全てを脱ぎ捨てて3

 その所為だろう二人は気が付けば橋の下へと来ていた。体力の限界により足が止まり周りを見てみるとそこにいたのだ。だがその甲斐あってか背後に追手の影はない。その事に胸を撫で下ろすと、二人揃って両手を膝に付け足元の川砂利を見下ろしながら今はただ激しい呼吸を繰り返していた。


「だ、大丈夫ですか?」

「――わっちは……な。八助、はんは?」

「僕も……大丈夫です」


 もはや自分の体とは思えぬ程、呼吸の乱れた二人は何も言わずとも月光にすら見つからぬ橋の下に座り込んだ。

 腰を下ろし短時間で何度も繰り返される呼吸の中、夕顔はふと隣を見遣った。同じように必死に酸素を取り入れる八助の横顔。一夜限りだと思ったのに手紙が届き繋がり続け、離れ離れになってもまた目の前に現れ、ついさっきまでは危機的状況だったのにも関わらず今はこうして隣同士で座っている。夕顔は八助の横顔を見つめながら今後どんな困難が訪れようともどうにかなるような気がしていた。同時にこれから先もずっとこうしていたいとも。

 すると彼女の視線に気が付いた八助は顔を横へ向けた。


「どうしたんですか?」

「何でもあらへん」


 夕顔はそう返すと八助に身を寄せて手を握り合い、そして肩に寄り掛かった。まだ危険は去っていないかったがそれだけで夕顔は自由と幸せに満たされていた。


「夕顔さん」

「ん?」

「自由になったら何がしたいですか?」


 その急な質問に夕顔は少し想像を膨らませた。


「――んー。そうやなぁ。別になんも。暫くはただ普通の日々を送りたいなぁ」

「現実的な話をしちゃいますけど、それじゃあ生活できないですよ?」

「せやったら団子屋やらどや? 遊郭にもあったけどわっち好きなんやんな」

「夕顔さん作れます?」

「無理やな」

「じゃあどこかの団子屋さんに教えてもらいますか」

「そうやね」

「こんなに綺麗な女将が団子を出してくれるって有名になるかも」

「そやけどあんまり有名になったら見つかってまうかもしれへんよ?」

「それじゃあ客商売は出来ないじゃないですか」


 思わず笑いを零す夕顔。


「大丈夫やって。実際わっちをあそこまで押し上げたのは人が集まっとったさかい。人が集まるとこに人はより多う集まるさかいな。名声を欲するのんは特にな」

「それじゃあどこか遠くでひっそりとやりますか」

「楽しみやな」

「そうですね」


 それは追われる者という事を忘れられる時間だった。明るい未来をただ見つめ希望と幸せに浸る。それは夕顔にとって夢にまで見た普通の暮らしが今までで一番近くにあるような気がして信じられないものでもあった。でも胸の中には確かにその感覚がある。その事により一層幸福を感じていた。

 一方、八助はそうやって自分の肩に寄り掛かり微笑みを浮かべる夕顔を横目で見ながら初めて彼女を見たあの日を思い出していた。無邪気な笑顔を花が咲くように浮かべた幼き彼女の姿を。あの瞬間、自分の胸に現れた不思議な感覚を。そしてそれが未だ自分の胸に残っている事も。八助は落ち着いてきたはずなのに再び強くなった鼓動を感じながら夕顔の手を少し強く握った。

 そんな二人をこの町へ来た時と同じ静けさが包み込むがあの時のような恐ろしさは無く、肌に触れる温もりから愛を感じる心地好さがそこにはあった。

 だがしかし二人がどれだけ追われている事を忘れようが現実はその事実を忘れはしない。川砂利の上を歩く音が左側から聞こえると二人は一気に現実へと連れ戻され同時にその方へ顔を向けた。そこには数個の手提げ提灯の灯りが灯っており、刀を差した男衆たちが月光をその身に浴びている。


「いたぞ! ここだ!」


 男衆の姿にすぐさま立ち上がった二人の中にもう先ほどまでの穏やかさはなく一気に緊張が張りつめた。

 そして一人の叫び声に他の男衆が集まり始めると八助は夕顔の手を引き反対側へ走り出そうとした。だがそこにも三人しかいないものの男衆の姿。完全に挟み込まれてしまった二人は辺りを見回すが活路を見いだす事は出来なかった。


「八助はん」


 脳裏で最悪の結末を嫌でも想像してしまっていた夕顔はそれを少しでも拭おうと八助に身を寄せる。そしてそんな彼女を抱き締める八助は必死に打開策を考えるが頭の白紙に何かが描かれる事はなかった。


「もう逃げられねーぞ」

「観念しろ」


 最初に駆けつけた方はもう既に十に近い人数が集まっており時間の経過につれ包囲は更に強固なものとなっていった。

 そして何も出来ぬままただ身を寄せ合う二人は焦燥感に駆られ、段々とその心に姿を見せ始める諦めの二文字。その存在に八助と夕顔は互いを見つめ合った。


「夕顔さん」

「八助はん。――どれだけ遠うに離れてもずっと一緒やさかい。わっちはずっと八助はんの事、忘れへんさかい。そやさかいわっちの事も忘れんといてや」

「もちろんです。忘れるはずが――忘れられるはずがありません。あなたもあなたと過ごした時間も」


 そして二人はその愛を心の奥底まで沁み込ませるように強く、強く抱き締め合った。


「愛してます。これから先どうなろうともずっと」

「わっちも。愛してる」


 これが最後だと覚悟し内に溢れ出す愛を少しでも伝えようとする二人のその姿はまるで散る間際に一際輝く花火や散り際により一層絶佳に見える桜のように美しかった。だがそこにあったのは儚さ故の美しさ。引き離されようとしているからこそ愛は少しでも輝きを放ち美しく見えるのかもしれない。しかしながらその姿はさながら運命に真っ向から抗うようで、その輝きは強い意志と覚悟の表れなのかもしれない。

 だがそんな二人の元へ一歩一歩近づき始める足音。その音を聞きながらも八助と夕顔は最後の瞬間までそうしていようと互いを抱く腕を緩める事はなかった。


「んー。満月によく合う美しい愛ですね」


 男衆のとは違った雰囲気のその高くの冷たい声は八助の背後(人数の少ない方)から聞こえてきた。更にその声の後、川砂利に人の倒れる音が静まり返った橋の下に響いた。


「な、なんだお前は!」


 一瞬の間、川音以外の音が全て無くなり無人と化した橋の下だったがすぐに怒声と刀を抜く音が無音を塗りつぶした。

 そしてその声を聞きながら八助と夕顔もこの場に現れた異質へと目を向けた。

 それは管笠を被り抜いた刀を握った男。菅笠の所為で顔の半分は隠れているが体と顔は真っすぐ男衆の方を向いている。そして首を垂れた刀身から滴る血の先には、ついさっきまで二人を挟み込んでいた三人の男衆が生きているとは思えない血溜まりに倒れていた。

 突然現れ仲間を斬ったその男へ向けられた男衆の視線はもはや八助と夕顔を捉えてはなかったが、二人もその場から逃げ出す事は出来なかった。男の横を通り抜けようとすれば瞬く間に斬り捨てられてしまいそうでただ立ち尽くすばかり。

 するとこの場の視線と注意を一手に浴びた男は口を開きながら足を進め始めた。道標を残すように血を滴らせながら。


「本来ならば腕の足らぬ者に興味はないのですが……」


 まるでそれらが連動しているかのように言葉と共に足も止まった。男が立ち止まったのは二人の目の前。

 そして男の顔が僅かに二人の方へ向いた。


「受けた恩は返す主義なものでね」


 男はそう言うと微かに口角を上げた。

 その男の顔から血に塗れた刀へ目を落とす八助。たった今、人を斬った生々しい刀の所為かもう一度男の顔へ視線を戻すとその微笑みが不気味なものへと変わっていた。その瞬間、八助を襲ったのは狂気の冷たい手に背筋をそっと撫でられたような戦慄。

 だがそんな彼の隣で夕顔は全く正反対の感覚を抱いていた。彼女はその男に見覚えを感じていた。その正体を突き止めようと記憶を探る夕顔。するとすぐにとある夜の事を思い出した。客が眠り窓際に腰掛ていた時、吉原屋の前で警備隊員と不穏な雰囲気になっていた男。恰好や背丈の感覚も記憶の男と眼前の男は一致していた。

 夕顔が思い出した事をその眼差しから感じ取ったのか男は顔を笑みを消しながら男衆へ戻した。


「太陽の下、青空を羽ばたいて鳥は初めて本当の美しさを手に入れる。さて、その羽は一体何色なんでしょうか。是非とも羽搏いて見せて下さい」

「おおきに」


 夕顔は男にお礼を言うと八助を見遣った。


「八助はん、行くで」

「えっ。でも……」

「ええから」


 理解出来ぬ状況に戸惑いながらも八助は夕顔に言われた通り走り出した。


「おい! 待て!」


 その行動に男衆の一人が声を荒げながら後を追おうと足を踏み出すが、同時に男は彼へ刀を向けた。瞬きをすれば睫毛と触れてしまう位置まで近づいた刃先。その男衆の一人は声すら出せずに瞠目したまま動けないでいた。


「もしや貴様が巷で噂の辻斬りさえ斬るという辻斬りか?」

「これだけの人数がいれば少しぐらいは食べ応えがあるかもしれませんね」


 身動きの取れない一人とは別の男衆が放った言葉を聞こえていないかのように無視した男は小さく呟き舌なめずりをすると刀を振り上げた。そして一歩前へ足を踏み出しながら(たった今まで刀を向けていた)男衆を斬り捨て、勢いそのまま後方の男衆へと突っ込んでいった。瞬く間に響き始める刀の弾き合う音と苦痛に満ちた低声。それらは月夜とは正反対でありながらもまるで美と狂気を兼ね備えた妖刀のように不気味で奇妙な美しさを醸し出していた。

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