夕日が沈む3
『こなに早くお返事をくれてありがとうございんす。恥ずかしながらあの夜は本日この時まで 経験したことのない夜でありんしたので、僅かばかり気がかりになっていんした 。でありんすからあの夜、主さんがまことに満足出来ていたといわす事を知れて、心より嬉しく思いんす。これで胸に引っ掛かっていんした小さな気がかりは主さんと同じように、風に吹かれ遊郭の外へと飛んで行ったことでありんしょう。そのつもりも必要もありんせんが遊郭より外へ行かれては、わっちは追う事は叶いんせん。わっちはここを出る事を許されぬ存在ですので。時折、外からここへ来る者たちや鳥、煙管の煙でさえも羨ましく思いんす。今いちど 、遊郭の外へ出てみたいものでありんす。
でありんすが、それはあと数年は叶わぬ夢。それこそどなたかに身請けでもさりんせん限り……。別に主さんに身請けを強請ってる訳ではありんせん。他の男なら無理だと分かっていてもそのような事を言うかもしれんせんが、主さんをそのような茶番狂言で困らせる事はしないので安心してくんなまし。それに身請けをされたからといっていい暮らしが待ってるとは限りんせん。ここよりは幾分かいい方かもつとも酷いのか。ですのでわっちは身請けに対してそこまでの期待は抱いていないのでありんす。夕顔花魁ともならればその金額は莫大ですし。それに元よりここへ売られ遊女として生きなければなりんせんと決まった時点で希望などありんせん。
ごめんなんし。聊か暗い話をしてしまいんした。出来ればあの夜のようにもつとも興ある話をしんしょう。と言っても何か話題がある訳じゃありんせんのでありんすが……。もしよければ主さんの話を聞かせてくんなまし。わっちも主さんの事を知りたいでありんす』
それからも毎日とはいかなくともこの手紙のやり取りは続いた。八助さんからの手紙は基本的に料理と共に届き、私は色々な方法で渡した。初音にお願いしたり、後朝の別れの際に大門付近やその道中、時には三好の近くに隠したりと。その際には事前に手紙でどこに隠すかを伝え、そして実行の印として三好に出前を頼む特定の料理を決めたりもした。
そんな手紙の内容はほとんどが他愛ない話。でもあの夜同様にそれはどの男とするやり取りよりも次が楽しみになるものだった。引き出しには一通また一通と重なってゆく彼からの手紙。そしていつしか彼との手紙のやり取りはお客の就寝後に眺める遊郭より楽しい時間となっていた。
次の返事にはどんな事が書かれているだろうか。一体どんな風に返事を書こうか。いつしか夕顔花魁としてよりもただの私としての部分がより多く溶けた墨で手紙を認めるようになっていた。
そんな手紙の返事を待つその間は待ち遠しくも雨音が軽快な音楽に聞こえるような気分で満たされる時間となったていたが、その日は翌日に控えた私のふとした思い付きが更にその感情を高ぶらせていた。
「どうした夕顔? やけにご機嫌じゃないか?」
酒を注ぐ私を見ながら勝蔵さんはそんな疑問を口にした。
大井勝蔵。私のおゆかり様で随分と熱心に通ってくれている人。話によると元々捨て子で小さな商家の養子として育った彼はその才能を瞬く間に発揮し、たった一代で豪商と呼ばれるまでに成ったという。
「それは勝蔵さんが来てくれたからに決まってるではないでありんすか」
「嬉しい事言ってくれるじゃないか」
「それにしても随分と久しぶりでありんすが、まさか浮気なんてしてないでありんすよね?」
私はわざとらしく訝し気な視線を向けた。
「俺がそんな男に見えるか? お前の馴染みになる為に他は止めたよ」
「まことでありんすか? 実はこなたの吉原遊郭以外の場所で他の遊女とこっそり楽しんでるんではないでありんすか?」
「おいおい。止めてくれ。もうお前以外で満足出来る訳ないだろ」
勝蔵さんはそう言ってなみなみに注がれた酒を呷ると音を立てて猪口を机に置いた。
「よし分かった! 明日も来よう。それでどうだ?」
「まことでありんすか?」
私は透かさず空になった猪口に酒を注ぎながらさっきと同じような視線を向けた。
「あぁ、本当だ」
「それは嬉しいでありんす」
酒を注ぎ終えると徳利を置き少し甘い声でそう言いながら軽く寄りかかった。
「なぁ、どうせならお前とずっと居たい。金は倍払ってもいい。だから明日の客は俺だけにしてくれないか?」
その言葉に私は寄りかかったまま彼を見上げた。
「それはわっちに言っても意味がないでありんすよ。でもしとつわっち を独り占め出来る方法がありんす」
「なんだ? 言ってみろ」
「主さんがわっちを身請けしてくれればいつまでもわっちは勝友さんのモノ」
体に触れさせていた手を彼の頬へやりながら私はそう言ったけど身請けという言葉に彼は少し溜息をついたような表情を見せた。
「それは……」
そして言葉を詰まらせる彼に私はそっと離れるとゆっくり立ち上がった。
「ならしかたありんせん。わっちは他の客のところにも行かないと。葵。戻ってくるまで勝蔵さんのお相手よろしくお願い」
「はい」
「それではまた後で」
「りょーかい」
私の代わりに彼の傍に座った葵は早速お酒を注ぎ、私は別のお客の元へ。
翌日、午前中のすべき事をいつもより素早く済ませた私は吉原屋の端にある今は使われていない物置小屋が放置されている場所へと向かっていた。そこだけを区切るように(人より少し高い)木塀で囲われたその場所はもう長い間、誰も使ってない忘れられた空間。
そこまで誰にも見られず辿り着いた私は恐らく吉原屋のほとんどが存在を知らない開き戸の鍵を開けた。
すると少し遅れドアは小さく軋みながらゆっくりと開き始めた。
「こうして顔を合わせるのんは久しぶりやな」
開いた戸を通りこの空間に足を踏み入れたのは、
「そうですね」
八助さん。手紙でのやり取りは続いていたがこうやって直接会うのはあの夜以来。だからかどこか初めて会うような少し不思議な感じがした。
「なんもあらへんけどこれぐらいはあるさかい」
そう言って物置小屋の傍に置いてある三人用の腰掛けを指差した私は先に腰を下ろした。でも八助さんはまだそこに立ったまま。
「そいで ずっとそうしていんすのもいいでありんすが、こっちに来るのもいいと思いんせん?」
私はあの時を再現するようにそう言うと隣を手で触れるように叩いた。
「そうですね」
そんな私に八助さんは笑みを零すと足を動かし始め隣に腰を下ろした。あの時よりは近くに。
「でも本当に大丈夫なんですか? こんなこと」
「そないな心配しいひんでも大丈夫。別に仕事をサボってる訳ちゃうし。それより八助はんこそ仕事大丈夫なん?」
「僕は大丈夫ですよ。基本的に忙しいのは夜見世ぐらいからなので。この時間帯はちょっと店に遊客が来るぐらいで。って言っても一番忙しいのは源さんなんですけどね。――それよりこんなところに入口ってあったんですね。知りませんでした」
「多分、知ってる人はいーひんかもしれへん。それぐらい使われてへんさかいね」
「じゃあなんで夕顔さんは知ってるんですか?」
私はそれに答える前に一人頭の中でその人の事を思い出した。今でも鮮明に覚えているあの笑顔を。
「姐はんに教えてもろうてん。姐はんってゆーてもここでの姐はん。わっちに遊女としてここで生きる方法を教えてくれた人。八助はんもずっとここにおるなら知ってる思うで。朝顔姐さんの事は」
姐さんの名前を口にしながら八助さんを見遣ると彼は知っていそうな反応をしていた。
「夕顔さんの前の方ですよね?」
「そう。わっちより前の吉原屋の最高位花魁」
「僕も小さい頃、花魁道中をしている彼女を見た事あります。とても綺麗な人だなって子どもの僕でも思いました」
「身も心も綺麗な人やった。そないな姐はんが一人になりたい時に来とったのがここ。ようこな風に並んで座っとったわ」
私はいつの間にか懐古の情に包み込まれながら八助さんとこの空間を眺めていた。
『ええか夕顔。わっちらはもう年季明けるまで遊女として生きていくしかあらへん。そやさかい一番を目指すんやで。そうしたら少しぐらいはええ暮らしが出来る。この鳥篭から出られへん以上、遊女であり続けなあかん以上、得られるものは少しでも手に入れるやで。あんたにはそれが出来る』
丁度、八助さんの位置に座る朝顔姐さんは私によくそう言っていた。吉原屋の最高級花魁をになって少しでも年季明けまでを良くしろって。
「その方は今どうしてるんですか?」
「――どうやろうな」
「元気にしてるといいですね」
「そうやな」
茶褐色越しに朝顔姐さんを見ながら私は嘘を付いた。本当は彼女が今どうしてるかを知ってる。でもそれを口に出来なかったのは良い思い出との彼女にしか目を向けたくなかったからだろう。それを証明するように心の隅では弱い自分に対する嫌悪感が芽を出していた。
「それより八助はんは歌舞伎って見た事あるん?」
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