夕日が沈む4
「歌舞伎ですか?」
「そや歌舞伎」
「いえ。見た事は無いですね」
「わっちいっぺんでええさかい見てみたいんよね。話しは聞いた事あるけど、わっちはここから出られへんから一度この目で見て見とうて」
「いつかきっと見れますよ。色んな演目の歌舞伎が」
「その時は八助はんも隣で一緒に見てくれるとわっち嬉しいな」
そう言いながら私は彼の手に自分の手を重ね合わせ頭を肩へ寄りかからせた。
「その……。ぼ、僕もそうなったら嬉しいです」
覚束ない足取りの声に私は零すように笑うと彼から手と頭を離した。
「相変わらず慣れてへんね」
「ごめんなさい。でも慣れてないって言うより夕顔さんだからかもしれないです」
その言葉に笑うのを止めた私は八助さんの横顔へ視線を向けた。
「えらい遊女みたいな事を言うねや」
「え? それってどういう?」
私は返事をする前に彼へ触れる程に近づき腕を抱き締めた。その際、微かに彼の体が跳ねたを感じたが、それには触れず掌を彼の腕に這わせながら滑らせていき、彼の手を握った。
「わっちも八助さんじゃなかったらこうして会う事もなければ、手紙のやり取りもしてなかったでありんすよ。つまるところ、わっちにとって八助さんは特別ってことでありんす」
そして握っている方とは別の手を彼の腿の上へ置くと撫でるように動かした。
「八助さんとならお金なんてなくても共に夜を過ごしてもいいぐらい。それに次は話すだけじゃなくてもっと楽しませてあげんす」
前を向いたまま動かなくなった八助さんを数秒見つめた私は何か合図でもあったかのように彼から離れた。
「こないな事」
その言葉の後ゆっくりと私の方へ向く八助さんの顔。そして目が合うと彼は首を横に振った。
「全然違います」
「おんなじやん。わっちもよう言うで。主さんが会いに来てくれてまこと に嬉しいでありんす。 わっちも会いたかったでありんす。ってね」
「それって本心ですか?」
「お店で料理食べた時においしなくてもおいしー言うのとおんなじかもしれへんね」
「それって本心じゃないってことですよね?」
「本心だけを口にしとったら遊女は務まらへん」
「じゃあ僕のとは違いますね。僕は本心ですもん」
「そらつまり遊女と遊んだ事があるって事?」
「え? 何でそうなるですか?」
「そうちゃうとわっちやさかい慣れてへんのかどうか分からへんやろ?」
「……まぁ確かに」
「わっちとはそないな事しいひんかったのに。そら妬いてまうな」
「いや! 行ったことないですよ。妓楼なんて」
私はここぞとばかりに八助さんへ意地悪く訝し気な視線を送った。
「ほんまに?」
「本当です」
少しの間、交差した私のまだ意地の悪い視線と彼の真っすぐな視線は互いの目へ向けられ続けた。
「ほな信じたるわ」
「ありがとうございます」
そしてその彼の声が澄んだ空気に溶けていくと、どこか心地好い沈黙が互いを見つめる私たちを包み込んだ。だけどまるでしゃぼん玉が弾けるようにその沈黙はすぐに消え、代わりに私たち二人の笑い声が響き渡った。何が可笑しかったのかは分からないけど気が付いたら笑っていた。沈黙は消えど残り続ける心地好さ。
「あっ、そうだ――」
そして私たちはそれからもこの場所で会うようになった。でもその時間は私がそれから着付けや化粧をしお客への手紙を書いたり、妹分の稽古をつけたり接客などを教えたりしないといけなかった事もありほんの少しだけ。あまり長い時間会うことは出来なかったが、私にとってそれは一日の内で一番楽しく待ち遠しい時間になっていた事は間違いない。会う約束をすればその前日から楽しみでお別れをすればもう次が待ち遠しくなる。
「ほんまに?」
「本当ですって。作り話じゃないですよ」
でも直接会って言葉を交わしてもその内容は特に手紙と変わりない。
「嘘で煌めく吉原も眠りに付けば照る月明り」
「それって誰が詠んだ短歌なんですか?」
だけどすぐに返事が聞けたり話をしている時や聞いている時の相手の顔を見れるだけでそれは手紙とは大きく違った。遮られる言葉、重なり合う笑声、返事をする前の小さな間。それはこの場で会話が生まれているという証だった。ただ私がそう感じているだけかもしれないが、それは考え抜かれた手紙と違いその場で思った事がそのまま言葉になっている気がして、相手のより正直な言葉のように聞こえた。
「そういえば夕顔さんって窓からよく空見上げてますよね? 好きなんですか?」
「そうやな。前まではお客眠りに着いた後に一人暗なった吉原を見るんが好きやった。それにまだ昼見世の始まる前の蒼空もやね」
「そうなんですね。でも前って事は今は違うんですか?」
「好きなのは変わりんせんけど一番ではあらへんな」
「じゃあ今の一番は何なんですか?」
「今は――」
それだけで相手がより近く感じる――いや、それは私がただいつもお客の相手をする時と違って偽りない気持ちで接してるからなのかもしれない。
でも最近、心の奥には別の何かがある気がする。母の陰に隠れる子どものようにハッキリとは見えないが八助さんに会う度に心の奥にあるそれは反応する。甘くて苦くて、重くて軽くて、温かくて熱くて、滑らかで棘々しい。時折、正体の分からない衝動がどうしようもなく胸を煽動しもどかしい。
「どうやろうな」
「えー。教えてくださいよ」
「忘れてもうた」
「一番好きな事忘れます? 普通」
「ほな朝食を食べる事やな。三好の料理はどれもうまいさかいね」
「絶対嘘ですよ。顔に書いてありますよ。ほらここら辺に」
そう言って八助さんは私の頬辺りを指差し空中に円を描いた。
「ほなお客前に出るまでには消しとかなあかんね。それより八助はんはどうなん? いっちゃん好きな事は?」
「僕ですか? 僕は……」
「そらぁもちろんこうやってわっちと話してる時やろ? なにせ吉原屋の最高位花魁やさかいね」
「んー。朝食食べる事ですかね」
「いけずな人やなぁ」
「でも今のは夕顔さんの真似をしたんで、という事は夕顔さんもいけずな人って事ですよね?」
「ほんまいけずな人やなぁ」
そしてその日もあっという間に時間が過ぎると私たちは別れを交わしそれぞれの変わらぬ日常へと戻って行った。彼は外へと通じる、私は吉原屋へ戻る戸から。
「まさかあんたがねぇ」
それは私が戸を開け少し進んだ所だった。気にしていなかったというのもあるが誰かいるとは思ってもみなかった後方から声が聞こえた。その瞬間、喫驚が胸中で爆発し、遅れてきた鬼胎を抱きかかえながら後ろを振り返る。
そこには木塀に凭れた蛍がいた。何が入っているのかも(または入っていたのか)分からない箱が幾つか放置された傍で煙管を片手に持ちながら立っている。そんな彼女の姿に私は抱いていた鬼胎を手放し胸を撫で下ろした。
「蛍……。吃驚させんといてや」
「別に驚かすつもりはなかったって」
「いつからそこにおるん?」
「ちょっと前。そしたら夕顔と男の人の声が聞こえたから」
「盗み聞きなんてええ趣味しとるなぁ」
「最初は悪いかなって思ったんだけど、好奇心に勝てなくて――ごめん」
意外と素直に非を認め謝罪した彼女をこれ以上責める事は出来るはずもなく(もとより責めるつもりはないけど)私は安堵も含めた溜息をもう一度零した。
「別にええで。むしろ蛍で安心してるわ。にしても何でここにおるん?」
「朝顔姐さん。よくここで一服してたんだよね。あんたも知ってるでしょ?」
「そやけどそら向こう側やろ?」
「そうだけど。中はちょっと姐さんの事思い出しちゃうからここに来る時はこの場所でね。あんたは大丈夫なの?」
「わっちはむしろ思い出して姐はんを近くに感じたいから。そやけどそのたんびに思うんやんな――また会いたいって」
それに対し蛍は何も言わず煙管を口へ。そしてゆっくりと煙を吐き出す。
私たちの共通の感情が溶け込んだその沈黙はどこか懐かしくも悲しいものだった。
「それより今のがあの手紙の相手?」
するとそんな空気ごと変えるように蛍は話題を別のものへ。
「そや」
「ふーん。聞くだけじゃなくて覗けばよかった。でも夕顔にも間夫がいるなんてね」
「あの人はそないなんちゃうで」
「別に隠さなくてもいいって。あたしも行灯部屋で隠れて何回も会ってるし」
「そやさかいちゃうゆーてるやん」
「はいはい。でもそういうのっていいもんだよ。その人と一緒に居る間は心が自由になって、自分がこんな場所で興味もない男たちの相手をしてるってことも、こんな場所から抜け出せないってことも忘れられるし。ずっとこの時間が続けばいいのにって思う」
「その人とは今も続いてるん?」
「今はたまーに。ほんとは少しでも一緒にいたいしその気持ちが苦しいんだけど。でも見つかるのは避けたいから。我慢してるの。でも会って別れる時、最近はいつも思うんだよね。こんな場所でこんな形で出会わなければもっと好きなだけ一緒にいられたのかなって。どんな形でもいいからこんな場所抜け出してずっと二人でいたいなって」
私には蛍のように思いを寄せる人はいないけど、何となく彼女のその気持ちは分かるような気がした。何故かは分からないけど彼女の言葉や表情から伝わってくる気がした。
「まっ、それも仕方ないよね。あたしたち遊女なんだし」
蛍は開き直るようにそう言うと私の方へ足を進めてきた。
「それよりこの事はちゃんと秘密にしとくから気にせず今まで通り会って楽しんでいいからね」
「おおきに」
「その代わり今度――」
「そらあかん」
言葉を聞く前に彼女が言わんとしている事を察した私は斬り捨てるように断った。
「えぇー。じゃあもっと詳しい話を聞かせてくれるって事でいいよ」
「そらまた今度な」
そしてなんとか蛍をあしらった私は部屋へと戻り着付けを始めた。
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