三好八助2

 僕は夜に包み込まれても尚その存在感を放つ吉原屋を見上げた。すっかりと静まり返った吉原屋。といっても営業時間に比べてだけど。そして視線を吉原屋全体から最上階の部屋へ。あの部屋に今も吉原屋最高位花魁の夕顔さんがいる。

 僕は深くゆっくり息を吸って吐いた。

 そして吉原屋の中へ。


「あれ? 八助。どうした? 食器は全部返したと思うけど足りなかったか?」


 入ってきた僕に声を掛けてきたのは吉原屋奉公人の幸十郎さん。


「いえ。あの、実は……」

「何だ。ハッキリ言ってみろ。こっちもまだやる事があるんだ」


 やっぱり止そうか。そんな事が頭を過りはしたが、相手が知っている人だったから僕は巾着袋を差し出しながら言葉を口にした。


「これで少しだけでも夕顔さんとお会いしたいんです!」


 幸十郎さんは訊き返すような表情を浮かべたまま巾着袋を手に取り中を覗いた。ゆっくりと巾着袋から僕へ戻ってくる視線。


「あー。いいか? 下級遊女ならまだしも彼女はこの店の頂点だぞ? その意味が分かるか?」

「この吉原遊郭で一番ってことですよね」

「その通り。じゃあもちろん彼女と同衾する為の手順も知ってるな?」

「大門傍にある引手茶屋『高屋』で――」

「そうだ。彼女と同衾する為に男たちは大金を注ぎ込む。それが彼女の価値なんだよ。彼女を手にするのが困難だからこそ彼女には大きな価値がある。分かるな?」

「……もちろんです」


 明日も変わらず太陽が昇る事を予想するより簡単で当然な結果だ。


「まぁあれだけの美女だ。気持ちは分かる。特にお前はまだ若いしな。それにお前が話してた事も覚えてる。だがこればっかりは駄目だ。すまんな」


 そう言って幸十郎さんは巾着袋を僕の方へ。


「お前は真面目で良い奴だ。でも俺にはどうする事も出来ん。だからこれは聞かなった事にする。いいな?」

「何をだ?」


 抑揚の無い静かなその声は辺りの喧騒の中を真っすぐ突き進み僕らの耳へ届いた。そして僕と幸十郎さんは同時にその声の方を見遣る。

 そこに立っていたのは背の高い細身の男性。他の人より良い服を身に纏い獲物を見る猛禽類のような鋭い双眸をしていた。直接会うのは初めてだが僕でもこの人が誰だか知っている。恐らくこの吉原遊郭で夕顔さんの次に名の知れた人物だ。


「楼主様!」


 吉原屋の楼主であると同時にこの吉原遊郭の監督・管理を一任されている人物、吉田秋生。

 手に帳面を持った秋生さんは威風堂々とした立ち振る舞いで僕らの方へ静かに近づいて来ると、幸十郎さんから彼の差し出している巾着袋へ視線を落とした。


「何だこれは?」

「あっ。いや、これは……」


 そして口ごもる幸十郎さんの言葉を待たず巾着袋を彼の手から取った秋生さんは中を覗き込んだ。


「説明しろ」

「それは――」

「すみません!」


 僕は幸十郎さんの言葉を遮ってまず一言謝罪をした。その声に秋生さんの射貫くような視線が僕へ。


「それは僕がこれで夕顔さんに会いたいっていう身勝手なお願いをしただけで幸十郎さんは何の関係もありません」


 僕だけの言葉じゃ信用出来ないのだろう秋生さんは一度、幸十郎さんを見た。


「まぁ、そうです」


 そして再び僕の方へ。だが何も言わずじっと睨むように視線を突き刺すだけだった。


「あの……楼主様」


 僕を助けようとしてくれたのか幸十郎さんがその沈黙を破るが透かさず秋生さんの手が彼を黙らせた。


「客が急遽、帰りアイツは今手が空いてる。だが新規の客ももういなければ他の廻し客の相手をさせる訳にもいかない」


 秋生さんは独り言のようにそう言うと確認するように巾着袋の中を見た。

 そして何度向けられても心臓が反応してしまう目つきが再び僕を射貫く。


「お前は運が良い。だがこの事は一切口外しないという条件だ」

「えっと……それって」


 僕は彼が何を言っているのかすぐには理解できなかった。


「もしそれが出来るのならいいだろう」

「すみません。ちょっとどういうことか……」

「今夜の事をお前の中だけに留められるのなら応じてもいいと言った。だがあいつは客を選ぶ事が出来る。もし断られたら諦めろ。だが返金はしない。お前を客とするのにはこちらも多少なりとも危険を背負う事になる。そしてこれはその分の代金でもある。どうする? 今すぐに決めろ」


 今すぐに、確かに彼はそう言ったが僕は少しの間だけ唖然とし黙り込んでしまった。頭の中は彼の言っている事を理解するのに必死で、条件なんて全くと言っていい程に気にしてなかった。


「無理なら――」

「出来ます! お願いします!」


 秋生さんが巾着袋を返そうとするのを遮り僕は前のめりで答えた。


「ならついて来い」

「はい!」


 そして僕は驚愕しながらもどこか嬉しそうな幸十郎さんと握った拳を軽く合わせてから先に歩き出した秋生さんの後に続いた。あまりにも急すぎる出来事に夕顔さんの部屋へ向かっている途中でやっと脳が現状を理解したようだ。同時に緊張が心臓へと到着。夢でも見てるんじゃないかと疑いたくなる程に理解は出来ても信じられなかった。余りの鼓動に今にも飛び出しそうな心臓を胸に上へと向かう。

 そしてついにその部屋の前へ。今まで何度見上げた変わらないあの吉原屋最上階。幾多の男たちが欲望の眼差しで見上げた部屋。この立派な襖の向こう側にはあの夕顔花魁さんが居るんだ。そう思うだけで今にも倒れそうな程の緊張に襲われる。

 そんな僕を他所に襖の前で立ち止まった秋生さんはまずこちらを振り向いた。


「最後にもう一度だけ言っておく。もしこの事が口外されればお前だけじゃなく三好もこの吉原遊郭から追放する。いいな?」

「はい。大丈夫です」


 僕は余りの緊張か興奮か秋生さんの言葉を話半分しか聞いていなかったのにも関わらず即答してしまった。今の僕の頭には早く夕顔さんと会ってみたいという想いしかなかったのだ。


「なら少し待っていろ」


 そして秋生さんは僕を廊下に残し部屋の中へ入って行った。僕はその間まるで自分自体が巨大な心臓に成ってしまったかのように鼓動を感じながらただ待つのみ。そんな僕とは相反し寸分の狂いもなく冷静な様子の秋生さんは暫くして部屋から出て来た。


「入れ」

「ありがとうございます」


 お礼を言い彼とすれ違おうとした僕だったがその際、胸に当たった手に一度足を止められた。


「それと早朝、この部屋からは一人で出ろ。そして吉原屋からは裏から出るんだ」

「はい」


 僕の返事を聞くと彼の手は離れ、そして僕らはそれぞれ反対方向へ足を進めた。

 部屋に入るとそこには窓際に立つ夕顔花魁さんの姿が。彼女を目にした瞬間、僕の時間は止まった。ついさっきまであったはずの緊張も戸惑いも全てが消え去り、ただ目の前の彼女を見つめるだけ。その立ち姿、その所作、頭からつま先までどこをどう切り取っても美しいという言葉しか見つからない。いや、それ以外の言葉を探す事さえどうでもよくなってしまう程に、ただ見つめその美しさを感じていたいと思わせる魅力が彼女にはあって僕はその虜にされてしまっていた。ここに入り一目見ただけで。


「ようこそ……」


 でも時間の流れは絶対。僕が止まったと感じているだけで実際は進んでいる。そして僕の中で段々と現状が現実となるにつれ消えていたはずの緊張が彼女を目の前にしている分、より増大して戻ってきた。余りの緊張に手が震える。僕は思わず彼女から目を逸らした。


「おいでくんなまし」


 それから僕の視線は回遊魚のように部屋のあちらこちらへ動き回り、手持ち無沙汰のように両手も落ち着かない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る