東京白亜紀
諸星モヨヨ
君は天然色
1‐1
レポートの内容と〆切を軽くメモすると、
教場から外へ出た瞬間、全身を包む容赦のない熱波にたじろぎ、彼は束の間、大学の構内をぼぅっと眺めた。
4限目が始まったばかりの東栄大学構内は閑散として、人気がない。併設されたカフェテリアにも人の姿はなく、一人の店員が日よけのパラソルを畳みに姿を見せたかと思うと、すぐ店内へ退却していった。
どこか殺風景な構内を歩きながら、静馬は人手の少なさの理由をぼんやりと考えた。それは単純に講義時間中だからという理由だけでは片付けられないような気がした。
熱さのせいだ―中庭を横切り静馬は思った。人々は熱さを拒んでいる訳ではなく、涼し気な春の残り香が忘れられず、まだ夏への扉を開ける準備が出来ていないのだ。ここ数日のうち、突然顔を見せ始めた異様な暑さに人々はまだ、その思い出を振り切れていないようだった。
1号館を突っ切り外へ出ると、校門へまっすぐ伸びた並木道が見える。ポプラの木は午後の日差しを幾らか軽減してくれてはいたが、それでも大気に漂う、むしむしとした湿気は首筋や腋下にへばりついて来る。
並木の突端、校門のすぐ右手に駐輪場がある。駐輪場と呼べば、聞こえはいいが、それは砂利を敷き詰め、三角コーンで簡単に区分けしているだけのただの空き地で、日よけや路面標示があるわけでもなく、皆無造作に自転車やバイクを止めてあった、
照り付ける直射日光を全身に受けながら、静馬は自分のバイクまで歩く。
サイドミラーに引っ掛けたヘルメットをかぶり、シートに跨ると、じんわりとした熱が臀部を包み込んできた。熱を逃がすようにして座り直し、静馬はバイクのキーを差し込む。
キーを回すと、シリンダーの奥で何かが引っかかろうとしている感じが、指先を通して伝わってくる。
しかしそれは少し奮闘した後、黙りこくった。
またか― 静馬は大きく息をつき、強い力でキーを握りしめた。
イグニッションプラグが酷く劣化しているだけではなく、エンジンの方も相当ガタが来ている。オーバーホールするより、バイクごと買い替えたほうがいいと、バイク屋の店主には言われた。
数回悪あがきをしてみたが、炎天下のカワサキ W650はどうやらご機嫌斜めらしい。
静馬は堪らずヘルメットを剥ぎ取り、迸る汗を拭うように空を振り仰いだ。大学の駐輪場に人影は無く、どっしりとそびえた入道雲は漫然として、授業をサボっている自分を睨みつけているようであった。
近くでセミまで鳴いている。自分の知らぬ間に夏がやってきるようだ。その、微かな夏の情景が、あの夏の情景を思い起こさせ、彼は思わず眩暈を起こしそうになる。
あの夏は確かな重みと気配を伴って、彼の背後、バイクの後部シートへ幻のように現出しているかのようであった。彼はその存在しない気配へ身を横たえようと、体を倒した。
ある筈のない、ひんやりとした感触が背中に触れ、静馬は途端に振り返る。
少女が一人、シートに腰を掛け、足をプラプラと揺らしながらスマホを弄っていた。
「また故障ですか? 先輩」
少女は顔を上げると、ニッと笑う。東栄大学2年
「まだ授業中だろ?」
「それ、先輩が言えた口ですか?」
「俺はいいんだよ、3年だから。あんまサボってたら、癖になるぞ」
「なんですかそれ。私だってちゃんと授業には出たいんですよ? でも最近、いやここ半年、ゼミにも地球科学の授業にも姿を見せてない。そんな先輩のことが気になって、こーやってずっと探してたんじゃないですかぁ」
静馬はゼミの温室や研究発表会のことを考えながら、メットに張り付けたスピノサウルスのステッカーを指でなぞった。
「教授に探せって言われたか?」
「まさか。あの人、そーゆータイプじゃないでしょ? 愛しの先輩が、めっちゃ心配だったからに決まってるじゃないですか、」
ニカはそう言うと、わざとらしく静馬に抱き着いて見せた。それをいなすこともなく、静馬は前を向いて単純な反復作業に戻った。いつの間にかあの夏は霧散していた。
「先輩の運転でドライブ行きたいです」
「メットの予備ないから、乗せらんないぞ」
機械的にそう呟く。ニカは顔と身体を密着させたまま、ジッとしていた。
「変えないんですか? バイク。………私の知る限り………もう1年ぐらい壊れてません?」
無視して静馬はキックスターターを何度か踏みしめてみた。が、結果は同じだった。
抱き着いたニカを引き剥がし、バイクから降りると、かがんでエンジンを眺めた。クランシャフトにシリンダーヘッド。どれにも相応の問題が山積しているように見えたが、不調の決定打になるようなものはなかった。全体的な老朽化。その一言に尽きるのだろう。
十数分、どうにもならないことを何とかしようともがいてみたが、バイクは静馬の両手にべったりとした黒い油汚れしか残さなかった。
「先輩、」
顔を上げると、後部座席で足をプラプラとさせたまま、ニカが見下ろしていた。
「手、拭いてください」
彼女の渡す水色のハンカチで手の油を拭い取り、洗って返そうとポケットに入れた。
「ねぇ、先輩。こう、クーラーの効いた車内で可愛い後輩とおしゃべりしながら帰るっていうのも、悪くないんじゃないですか?」
再び振り返ると、日差しの中でキーホルダーの付いた車の鍵が、ニカの人差し指を軸に回転していた。
車は駐輪場から少し離れた場所に停めてあった。
「都内で車買うって、中々珍しいんじゃないのか?」
助手席のドアを開け、身を屈めると、甘ったるい匂いが静馬の鼻を掠めた。眉をひそめたくなるほどの強い香りに、彼は何故か心地よさを覚えていた。匂いは体を導き、彼は滑るようにして車内へ乗り込む。
日除けのない駐車場に置かれたニカのスズキハスラーは、むせ返るほど熱されていたが、快調にエンジンが始動するとあっという間に車内は冷気で満たされた。
「お家、武蔵野でしたよね?」
駐車場から車を出し尋ねるニカに、静馬は黙ってうなずき、窓越しに通りをゆく人の影を見つめた。環七の向こうの向こうまで陽炎が揺れている。照り付ける熱気に魘されて、アスファルトは湿っているように見えた。
「誰かと曲を聞くため、ですかね」
唐突にニカが言った。
「え?」
「いや、車を買った理由です。先輩が珍しいとか言うから」
「ああ」と、返答し静馬は視線をニカに転じた。
「今って全部個人的なんですよ。サブスクも電子書籍もネトフリも。自己完結しちゃうっていうか。そこからの共有とか広がりが無いと思うんですよ。勿論、どこでもそーゆー物が楽しめるのはいいと思うんですけど………でもそれってなんか、寂しくないですか?」
静馬は車内を満たしているこの匂いがどうして心を落ち着けるのか、ニカの話を聞きながら考えた。冷たさで先ほどの甘ったるさが幾分マシになってくると、やがてそれは柑橘系の芳香に変わった。
「でも、こうやって車に乗ってると嫌でも一緒に曲聞くじゃないですか。それが、いいんです。曲は栞みたいなものですから、先輩を乗せてドライブした時の記憶も曲と一緒に保存するんです。ってことで、何聞きます?」
ニコに促されるまま、グローブボックスを開けると大量のCDが詰まっていた
「先輩チョイスでお願いします」
「チョイスと言われても………」
静馬はCDのケースを1枚1枚取り出しながら言った。そもそも音楽を聞く習慣もあまりなければ、CD自体にほぼ馴染みもない。加えて、次から次へと出てくるCDはどれも―
「古いな……」
BOØWY、サザンオールスターズ、松任谷由実、辛うじて名前を知っているアーティストも幾人かはいたが、多くは見たことも聞いたこともないグループばかりだった。
「どうです? なんか、気に入ったのとかありました? あ、小泉今日子もいいですよぉ先輩。なんてったって、アイドルですからね!」
ニカの目がチラッと静馬の手元を見た。丁度、小泉今日子のアルバムを手に取った所だった。
「いや………あいみょんとかサカナクションとかなら分かるんだけど……」
「あー、最近の曲はほとんど聞かないですかねぇ………でも、酷いんですよ先輩。最近の人は車でCD聞かないだろって。聞くにしてもスマホから飛ばすからプレーヤーが付いてないのばっかなんですよ? そりゃあまあ、私もスマホで音楽聞きますけど、やっぱCD、もっと言えばレコードで聞きたじゃないですか! 連続性の中でって言うか。だからわっざわざいい音質でCDを再生できるやつ探したんですよ?」
静馬は最後の方にあった一枚のCDに手を止めた。知っていた訳でも、既視感があった訳でもない。ただ何となく、そのジャケットに心ひかれた。青く美しいプールサイドとそれでいてどこか哀し気な空。
まるで夏を体現したような雰囲気があった。
イラストの上には『A・LONG・VACATION』の文字。
「
「有名な人?」
「え、ええ?知らないんですか!? 先輩! 元はっぴぃえんどの人ですよ。このアルバムは1981年にリリースされた邦楽の大、大大大大名盤ですよ!」
「1981年………」
「古いって思ってます? …………私、古いっていうか昔の曲の方が好きなんです」
「変わってるな、」
「そーでもないですよ。最近ブームなんです。昔の曲。ほら、80sの文化がリバイバルしたり、レトロな物が逆におしゃれって流行ったりしてるじゃないですか」
「そんなにいいのか?」
「うーん、なんていうか懐かしい気持ちになって落ち着くって言うか……」
「懐かしいって、生まれてないだろ」
「まあ、そうですけど………」
車は環状七号線をわざと外れ、市街の中へ入っていった。住宅地を抜けて渋谷へ出ると、スクランブル交差点の前で止まった。巨大な街頭広告が最近のアーティストを宣伝しているのが見えた。
「でもなんか分かりません? 自分が生まれてるわけでもないのに、昔の物に変なノスタルジーを感じる」
カーオーディオから一曲目の「君は天然色」が流れ始めた。その曲を聞いていると、ニカの言わんとしていることも分かるような気がした。
それは誰しもが持っている過去への郷愁。体や心に染みついてしまった追慕の情なのかもしれなかった。
つづく
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