夕日が沈む8
それから暫くの間、なすがままに溢れ出る涕涙に頬を濡らしていた私だったがそれも時間と共に段々と落ち着きを取り戻し豪雨から涙雨程度までおさまった。でも私より私を知っていると言うような感情が先行してただけで依然と頭の中はぐちゃぐちゃ。あの光景の事は何も整理出来ていなかった。それにまだ心臓の鼓動に乗り悲感が全身を駆け巡っている。
「大丈夫ですか?」
「すんまへんな」
「いえ。僕は大丈夫ですよ」
私は身を寄せ彼の腕に包み込まれたまま顔だけを前へ向けた。
そして何があったのか自分の中で確認するがてら(何も言わないが私より訳が分からないであろう)八助さんに説明を始めた。ここへ来る途中に遊女たちが集まっていて気になった自分もその場所へ近づいてみると、そこには向き合い横たわるひさと奉公人の姿があって既に死んでいたという事を。そしてひさと私は禿時代から一緒で一番仲がいいという事も。
「それは……なんて言ったらいいか」
「なんも言わんとええよ」
「すみません」
「こうしてくれてるだけで十分やで」
そう言うと彼の私を抱き締めている腕に(更に抱き締めるように)触れた。
そして彼の温もりと時折頬を流れる泪を感じながら私は昨日の事を思い出していた。
「実は昨日、朝食を食べた後に蛍がわっちの部屋に来とってな。ここ最近よりえらい元気やったさかい常夏の事から立ち直れたのか思うとった。そやけど違うたんやな」
「常夏さんの事って?」
「常夏っちゅう名前の遊女の子がおったんやけど、その子と蛍は仲良かってん。そやけどその子、少し前に死んでもうてな」
「その方ももしかして同じように?」
「いや、その子は病気やな。梅毒っちゅう」
八助さんはまた何を言っていいか分からなかったんだろうそのまま申し訳なさそうに口を噤んだ。でも私はそれに対して何かを言う気はなく話を続けた。
「その時、あの子はさっきのわっちぐらい泣いとった。それからも笑うてはいたけど心は落ち込んどって。そやけど昨日はそうは見えへんかった。そやさかいもう大丈夫なんやって安心しとったけど、あの時の言葉はよう考えたら少し変やったし、もう決めとったさかいあない平気そうやったのかもしれへん」
急に本名を教えて忘れないでって言ったのも、あんな風に泣いてたのも今考えればそう思えてくる。「どれだけ遠くに離れて」も「あたしが居なくても大丈夫」も最後の「じゃあね」も、彼女の言葉の意味が違って聞こえる。合図はあったはずなのに……。
「なんで気付かへんかったんやろ」
「そんなの無理ですよ。数日前に友人の不幸があったのなら尚更」
「そやけどわっちが――」
「夕顔さんは悪くないですよ」
言葉を遮った彼は少し強く私の体を抱き締めた。そんな事は分かってる。だからこそその言葉は深く胸に響いた。そして私も彼の腕に触れる手に力が入った。
「そやけどなんで。あと五年やったのに……」
「なんでかは僕も分からないですけど、でも五年って長いですよね。辛い生活をしながらだと余計に」
「その間に病気になったり生き続けられる保証もあらへんしな」
「もしかしたらそれを常夏さんの事でより強く感じたんじゃないですか? だからそんな五年を続けるよりは愛する人と幸せの中でって」
不安に満ちた彼女と幸せそうな笑みを浮かべ横たわる彼女の姿が見比べるように脳裏へ浮かぶ。確かに彼女はずっとこの遊女としての生活を嫌ってた。私よりも強く。でももうひさは遊女として生きる必要はない。最後は愛する人の隣で愛する人を感じながら、その部分だけは良かったのかもしれない。
そしてもう一度、彼女の最後の表情が浮かんできた。
「蛍は幸せなんかな?」
「――分かりません。でも少なくとももう何かに苦しむ事はないと思います」
その言葉を聞きながら私の頭にはひさに初めて会った日から昨日までが走馬灯みたいに流れていた。まるで最後の別れをするように。笑い合い、支え合い、たまに喧嘩もして。人生最悪の出来事から生まれた人生最高の出会い。それは暗闇の中で煌めく温かな燈火。私が暗闇に吞み込まれないように照らしてくれていたのに。私は気が付かなった。その燈火が消えかかっていることに。あの明るさはまるで花火が散る時のように最後の煌めきだったという事に。
気が付けば私は最初のように泣いていた。でも今は最初とは違って何で悲しいかはっきりと分かる。ひさの事を思い出せば思い出す程、溢れ出してくるのを感じる。心に収まりきらない分が目から零れ落ちているのを感じる。どれだけ足掻きもがいてもどうにもできない海の中を私は沈んでいった。深く、深く。暗く、冷たく。もう私を照らす燈火の無い海を。
「ダメですよ? 夕顔さん」
すると八助さんが突然そんな事を口にした。私はとても夕顔花魁とは思えないような表情のまま彼を見上げる。
「そんな事、考えないかもしれないと思いますけど、一応。蛍さんと同じような事をしたらダメですよ」
それが何を意味してるのかは問い返す必要もない。でも今なら彼女がその選択をした気持ちも分からなくはなかった。
「他の男と逝くのが心配なん?」
涙腺が壊れてしまったように私は疎らな泪を流しながらからかう微笑みを浮かべた。
「そう意味じゃ……」
「安心してええで。そないな男はいーひんさかいその時は――そうやな。あんたに頼もかな」
私はそう言いながら泪に濡れた微笑みをまた浮かべた。
「――僕は嫌です」
その返事は少し意外な気もしたが、でもどこか予想通りというような気持ちもあった。
だけど私の表情は笑みを消し、無意識に視線を彼の顔から逸らしていた。
「そやな。そないな間柄でもあらへんのに一緒にやなんて――」
「そうじゃないです」
私の言葉を遮ったその声は少し強く今すぐにでも否定し訂正したいというよなものだった。それに私の逸れていた視線がまた彼に戻る。
「僕は一緒にが嫌なんじゃなくて、死んじゃうのが嫌なんです。さっき蛍さんはもうこれ以上苦しむ事はないって言いましたけど、同時に彼女はもう幸せを味わう事も出来ない。夕顔さんも僕ももし同じことをしたらもう悲しんだり苦しんだりもしなくて済むけど――こうやって夕顔さんと話しをする事も出来なくなるし、夕顔さんの笑顔も見れなくなる。僕はそれが嫌なんです。僕はもっとあなたとこうしていたい」
「わっちと一緒に逝くんはええの?」
「それは全然。むしろ僕なんかを選んでくれて嬉しいです」
仲ノ町に咲く桜の一枚がひらり舞い落ち地面に着く程度の時間、私は彼から少し身を離すと彼の目を見つめていた。そして口を開きながらゆっくりと頬に手を伸ばす。
「そないにわっちの事好きなん?」
「はい」
それは考え迷うまでもなく答えは決まっていると言わんばかりの即答だった。私は微かに頬を赤らめ目を逸らすかと思っていたばかりに……その反応に対して反対に吃驚としてしまった。でもその間も私を真っすぐ見つめていた彼の双眸は彼自身の気持ちを代弁するかのように一切動くことも余所見をすることもない綺麗な直線を描いていた。何故か目を逸らすことが出来ず、吸い込まれるように私もその瞳をじっと見つめ返す。
「僕はずっとあなたの事が好きでした。あの時からずっと」
その声に共鳴するように胸の奥が締め付けられるのを感じた。そこには悲感とは違う心地好さがあった。それにずっとそこにいたみたいに私の心に馴染んでる。
「でも僕は生きたまま一緒に居たいです。夕顔さんの声を聞いて、夕顔さんの笑顔を見て、夕顔さんに触れて」
八助さんは言葉と共に私の頬へ手を触れさせた。彼がこんなことをするのは初めだったが、そんな事など気にならないぐらいにその手は優しく温かかった。同時に胸が騒ぎ始める。
「あっ、すみませ――」
我に返ったのか彼は一驚とした表情を見せると私の頬に触れた手をひっこめようとした。だが私はその手に上から押さえるように触れ頬擦りでもするように顔を寄せた。
「もう少しこうしとってくれへん?」
「……はい」
「おおきに」
私は目を瞑るとその手の感触だけを感じた。ひさや朝顔姐さんと同じような安心感のある手。でも彼女たちにはないものがその手にはあった。まるでこれだけは譲れないこだわりのように彼の手じゃないとダメだという何かが。それに暗く冷たい場所へ沈んでいた所為か今は余計にその温かさと優しさが沁みる。
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