夕日が沈む5

 それは八助さんとあの場所で会う約束のある日の朝。私は部屋で朝食を食べようとしていた。


「夕顔」


 私を呼ぶ声が聞こえた後、襖が開き足膳を持った蛍が部屋へ入ってきた。彼女はそのまま隣まで来ると足膳を置き腰を下ろす。


「一緒に食べよ」


 そう口角を緩める蛍だったが私はどこかいつもと違うような気がした。何かハッキリとした確証もどう違うのかも分からないが、その違和感は稲妻が空を照らすように一瞬だけ私の中に顔を見せた。須臾の間、蛍の顔を見つめた私は彼女の額に手を伸ばす。


「えっ、何?」


 突然、私に額を触られながら蛍は少し眉を顰めた。


「元気なさそうやったさかい熱でもあるのか思たんやけど大丈夫そうやな」

「心配しなくても全然元気だって」


 蛍はわざとらしく満面の笑みを浮かべて見せた。それを見ながらさっきのはただの勘違いだったのかもしれないと私は一人思っていた。


「ほなええんやけど」

「あっ。でもやっぱり調子悪いからその天ぷらひとつちょうだい」

「ほんまに調子悪いんならあげるけど、もしそうちゃうなら……」

「じゃなかったら?」


 私はそれは教えずただ浮かべた笑みを見せた。


「えーっと……可愛らしい笑みをありがとう。でもなんか怖いからそれは大丈夫かな。うん」

「大丈夫そうでなによりやな」

「お陰様で」


 それから私たちはそれぞれの朝食を食べ進めたが、三分の一程度を食べたぐらいだろうか蛍がこんな話を始めた。


「そう言えば聞いた?」

「聞いたって何のこと?」

常夏なつのこと」


 私はその名前にお箸を置いた。


「鳥屋に就いたっきりやろ」

「ずっと姿が見えなくて心配してたけどまさか……」

「――そうやな」


 隣から聞こえた深い嘆息に蛍を見遣ると彼女は顔を俯かせ疲労困憊したような表情を浮かべていた。そんな彼女の手を私はそっと握った。


「こないな事は言いたないけど、仕方ないって言うしかあらへん。昔から沢山見てきたやろ」

「そうだけど。常夏は昔から知ってるし仲も良かったし……」


 微かに震えた声と煌めく涙眼。それだけで私も抑えを振り切り込み上げてくるものを感じた。


「蛍。おいで」


 そう言って私は蛍を抱き締めた。胸の中で静かに悲泣する彼女を強く抱きながらも私は頬を濡らす溢れ零れた一雫を感じていた。

 常夏の事は禿時代から知ってる。私も仲は悪くなかったが蛍ほどじゃない。だから同じ感情の海に沈んでいるとは言え蛍は私よりも、より深い場所に居ることは想像するまでもない。それにその場所がどれほど冷たくて暗いかも想像することは出来なかった。

 だから今の私が出来るのはただこうして彼女が泣き止むまで抱き締めていることだけ。

 暫くの間、何も言わずそうしていると幾分か落ち着きを取り戻した蛍はゆっくりと離れ始めた。私もそれに合わせ腕の力を抜き彼女の両肩まで手を滑らせた。


「大丈夫?」


 うん、と一度頷き返事をする蛍はまだ完全には止まらぬ泪を拭っていた。


「――夕顔は考えた事ない?」

「どないな事?」

「いつになったらここから出られるのかって」


 それは遊女なら誰しも――禿としてからこの場所に居続ける者なら誰しも考える事だと思う。そしてそれは私も例外じゃない。


「あんで。禿の時は特に。そやけどどれだけ考えてもあと五年は抜け出せへん。逆にゆーたらあと五年で終わるってことやな」

「でもほとんどは年季明けを迎えられない。折角、ここまでやってきたのに自由を目の前にして倒れるかもしれないんだよ?」

「そやけどわっちたちに選択肢はあらへん」

「そうだけど。それにここを抜け出せたとしてもその後は? 私たち幼い頃からずっとここにいるからここを出た後にどこに行って生きて行けばいいか……。家族ももういないし」

「その気持ちはよう分かんで」

「ずっとここの暮らしは嫌いだったし、年季明けまで生きられるかも不安だったし、年季が明けてもそこにちゃんとした幸せが待ってる確証もない」


 不安に満ちた彼女の表情。その気持ちは痛い程分かる。選択肢はなく強いられた遊女としての道。最近見ないと思っていたあの子は投込寺。年季明けし大門を通ったあの人は鼻落ち夜鷹。遊郭内で見かけたあの人もあの人も年季明けしたはずなのに。抜け出しせても結局、春を売るしかない。

 一体どれだけの遊女が本当の意味で遊女を抜け出せるのだろうか。


「あたしはそんなのイヤ。最期は一人苦しんでなんて」

「わっちもそないな最期はかなんし、そやけどわっちたちは大丈夫やって」

「そんなの分かんない。常夏だって。私たちは結局、遊女になった時点で……」

「そやけど年季明けた後に結婚して幸せな人生を送ってる人もいんで」

「その逆の方がもっと多い」

「そやけど、年季が明けるまでわっちたちは遊女であり続けるしかない。辛くても耐え続けるしかない。そやさかい希望だけは絶対に無くしたらいけんせんよ」

「――朝顔姐さんが言ってた言葉」


 今の私には朝顔姐さんの言葉を借りる事しか出来なかった。自分なりの言葉で少しでも蛍に希望を……でもその私でさえ暗闇の中、一筋の光に縋る側。所詮、私はその地位を受け継いだとはいえ朝顔姐さんを必死に追うしかない。


「自分だけでも幸せになる、その強い気持ちも忘れたらあかん。ってよういってくれとったね」

「姐さんは強い人だったから。あんたも」

「蛍かてそうやろう」

「どうだろうね。あたしがいつもそう振る舞ってるのは自分を騙す為かも。無理矢理、気分を高めて笑って平気な振りをしてるだけなのかも」

「そうちゃう。蛍は強い。昔から見てきたわっちがそらよう知ってる」


 蛍はすぐに消えそうな笑みを浮かべた。その際、目から零れ落ちた雫を私は指でそっと拭ってあげた。口元は笑っているが私を見つめるその双眸は未だ愁嘆が拭い切れてない。


「常夏はあたしたちより人と接するのが苦手だったから苦労してた。あたし以上にこの仕事を嫌って苦痛に感じてた」


 言葉の後、蛍は視線を少し落とした。さっきの笑みはもう消えた今の彼女は一体何を考えてるんだろうか。

 そしてそこには無い何かを見ていた彼女の顔は私の方へ戻ってきた。


「常夏は幸せだったかな?」

「――こうやって心から泣いてくれるぐらい想うてくれてる人がおるさかいそうやった思うで」


 ゆっくりと表情に現れたその笑みは先程より安堵しているようだった。そして同時に零れ落ちた一滴が頬を通過する前に私は撫でるように拭ってあげた。


「――夕顔はもしあたしが同じようになっちゃったら悲しい?」

「今の蛍かそれ以上に悲しい思うで。だって蛍はわっちにとって大切な存在やさかい。さっき家族はもういーひんって言うとったけど、わっちにとって蛍は十分家族やで」


 何度拭っても再び溢れてきたその泪は同じ泪でもさっきよりは温かいものに私は思えた。そんな蛍の両手を私は握り締める。


「ありがとう」

「大好きやで」

「あたしはそれ以上。愛してる」

「もちろん。わっちも」

「一番?」

「そや」

「なら夕顔の勝ち。あたしは間夫がいるし」

「そうなん? わっちよりもそっちを選ぶん?」

「ごめんだけど。でも吉原屋のあの夕顔花魁が一番愛してる人っていうのは気分が良いかも」

「そのうち二番目になるかもしれへんけどなぁ。あんたみたいに」

「えー! そうなったら嫉妬ちゃうよ」

「自分は二番やのにわっちはあかんの? 欲張りやな」

「当然」


 すっかり顔全体に笑顔が戻った蛍を見て私は胸を撫で下ろしていた。

 すると蛍は目を拭ってから両手を広げ私の方へ。そして私たちは互いの体を抱き締め合った。


「ありがとう。夕顔」

「ええで」

「今までもね。あたしがここまで頑張れたのも夕顔のおかげ。全部って言ったら嘘になっちゃうけど」

「そこは嘘でも全部ゆーて欲しかったけどなぁ」

「ほぼ全部ね」

「わっちこそ蛍のおかげやで」

「どういたしまして」


 微かな笑い声が耳元で聞こえ私もそれに釣られた。その後も少しの間だけ私たちは互いの――初めて出会った時より随分と大きくなった体を抱き締め合った。

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