三好八助3

「ずっとそうしてるのもいいでありんすが、こっちに来るのもいいと思いんせん?」


 布団に腰を下ろした夕顔さんはそう言って隣をぽんぽんと叩いた。緊張の所為で足を畳に打ち付けられたように動くことすら儘ならない状態だったが、折角ここへ来れたのにいつまでもこうしたままでいる訳にはいかない。僕は勇気を足に結び付けると引き摺るように動かし夕顔さんの隣に腰を下ろした。限界まで近づいたつもりだけどまだそこには距離がある。でも僕からすればあり得ない程までに彼女に近づいてる事は確かだ。

 だけど夕顔さんは僕の限界なんて関係ないなんて言うようにすぐ隣までその距離を縮めた。ほんのり甘く心臓を締め付けるような匂いが呼吸する度、酸素に混じって肺を満たす。僕は視界の端で確かめるように彼女を見た。何度見ても美しい夕顔さんが手を伸ばせば触れられる距離にいるなんて、不思議でしょうがない。どこか夢の中にいるようなそんな感覚だった。


「お初にお目にかかりんす。わっちは夕顔と申しんす」


 こんな僕にも丁寧に頭を下げてくれる夕顔さん。


「は、初めまして。八助……で、です」


 それからも僕は緊張から中々逃れられないでいた。彼女の言葉をいくつか聞き逃してしまう程に。でもそんな僕にも夕顔さんは優しく接してくれた。その触れる手は柔らかく春陽ように温かくて、その声は小鳥の囀りのように心地好い。僕を真っすぐ見てくれるその瞳はどの星よりも綺麗で輝いていた。だけど彼女の美しさに触れる度に、あの夕顔さんがすぐ目の前にいると感じる度に緊張の波紋が全身へと広がっていく。

 そしてあまりの緊張でこの時間を無駄にしている間も夕顔さんは普通の客のように僕の相手をしてくれていた。でも普通の客と違って僕には今夜しかない。だからしたいことをちゃんと伝えないと、と思い勇気を振り絞った。


「お話がしたかっただけなんです!」


 遊女である彼女を一夜買ってただ話がしたいなんて――自分でも分かってる。変だって。

 だけど夕顔さんはそんな僕の変な言葉に対して笑みを零した。嘲笑とは違う嫌な感じじゃない笑み。それは美しさの陰に隠れた可憐な一面、それだけでも大金を払った価値のあるものだった。

 でもやっぱりこんな事をお願いするのは迷惑かもしれない。そう思っていた僕だったが、彼女はそれを快く受け入れてくれた。それに楽しそうな笑みまで浮かべてくれていたのはきっと僕を気遣ってくれていたからなんだろう。しかも話しがしたいと言い出しのにも関わらず、すぐに話題が思い浮かばなかった僕へ助け船として先に質問をしてくれた。

 そこからは言葉を交わしている内に段々と緊張が解れ――というより楽しさが勝り夕顔さんの顔を見る事もちゃんと話す事も出来るようになっていった。きっとそれは彼女が話し上手で聞き上手だからなんだろう。

 途中、戸惑いが隠せず顔の熱さと滑らかで柔らかな感触を感じる事もあったが彼女は僕が眠りにつくまで望み通り話し相手になってくれていた。それは内容なんてよく覚えてないような他愛ない会話だったけど、僕の言葉にあの夕顔さんが反応してくれているというのが嬉しくてたまらなかった。

 ずっと見てる事しか出来なかった夕顔さんが僕の隣で、僕の話に耳を傾け反応し、笑みを浮かべてくれる。単なる夢世界での出来事かそうじゃなければそれは温かな雪が降り注ぐ程の奇跡だ。到底、信じられる事じゃない。はずなのに夕顔さんが握ってくれていた手から伝わる温もりは不思議と僕に現実味を与えてくれた。夢なんかじゃなくて私はここにいると語りかけるように。

 最初に彼女が言ってくれたように(意味は違えど)それは僕にとって忘れられない最高の夜となった。もし可能ならずっとこの時間に閉じこもりたいと願う程、一生忘れる事のない最高の夜。

 でもそういう意味ではやっぱりこれは夢だったのかもしれない。朝になり目覚めれば終わってしまうように朝を迎えた僕にもそれは訪れた。

 いつものように早朝に目覚めた僕は寝惚けた頭が覚めるにつれ、昨夜の事を思い出していた。そして見慣れない天井から視線を横へ移してみるとそこには穏やかな表情で眠る夕顔さんの姿。その瞬間、今までのどの朝よりも幸福感に満ちた朝へと変わった。夕顔さんは忘れられない最高の夜だけじゃなくて最高の朝も僕にくれたらしい。おまけにしてはあまりも贅沢過ぎる気もするが。

 僕はその贅沢なおまけをもう少し堪能してからゆっくりと起き上がり部屋を出ようとした。だが物音でも立ててしまったのか部屋を出る前に夕顔さんが目を覚ましてしまった。本当は起こしたくはなかったけど、起きてしまったのだからと朝の挨拶と言葉をいくつか交わす。それから部屋を出ようと思ったが起き上がり傍まで来てくれた彼女は、最後にまた贅沢過ぎるおまけ――というよりお土産をくれた。離れても尚そこには確かな感覚が残っていて……。


「おさればえ、八助はん」


 夕顔さんはそう言うと莞爾として笑った。その瞬間、脳裏にはあの日花魁道中で見た光景が稲光のように浮かび上がってきた。重なり合う現実と記憶。もしかしたら今のが一番忘れられない瞬間なのかもしれない。いや、そうだ。これから何度も繰り返し思い出すそんな瞬間だった。

 そして頬に残る感覚を感じながら僕は改めて終わったんだという事を実感した。同時にもう昨夜のような夜もこんな朝も二度と来ないんだという事も。


「ありがとうございました」


 最後にこの部屋に入ってから今まで分をまとめて一言、お礼を言った。そして部屋から出ると下へ向かう為に廊下を歩き出す。一階まで降りて裏口から外へ。でも仲ノ町に入る前に僕は一度振り返り吉原屋の最上階を見上げた。まるでもう二度とないと言うように閉まったままの窓。


「そうだよね」


 僕は一人呟きながら何度か小さく頷くと前を向き直し店へと帰った。

 店に戻るとそこには休憩中の源さんが湯呑を片手に座っていた。


「ただいま」

「戻ったか」


 僕はそのまま彼の向かいに腰を下ろす。


「それで? どうだったんだ?」

「うん。良い想い出が出来たかな」

「それは良かったな」


 源さんはそう微笑むと湯呑みを口まで運んだ。

 僕はその湯呑みに書かれた一字を眺めながら昨夜の事、そして別れ際の事を思い出していた。


「どうした?」


 いつの間にか卓上へと湯呑みが戻ったのも気が付かぬ程ぼーっとしていた僕を源さんは伺うような表情で見ていた。


「いや。別にちょっと……」

「もう二度はないぞ。絶対にな」


 僕の心を見透かしたように彼はそう言った。


「それは分かってる。だからもう完全に終わった気がして。なんか変って言うか複雑な気分」


 悲しみとは違う喪失感って言う訳でもない、それは初めて経験する気持ちだった。


「人生において挑戦する事は大事だが、いくら頑張ろうとも望む通りの結果が出ない時もある。色々と思う事もあるだろうがどう足掻いても結果は変えられん。むしろその分、次への出発が遅れてしまう。諦めない事も大事だが、それと同じぐらい諦める事も大事だ。希望を持つ事は大事だが、それと同じぐらい絶望もあると知っておく事も大事だ。立ち止まるなとは言わんが歩き出さないと次が何も始まらないぞ」

「分かってる。別にどうこう出来るなんて思ってないし」

「ならその気持ちを忘れられるぐらい集中出来る目標を見つけろ」

「うん。――とにかく今回はありがとう。源さんのおかげで叶った訳だし、それに借りた分もちゃんと返すから」

「確かにあれは貸したが金を貸したわけじゃない」

「でも借りたのはお金だよ?」

「金はいい。だが貸しひとつだぞ?」


 源さんは人差し指を立て見せるとその指で僕を指差した。


「なんかお金より厄介そうだけど。分かった。ちゃんと返すよ。ありがとう」

「礼はいい。あの話も知ってるし、お前さんがずっと見てたのも知ってる。それに頑張ってたのもな」

「確かによく見てたけど、でもここじゃほとんどの男の人はあの人を見てるよ。外歩けばあっという間に人の道が出来る」

「まぁそれは否定しようがない事実じゃな」

「それより残りの準備は僕がやるよ」


 僕はそう言って立ち上がったが「儂もやる」と彼もまた腰を上げた。そしていつもの日常と何ら変わらぬ朝と合流した僕は非日常からあっという間に連れ戻されてしまった。

 でも別に毎日のように朝早くから夜遅くまで三好で源さんと働くこの日々は嫌いじゃない。ただ前とどこか違った気がするのは――未だにあの日の夕顔さんの笑みを忘れる事が出来ないのは何故だろう。ふとした瞬間、無意識的に頭に浮かぶあの光景。同時に海の向こうにある世界のように言葉に出来ない感情が僕の中で渦巻き始める。やっぱり一度でも会ってしまったのは間違いだったかと思ってしまう。でも記憶に残るあの日は否定しようがない程に最高なモノだった。

 そんなある日。僕は筆を取っていた。そして流れるように紙の上を走らせていた。こんな事していいのか分からないけど――いや、駄目だとは思うけど僕は決意と共に感情を認めた。


「八助! 出来たぞ!」

「今行く」


 僕は店へ下りると源さんの作った料理が乗った足膳を確認した。


「今日は届けてくれと頼まれてるんだ。吉原屋まで頼む」

「分かった」

「気を付けろよ。でも早くな」

「了解」


 そして源さんは台所へ戻り僕は足膳を持ち上げる――前にさっきの手紙をこっそり天ぷらの乗ったお皿の下に忍び込ませた。

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