夕日が沈む7
それは数日後のことだった。蛍はあれからずっと(常夏の事で立ち直れないでいるんだろう)どこか元気がない様子が続いていたがその日は違っていた。
「夕顔」
朝食後、私の部屋へ来た彼女はいつもの天真爛漫な笑みとまではいかなくとも最近の中では一番明るく輝いた表情をしていた。そして私の前に向き合って座ると調節するように少し近づく。
「えらい機嫌良さそうやな」
「まぁね」
「それでどないしたん?」
「夕顔は、遊女は間夫にこっそりと本名教えるって知ってる?」
「話ぐらいは聞いた事あるなぁ」
「さて問題。それはどうしてでしょう?」
「急になんなん?」
「いいから。さっ、考えてみて」
言われるがまま私はその理由を考えてみた。
「本名で呼んで欲しいとか?」
「それもあると思うけど。正解は、特別な関係になる為と遊女である自分と切り離す為らしいよ」
「なるほどなぁ。それで? なんでそないな話をするん?」
蛍は答える前に更に私の方へ。膝がくっつきそうな程の近さだ。
「夕顔に私の本名教えようと思って」
「つまるところわっちは今、愛を伝えられてるって事なん?」
冗談交じりの私の言葉に蛍からの口元も緩む。
「それは前回済んだと思うけど?」
「そうやったね。ほななんなん?」
「ほら、あたしたちって昔から一緒にいるけど本名ってお互い知らないじゃん」
「わっちたちはここに来た時点で本名はほかさせられたさかいね。そいでこれからは年季明けまで生きる遊女としての名前を与えられた」
「そう。だからあたしにとって夕顔は夕顔だし、夕顔にとってあたしは蛍。でもあたしたちってもう単なる遊女仲間って訳じゃないでしょ? 前に言ってくれたじゃん家族同然だって」
「そうやな。わっちはそう思てんで」
「だから夕顔には知ってて欲しくて。それが本当のあたしかどうかは分からないけど、遊女としてのあたしだけじゃなくてちゃんとしたあたしを。亡くなった両親から貰った名前のあたしを覚えてて欲しくて。いい?」
「もちろん。ええで」
それを断る理由は無い。むしろより一層に蛍との仲が深まるような気がして嬉しい限りだ。
「ありがとう。でもそう言う意味では変わらないのかもね。あたしたち特別な関係だし遊女じゃないあたしを知ってもらおうとしてる訳だし」
「愛し合うてるしなぁ」
また零れる蛍の笑いに今度は私も釣られた。
「そうだね。でも夕顔は二番だけど」
「妬いてまうけどしゃあないなぁ」
言葉が消えると伸ばした蛍の両手が私の手を挟み、そっと触れた。温柔に包み込まれたそれは朝顔姐さんを思わせる程に優しく、姐さんにそうされた時と同じように手から伝わってきた温もりが胸の奥に沁みるのを感じた。
そしてそれに応えるように私はもう片方の手を彼女の包み込む手の上へ。
「誰にも言っちゃ駄目だよ?」
「分かってる」
「あたしの名前は……。ひさ。ひさっていうの」
「ひさ。――ええ名前やな」
「ありがとう」
すると蛍――ひさは手を離すと、そのまま顔を近づけ私に抱き付いた。首に腕を回しあの時のようにぎゅっと。遅れて私も彼女の体を両腕で包み込む。
「忘れないでね。ずっと覚えてて」
「ずっと忘れへん」
「どれだけ遠くに離れてもずっと一緒だから。あたしはずっと夕顔の事、忘れないから。だからあたしの事も忘れないでね」
常夏の事でそういう恐怖が強くなったんだろう。涙声の彼女は強く私を抱き締めた。
「大丈夫。何があっても忘れへん。朝顔姐はんがそうなように」
「あたし夕顔と出会えてよかった。夕顔はあたしの癒しで元気の源で支えで。あたしが今までやってこれたのも夕顔のおかげ。正直言ってここに来た人生をあたしずっと恨んでたけど、夕顔に出会えたって事を見ればこの人生でも良かったって思ってる。だから本当にありがとう」
「そらわっちもおんなじやで。わっちもひさから沢山元気を貰うとった。ひさに沢山支えられとった。ひさがいーひんかったらあかんくなっとったかもしれへん」
「そんな事はないって。だって夕顔はあたしより全然強いもん。だからあたしが居なくても大丈夫。でもちょっと真面目なとこがあるからそこは難ありかも。もう少し適当になってもいいと思うし冒険してもいいと思うよ」
「その言葉はよう心に刻んどくで」
「そうして。あと五年なんて言わずに機会があったらこんなとこ抜け出さないと。あたしたちはもっと長かったけど、十年の辛抱だなんて意味分からない。そもそもあたしたちの借金でもないのに。だから夕顔もこんなとこ抜け出さないと」
今まで冗談と本気の入り混じった身請けという言葉を何度もせがんできたが、実際に私を身請けしたいという申し出はきたことない。あと五年の間にそれが来るかも分からない。それにもし来たとしてどうするかは私自身にもまだ分からない。だけど彼女の言う通り少しぐらいここを途中で抜け出せるという部分を大きく見て考えた方がいいのかも。
「そうやな。それとこらわっちからもお返しや。よう聞いてーな」
「なに?」
そして私は一拍の間を置き、ここへ来てから一度も口にしたことのない――むしろ少し慣れない自分の本名を口にした。
「忘れたらあかんで」
「うん。良い名前。もっとこの名前で呼びたかったな」
「二人の時なら呼んでもええで」
「そうだね」
その声が静かな部屋に浸透するとひさは私の本名を呼んだ。
「ありがとう。これまでも、これからもずっと大好きだから。――だから最後にひとつお願いい?」
「何でも言うて」
「あたしの本名の方でもう一回呼んで欲しいな。その綺麗な声で」
私はその要望に答える前に彼女の体を少し強く抱き締めた。
「わっちも大好きやで。ひさ」
ひさは私の声が消えても少しの間、抱き締める腕を緩めなかった。だから私も彼女の気の済むまで何も言わず同じように抱き締め返していた。
そして満足したのか彼女は撫でるように私に触れたままゆっくりと離れ始めた。着物越しに擦れ合う私とひさの腕。最後は彼女の手が私の腕を軽く掴んで止まり、どこか無理しているようにも見える涙跡が残り微笑みを浮かべた顔と目を合わせた。泪でも堪えているんだろうか。私はそう思いながら彼女の頬に手を伸ばしその跡を拭いた。
「大丈夫?」
「うん。急にごめんね」
「気にせんでええで。いつでも来てくれて構わへんよ」
「ありがとう」
そしてひさの手が私から離れると彼女はゆっくりと立ち上がり襖の前へ。出る前に一度振り向くとまだ名残惜しそうな笑みを浮かべた。
「じゃあね」
最後に私の本名を呼び、ひさは部屋を出て行った。
それはその翌日の事だった。私が朝食を食べ終え、八助さんとの約束の為にあの場所へ向かっている時。いつもより騒がしく、何やらみんなが集まってるなと思い気になった私もそこへ立ち寄ってみた。彼女たちが群がっていたのは行灯部屋。
私は人の間を縫い開きっぱなしの戸まで行くと、その視線の先にあった光景に勢いよく息を吸ったもののそれを声にする事すら忘れてしまった。
そこにあったのは――吉原屋の奉公人と並んで横たわるひさの姿。互いの手を握り合い幸せそうな笑みを浮かべた二人だった。だがどう見てもただ眠ってるようには見えない。指先ひとつ、瞬きすらせず開きっぱなしの双眸。
ひさはその日、ずっと言っていた間夫の男と心中した。
その光景は余りにも青天の霹靂で立ち尽くす私は、辛うじて呼吸が出来ているだけの状態。瞬きをしてない事にさえ気が付かなかった。ただただ眼前の光景を瞳に映すだけで頭は蒼穹に浮かぶ形の無い雲のように真っ白。動くことも声を出すことも何も出来なかった。
それからすぐに秋生を含む数名の男が駆け付けると部屋は閉じられ集まっていた遊女や奉公人は日常へと戻された。
そして私はまだ状況を理解出来ぬまま足を動かし気が付けばあの場所へと来ていた。感情ごと思考や何やらをかき回したように何も考えられぬまま体に染み込んだ行動のようにただ戸の鍵を外す。
そしていつものように戸がゆっくりと開き八助さんが中へと入ってきた。
「今日は遅かったですね。大丈夫で――」
耳に入ってはいたが聞こえてなかった言葉を遮り私は彼に抱き付いた。
「えーっと。あの夕顔さん?」
戸惑う彼の声に返事はせず私はただ訳の分からない感情に脅えその体を強く抱き締めた。段々と他人のモノように分からない感情が私の意思に関係なく込み上げ、目から溢れ出す。まるで誰かの体に意識だけが移り込んでしまったかのように涕涙は止められなかった。
「とりあえず座りましょうか」
そんな私に(まだ戸惑いながらも)優しく声を掛けてくれた八助さんは腰掛けまでゆっくり誘導すると一緒に座り、それからは何も言わずただ悲泣する私を抱き締めてくれていた。
そんな彼の胸の中で私はあの海に前回より深く沈み、より冷たく暗い感情に包み込まれてた。あの時の彼女もこの景色の中、この冷たさとこの暗さを味わっていたんだろうか。どんどん体は沈んでいき、それにつれ胸の奥が苦しくなっていく。どんどんと光が遠のいていく。このまま落ちて行った先にある絶望の淵は一体、どれだけ暗く冷たいんだろうか。どれだけ苦しいんだろうか。でもそれは私にはまだ分からない。
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