消えぬ想い3
「それで? 何かあったのか?」
するとさっきまで賑々しい雰囲気とは打って変わり源さんは落ち着いた調子でそんな事を訊いてきた。
「えっ、別に何もないけど。どうして?」
「儂はお前をこんな小さい時から見てるんだぞ?」
源さんは机より低い位置に伸ばした手で当時の僕の身長を再現した。
「気付いとらんかもしれんがお前は昔から不安な事があると耳を触る癖がある。しかも反対の手でな」
指を差された僕は今まさに右耳たぶを弄っていた左手を止めるとゆっくりと机へ下げた。本当に今は何も考えてなかったが僕も知らない自分の癖が現れた原因は容易に想像がつく。
「どうしたんだ?」
「――実は夕顔さんに身請けの話が来たって聞いて。まだ決まった訳じゃないけど……」
「そうか。それでお前さんは?」
「僕? 僕は…….何も出来ないよ。出来る事なら最後にもう一度だけ会ってちゃんと別れが言いたいなって思うけど。でもそんな事は出来ない。だからどうする事も出来いよ」
「本当にそれでいいのか? お前さんが心の整理をつけてここを出るのとまだ出来ないまま相手がここを去るのとじゃ大きく違うぞ。今後のお前にとってな」
「ほんとは僕だってあと一回ぐらいこっそり会いに行ってちょっとぐらい話したいけど、でもそんなことしてもし見つかりでもしたら……」
頭の中ではその続きを代わるようにあの時の秋生さんの言葉を思い出していた。
「この場所に居られなくさせるとでも言われたのか?」
「そう。でも僕じゃない。このお店だよ」
「なるほどな」
源さんはそう言いながら顔を俯かせた。
「このお店は源さんにとって大切なものでしょ? なのに僕の我が儘でなくしちゃうなんてそんな恩を仇で返すような真似できないよ。今は色々と思うとこはあるけどそれも時間が経てば忘れられると思うし、今を耐えればいいだけ。でもこのお店はもし失ったらもう二度と戻らない」
言葉の後、源さんの顔はゆっくりと上がり僕を見た。
「確かにこの店は儂の全てだ。儂にはここ以外何もない。女房も居なければ実の子もいない。この店だけが儂にある唯一のものだ。先代の下で修業し受け継いだこの店がな。だがそれもお前さんが来るまでの話だ。――それまではこの店で働くこと以外何もなかったが、お前さんが来てからはそれも変わった。正直に言うと最初は罪滅ぼしのような気持ちだった。あの日、江戸で会おうと言ったのは儂の方だ。それであんなことに。だからせめてあの二人の宝だったお前さんだけは儂が代わりにと。でもお前さんと一緒に居るうちに段々と成長を見るのが、過ごす日々が楽しくて仕方なくなっていった。お前さんは儂に家族を持つという事がこんなにもいいものなんだと教えてくれたんだ。いつしかお前さんを本当の息子のように思っていたよ」
「でも父さんって呼ばせなかったのはどうして?」
「それは簡単な事だ。お前さんの父親はあいつだけだ。どれだけ儂との時間が長かろうとそれは変わらない。儂は父親気分を味わえただけで満足だからな」
「でも僕は源さんの事を父親だと思ってるよ。本当の父さんを忘れた訳じゃないけど僕にとっては源さんも父さんだ」
源さんは何も言わなかったがその緩んだ口元がその気持ちを代弁していた。そして気恥ずかしさでもあったのか彼は話を戻すように話し始めた。
「――先代はこの店を儂に譲る際こう言ってた。これからこの店はお前のモノだ。どうするかは全部お前次第。お前がそうすると望むのなら捨てようと売ろうとどうしようが構わない。俺がどう思うかなんて事は考えるな。それに俺はもう死ぬ。分かる訳ないさ。俺の意思よりお前の気持ちを優先しろ。とな」
一度、空の猪口に視線が落ち一瞬の間を生むがすぐにその視線は僕の方へ帰ってきた。
「今の儂にとってお前さんに勝るものなど存在しない。だからこの店など気にするな。儂の為に気持ちを抑え込み後悔するような事はするな。ここ最近のお前さんはずっと心が欠けてた。笑っててもどこか無理してるようだった。だからもしお前さんの気分が晴れるなら行け。それでここから追い出されたとしても儂は構わん。――いいか八助。自分が望む事をしろ。儂の所為でお前さんが悲しむような事があったらあいつに顔向け出来んからな。それに儂の事を想うのなら尚更、自分の為に行動しろ。お前さんが幸せなら儂もそうだ」
その言葉は僕の心を優しく包み込んだ。ゆっくりと浸透していく温かさのようにその優しさが沁みるのを感じる。
「――ありがとう。考えてみるよ」
「ならもう今日は寝ろ。儂はこれを片付けてから寝る」
「分かった。おやすみ。源さん」
「あぁ。また明日も頼むぞ」
「うん」
そして僕は先に立ち上がると部屋へ行き、酒気によってすぐに眠りへと落とされた。
翌日、僕は頭痛に寄り添われながら朝を迎えた。それに加え寝不足。今までの朝の中でも三本の指に入る程に体の調子は悪い。でも何故かそこまで嫌な朝じゃなかった。頭痛の鼓動に合わせるように昨日の記憶が脳内で再生される。源さんの言葉を思い出しながら僕は机に置いてあった手紙を手に取った。
それは最後の手紙。もう何度読み返したか分からないその文をまた読み返してみても、まるで何度読んでも同じ結末を迎える小説のように最後は彼女の名前が終わりを告げる。二つの丸いシミに滲んだその文字を僕は指でなぞった。
「夕顔さん」
昨日、源さんは自分より僕の気持ちを優先しろと言ってたけど僕は彼女の気持ちを優先したい。彼女が何を望んでいるのか。それが彼女の口から直接聞きたい。そうしないと例え同じ結末でも終わりにする事なんて出来ないから。
「はぁー」
でも一体どうやって。そう思った途端、溜息が自分勝手に零れ落ちた。そしてその溜息が部屋の空気の一部となると僕は手紙を戻しお店へと下りた。
あの場所ならもしかしたらもう一度。そんな期待がなかった訳じゃないけど僕は昨日と同じ時間帯にあの場所へ足を運んでいた。木塀で向こうは見えない所為かもしかしたら今も反対側には夕顔さんがいるのかもしれない。なんて思ってしまう。でも昨日とは違い今日は沈黙を保っていた。
「そんなわけないよね」
一人そう呟くともう少しだけその場に来るはずもないもしかしたらを待っていたが、結局それは単なる期待でしかなく僕はお店へと帰った。
だけどそんな奇跡に縋るとも言うべき行為以外にどうすればいいのか思いつかず僕は次の日も同じようにそうしていた。その次の日も。でも更に次の日でさえ夕顔さんと再会することは叶わなかった。
なのにも関わらず僕はその翌日もそこに居た。今日ももしそこに来なかったらもういっその事、無理矢理にでも諦めてやろうか。なんて運試しのような事を考えながら。でもまるで同じ日を繰り返しているかのように塀の向こうは沈黙が蔓延っていた。
そして今日もダメかと心の中で嘆息を零しながらお店へ帰ろうと数歩足を進ませた僕だったが、名残惜しさがそうさせたのか足を止め一度後ろを振り返った。
すると木塀の向こう側で雲の子のように白い煙が空高くへと昇っていた。その煙に確信は無かったが僕の頭へ真っ先に浮かんできたのは煙管を片手に持つ夕顔さんの姿。同時に期待で胸は高鳴り煙に誘われるように足は塀の前へと戻っていた。もしかしたら今まさにこの向こう側に彼女が。そう思うと彼女を求め手が塀へと伸びる。
だけどそこに居るのが夕顔さんなんて確証はどこにもない。もし違っててこの事が知られたら、僕は何も出来てないのにただお店が潰されてしまう。その不安が僕の声を喉で止めていた。
もしこのまま帰れば何も変わらないまま彼女はここを出て行く。もし声を掛けて見当違いだったら彼女ともう一度話したいという願いを叶えることすら叶わず、僕らがここを出て行くことになる。半か丁かの博打のような選択に僕は顔を俯かせた。考えたところで何かが変わる訳じゃないのに、何を考えればいいのかさ分からないのに。僕はただ塀に手を触れさせたままどうすればいいのかと頭を悩ませていた。
でもそんな僕の顔を上げさせたのは、
『お前さんが幸せなら儂もそうだ』
源さんの言葉だった。もし失敗してその責任を負うのが自分一人だけだったら。そう考えたらさっきまで全く同じ色に見えていた選択肢の一つがもう迷う必要はないと言うように色鮮やかに見えた。
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