかかわらず、それらの思い出は途方もなく昔のことのように思えた。
澪の所までいくと、彼女は一瞬たじろぐ様な反応を見せ、露骨に怪訝な顔で静馬たちを見つめてきた。
「岸田君と………万城目さん………どうして、2人がこんなところに?」
どうも、と頭を下げながら静馬は表札を見る。彼女が立つ部屋の前には、岡安という表札が掛かっていた。
「いや、自分、この上なんで」
静馬は階段を指さしながら答えた。
「ああ。あなた岡安君と同じアパートだったわね」
鋭い澪の視線がニコを貫く。彼女は問いただされる前にすぐ答える。
「私は、先輩の送迎です」
「先輩の方は岡安に用事ですか?」
静馬が尋ねると、澪は背にしたドアをチラッと見て頷いた。
「ええ。そういえば、あなた岡安君と連絡とってない? 彼、この一ヵ月ゼミにも姿を見せないし、連絡もつかないのよ」
最近の彼を思い出そうとして、咄嗟に思いとどまった。あの夏、以降多くの人と交流を自ら断っている。最近の岡安を知らないのも無理はなかった。スマホを確認してみても、最後のメッセージをやり取りしたのは二ヵ月前だ。
「で、心配になって先輩自ら訪ねてきたってわけですか?」
ニカが恐る恐る言う。
「まあ、そんなところ。一応私、ゼミリーダーだし。それに彼の単位のこともあるしね」
「ま、岸田先輩はもっと来てないけど………」
ニカの小言を澪が咳払いで掻き消し、腕を組んでため息を吐いた。
「でも、ダメ。岡安君の部屋鍵が掛かっているし、何度呼び出しても人の気配が無いの…………あきらめて帰った方がいいわね。岸田君も何か知っていることがあったら、教えて。じゃあ、私はこれで―」
いそいそと帰ろうとする澪を尻目に、静馬は部屋の前に立ち大きく伸びをして、鴨居の辺りを指で手繰った。程なくしてひんやりとした塊が指に触れる。
部屋のカギだった。
失くした鍵を一から作り直すには安くとも1回、5千円はかかる。3万5千円払った時、岡安 丈八はこの場所へ鍵を隠すことを思いついた。そして、静馬はそれを知る数少ない人物だった。
ドアを開けると、サウナのような熱波と度し難い悪臭が体を包んだ。ある程度覚悟はしていたが、先陣を切って部屋へ入ろうとしていた静馬も思わず、足を止めて立ち止まってしまった。
激しくえずくニカの声が背後で聞こえ、静馬はため息を吐く。
口に手を当て、絞りながら呼吸を続けている内、悪臭は次第に鼻と喉に馴染んできた。耐えられたのはそれが動物由来の腐臭ではなく、植物、それも木や土が朽ちて腐敗してしまったような匂いであったからだ。
部屋は大凡見知った様子だった。狭い室内に幾つものラックが並べられ、棚には所狭しと植物の植えられたテラリウムが置かれている。全て、岡安の私物だ。彼を構成している物は二つある。その一つが植物だった。
彼は植物の飼育と観賞には目が無かった。大学で古生物学を専攻していたのも、古代植物の研究や大学に付随する専用温室へ自由に出入りできるからだ。部屋に並べられたアルボピクタやモンステラは彼のお気に入りだった。
ただ、いずれも籠った熱にやられ、俯くように萎れてしまっていた。
「うっわぁ………岡安さん植物オタクっていうのは本当だったんですね………」
後を追って入室して来たニカが言った。玄関を一瞥すると澪はその場に立ち止まり、不快の張り付いた表情で部屋全体を傍観していた。
絡まった64のコントロールと積み上がったゲームカセット。彼を構成するもう一つの要素。ゲーム。タワーのように重ねられたカップ麺の影が、ゲームキューブに伸びていた。ニカや澪はその乱雑具合に閉口していたが、静馬にしてみれば、植物が枯れていること以外、別段変わった所はない。
しかし、部屋の中ほどまで進んだところで、静馬はその臭いに足を止めた。動物の臭いだった。強い、明らかに異質な臭い。微かだが、臭気は部屋のどこからかあふれ出して来ている。
隣室に続く襖がほんのわずかに開いていた。
そこは岡安が寝室として使っていた和室だ。臭いの源流はそこにある。静馬は直感した。
戸の隙間から見える室内は、カーテンが降ろしてあるのか酷く暗い。
「岡安………?」
だれに問いかけるでもなく、ポツリ静馬は呟いた。心臓がゆっくりと強く打ち鳴らされ始め、こめかみに汗の気配を感じた。
あふれ出して来た汗が耳裏を伝い、彼は手で拭う。肌がヒリヒリと痛んで何か途轍もなく嫌な予感がした。
鼓動は早くなって、体を震わし、行動しようとする静馬を躊躇わせた。
引き戸へ手をかけると、それは痛々しいまでに冷たく感じられ、神経をひどく鋭敏に押し上げた。
戸惑いはその恐怖を増幅させ、神経をさらに敏感にさせる。決心した静馬が戸を引こうと力を込めたその時、ニカが甲高い叫び声をあげ、張りつめていた緊張が一気に弾け飛んだ。
「先輩ッ!!」
爆ぜた緊張が肩へずんと圧し掛かって来る。止まった息をようやっと吐き出しながら、静馬は声のした方へ駆けつける。
ニカはベランダを指さし、あんぐりと口を開けていた。
人、一人いるのがやっとという狭いスペースに数個のプランターが整頓されて陳列してあった。
「先輩………これって」
「あ、ああ…………」
プランターに植えられた植物は夏の大気を浴びて生き生きと枝葉を伸ばしている。しかし、それはありうべからざる物。
その植物はこの時代に存在してはならないものであった。
つづく
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