第二章:三好八助

三好八助1

 僕は小さな村で生まれた。兄弟姉妹はいなくて母と父の三人家族。でもあまり記憶はない。というのも僕が物心ついてすぐに両親は死んでしまったから。

 ある日、両親は僕を村に残して江戸へ行った。多分、江戸までは距離があったから僕は村に残したんだと思う。行った理由は覚えてない(もしかしたらら聞いてたかもしれないけど)。

 そしてそのまま帰ってこなかった。帰ってきたのは叔父だけ。叔父は江戸で両親と待ち合わせをしていたらしい。でも待てども現れず途中で出会わないかとこの村の方向へ軽く歩き始めたという。

 そしてその途中でたまたま見つけてしまった……。

 叔父の話によると両親は辻斬りに会い、斬り殺されたという。正直、僕は良く分からなかった。だけど叔父に両親とはもう二度と会えないと言われそれが……凄く悲しくて泪を流したのは覚えてる。

 そんな慟哭する僕に叔父は言った。


「良かったら、これからは儂と一緒に暮らさんか?」


 その手を取った僕はあの日からこの吉原遊郭の仲ノ町に並ぶ(位置的には揚屋町前)料理屋『三好』で働きながら叔父である源三郎さんと暮らしている。



「八助。出来たぞ。運んでくれ」

「はい」


 吉原遊郭の三好は引手茶屋や妓楼へ料理を届ける他に、店へ来るお客にも料理を提供している。今のところはそれを源さんが一人で作ってて僕は配膳や皿洗いなどの手伝いをしてるという役割だ。でも行く行くは料理を学んで少しでも源さんの負担を減らしたいと思ってる。両親の代わりに本当の息子のように僕を育ててくれた源さんへ少しでも恩返しがしたいから。

 その日、僕は夜中に源さんと引手茶屋と妓楼から食器を回収して回っていた。そして丁度、吉原屋へ寄る前に警備隊の人と出会った源さんはその場で足を止め世間話を始めた。僕はその後ろで話が終わるのをただ待つだけ。特にやることも無く佇んでいた僕は自然と視線を吉原屋最上階にある夕顔花魁さんの個室へ向けた。空を見上げるように顔を上へ向けてみるとそこには夕顔さんの姿が。しかも彼女は座っててこっちを見下ろしている。

 まさか居るとは思わず僕は驚きのあまり固まってしまった。まるで凝視するように視線をじっと向けたまま。でも実際はちゃんと見れていない。月明りがあるとはいえ薄暗く、何よりただただ驚愕としてしまっていたから。見ているけど見ていないぼやけているような視界の中で、夕顔さんが何か動いているのは分かったけど、最初は何をしているのかは分からなかった。

 だけど段々と頭が落ち着きを取り戻し鮮明になっていくとでも言うのか、夕顔さんが手を振っているという事を理解しその姿を目にした。そして二度目の驚愕。あの夕顔さんが……とは思いつつもちゃんと手を振り返さないと、そう思い手を上げようとするがどこか面映ゆくすぐには出来なかった。


「おい、行くぞ」


 結局、源さんに呼ばれた僕はその面映ゆさに手を上げる事なくその場を後にした。でも残りを回収し三好に戻るまでずっと、無視したみたいで申し訳ないというか後悔の念に駆られていた。いや、三好に戻り頼りない灯りの傍で一休みしている間もずっと。

 そんな風にいつもはお客が料理を食べる席に座りぼーっとしてると源さんが湯呑を片手に向かいの席へ腰を下ろした。


「どうした?」

「いや。なんでも」


 お茶を一口飲んだ湯呑がテーブルへと置かれる静かな音が森閑とした店内に波紋のように広がる。


「また見ておったろ?」

「え?」

「お前さんには無理だ。相手はこの吉原遊郭の頂点。世界が違う。分かるだろ?」

「分かるけど」

「そもそも儂らのようなもんを客としてない。もっと上の連中だよ。これは変えようのない事実だ」

「そうだけど……」


 僕は突っ伏すように置いた両手に顔を乗せ、昔の事を思い出していた。まだ幼かった頃、初めて見た花魁道中を。沢山の人を引き連れて、煌びやかな衣装に身を包み、優雅に堂々と歩くその姿は子どもながらに圧倒される光景だった。


「一度ぐらいは会って話してみたいな」

「――いいか?」


 源さんは言葉と一緒に僕を指差し少し秘密話でもするように顔を近づけた。


「今はまだ若いからいいが、いずれは別の素敵な女性を見つけて家族を持て。女房と子どもはいた方がいい。どちらもおらん儂が言うんじゃ間違いない」


 そう言って彼は温和な笑みを浮かべた。


「僕は? 僕は源さんの事、本当の父親のように思ってるよ」

「そりゃあ嬉しい限りだが、お前さんの父親はあいつだけだ。母親もな。短い間しか一緒におれんかったがそれでもそれは変わらん。儂はただの、代わりだ」


 源さんは言葉を口にしながら湯呑を持ち上げ、言い終えると同時に一口。


「そんな事より、儂のように逃すなよ。相手も時期も」


 そして立ち上がった彼はそのまま行ってしまった。

 きっとこれを口にしても源さんは否定するかもしれないが、彼が独り身なのは僕の所為なんじゃないかって思ってる。まだ幼い僕の世話の所為で彼の人生の時間をあっという間に奪ってしまった。そう考えると心が咎める。でもそれは言わない。どうせ関係ないと言われるだけだから。

 だから僕は少しでも彼に恩返しがしたい。今でも十分助かってると彼は言うけどもっと出来る事があるって思ってる。その為にはやっぱり料理を手伝えないと。引手茶屋や妓楼の酒宴は複数の店から出前を取ってるとは言えその量は凄い。だから今の仕事をこなしつつもそっちも手伝えるようになりたい。だから明日もう一度、頼んでみよう。


「料理?」

「うん。僕も手伝いたいんだよ」

「今のままで十分助かっとる」

「でももっと楽にしてあげられる」

「それでそのままこの店でも継ぐつもりか?」

「それでもいい」


 僕の迷いない返事にまず源さんの溜息が返ってきた。


「別にここで育ったからといって継ぐ必要はない。お前さんもそろそろ江戸でも好きな所に行ってやりたい事をやれ。何人かは儂のツテも紹介してやれるぞ」

「別にやりたい事なんて。それにそうしたら源さん一人になっちゃうじゃん」

「今までもそうじゃったから別に変らん。それに人手が必要な時は鶴ノつるのえの婆さんに言って借りるさ」

「でも……」

「少しでも手伝いたいなら口じゃなくて手を動かせ。ほら、止まっとるぞ」


 結局こうなる。いつもそうだ。でもこんなやり取りも、もう既に変わらない日々の一部になりつつあるのかもしれない。

 でもそんなある日の夜。突然、源さんがこんな事を言い出した。


「そんなに気になるのなら一度行ってみるといい」

「どこに?」

「吉原屋にだ」


 その瞬間、何が言いたいのかすぐに分かったが、同時に僕は思わず呆れたような声を出してしまった。


「源さん。自分だって言ってじゃん相手はここの頂点で住む世界が違うって。それに彼女を呼ぶにはまず引手茶屋を通さないといけないし、認められるには最低でも三回は通わないといけない。何より莫大な量のお金が必要になる。今の僕じゃ一回分の半分すら支払ないよ。全部知ってるでしょ?」

「分かっておる。なら直接行ってお願いしてみろ。お前さんもよく配達に行っとるしもう顔馴染みだろ。もしかしたら一夜、とはいかなくとも少しぐらいなら会わせて貰えるかもしれんぞ?」

「全く。冗談はよしてよ。無理に決まってるじゃん。それに多分だけどちょっと会うだけのお金も払えないよ」


 すると源さんはテーブルに巾着袋を投げた。着地音を聞く限り重そうだ。


「何これ?」

「まずは駄目元で行ってみろ。今はもう新規の客もおらんから迷惑にはならんはずだ」


 僕は彼の顔から巾着に視線を落とすと中を覗いてみた。そこにはそれなりの額のお金が入っていた。


「足りない分は貸しといてやる」

「急にどうしたの?」

「ただのきっかけだ。全てに望みがあるとは言わんが、人生においては思っても無い事が起きる事もある。良くも悪くもな。だがそれに関わっていなければ何も起こらん。絵を描かぬ者に絵師になる機会はこないし、俳句を詠まぬ者に俳人になる機会はこない。空に身を晒さぬ者が陽光を浴びる事も雨に打たれる事もないように行動は必要だ。それでどうする? 行かんのか?」


 もう一度巾着袋へ視線を落とし中のお金を見下ろした。どうせ無理だという事は分かってる。行ったところで意味はない。だから別に行かなくても同じ事。


「無理にとは言わん。行く気がないのならこれは――」


 源さんはゆっくりと巾着袋へと手を伸ばした。だが彼が手に取る前に僕は巾着袋の口を閉じた。

 行っても行かなくても一緒なら行ってみよう。こんな僕が通常の手段であの夕顔さんに一度でも会える確率なんて無い。こういう賭けというにはあまりにも勝率の無い事でもしない限り。


「分かったよ」

「ならさっさと行ってこい」


 僕は巾着袋を手に立ち上がると戸へ歩き始めた。


「朝はゆっくりしてきていいぞ」

「朝どころかすぐに戻ってくるよ」


 茶化すように口元を緩めた源さんにそれだけを言い残し僕は吉原屋へ。

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