第一章:夕顔花魁
夕顔花魁1
「ようこそおいでくんなまし」
私は言葉と会釈の後、莞爾として笑いながら馴染み客の隣に腰を下ろした。
「やっと来たか夕顔」
酒を呷りながら座る私を横目で見遣る男は口角を上げながらそう言った。
「それはわっちの台詞でありんす。 重広さんさらさら来てくれんから、わっち寂しかったぁ」
私はほんのりと猫撫で声を混ぜ、それでいて夕顔花魁という品格を保ちながら腕に寄り添う。
「どうせ他の男にもそうやって同じことを言ってるんじゃないのか?」
「随分と意地の悪い事を言いんすね。――なら、わっちの事、身請けしてくだすってもいいんでありんすよ?」
本気と冗談が半分ずつが混じり合う言葉の後、私は男の耳元へ口を近づけては脚に手を触れさせ、囁き声でこう続けた。
「そうすればこなたの身も心も永遠に主さんのモノでありんす」
芸者の奏でる音楽の中、一人孤立したように静まり返り、繰り返し口へ運ばれていた酒の手も静寂を保った。それはほんの数秒だけだったが男の世界は完全に時を刻むのを忘れていた。
だけどすぐに我に返った男は耳元から離れた(でも手は触れさせたまま)私の顔を切望するような眼差しで見つめた。
「――そんな金、ある訳ないだろ」
予想通りの返事をした男は視線を外すと止めていた手を動かしもどかしさごと飲み込むように酒を呷る。
「それは残念。わっちをこなたの鳥籠から自由にしてくれる殿方様にやっと出会えたと思ったんでありんすが」
「出来るものならしてやりたいが、お前をこの鳥籠から出す為のカギは俺はには高価過ぎる」
「ありがとうございんす。でもわっちはこうやって通ってくれるだけでも充分、嬉しいでありんすよ」
そう言いながら私は男の空いたお猪口にお酌をした。その溢れんばかりに注がれた酒を男はまた呷る。
それからもいつも通り、まるで自分が私を買うに相応しい男である事を証明するかのような酒池肉林を表向きでは楽しんだ。そして引手茶屋での酒宴が終わると次は共に吉原屋へ向かいそこでまたもや酒池肉林が行われた。
夜が更けると吉原遊郭も眠りにつき始め、そして私を含め遊女たちもお客と同衾し始める。下にある大部屋のあの子たちと違い、私は最上階にある個室でお客と二人っきり。複数のお客を掛け持ちすることもあるが今夜はこの人だけ。その為、私には幾つかある個室がある。全てが等しく豪華に飾られているが、別にこれは私の為という訳じゃない。夕顔花魁という吉原屋にとっての商品価値を保つ為だ。
そして今夜もまた疑似結婚をした夫と偽りの愛を語り合う。何度も体を重ね合わせ相手の望むがまま、快楽に満ちた振りが部屋へと響き渡る。その間、体はあれど心はどこか遠くへ。
私は今日もお客の満足の為に尽くした。この身も捧げて。いや、私があの日から捧げ続けているのはお客じゃなくてこの吉原屋……もといこの吉原遊郭そのものなのかもしれない。あの日あの場所で、私の為の人生は終わった。
でもそんな私が唯一自由になれる時間がある。それがこのお客も妓楼も遊郭も眠りについた数時間。私は煙管を咥えると乱れた着物を雑に着直しながら窓枠に腰を下ろした。片足も乗せその上に腕を置き、障子窓を開ける。
この時間、灯りも消え静まり返った遊郭は月明りだけを浴び、薄暗い本来の姿を取り戻す。私はそんな遊郭を見渡すのが好きだ。この束の間の時間だけは自分が遊女である事も忘れ、偽りだとしても『自由』を味わえる気がするから――私はこの時間が好き。
だけど同時に私はどう足掻いてもこれ以上外に出る事は出来ず、ここが私の全てだと思い知らされている気分にもなる。この見渡している遊郭内から一歩たりとも外には出られない。そんな私を置いて吐き出した煙だけが空高く昇って行く。次第に見えなくなっていくあの煙はここを離れてどこまで昇っていくのだろうか。風に流されどんな景色を眺めるのだろうか。
「少しそこで待っとれ」
実質この吉原遊郭を支配する妓楼、吉原屋。その吉原屋の最上階に位置する個室を与えられた花魁である私が、吐き出したただの煙へ憧憬の眼差しを向けていると、下方から嗄れ声が聞こえた。それに釣られて視線を空から地面へ流れ星のように落とす。
そこでは夜回りをする吉原独自の警備隊と老夫が会話をしており、その少し後ろで若男がそれを眺めていた。双方共に足元には何か荷物が置いてある。私は何となくその様子を見下ろしていた。
すると若男が視線に気が付いたのか不意に私を見上げた。月明りに照らされながら偶然に手を取り合う双眸。私は挨拶の意を込め(見えてるかは分からないけど)微笑みを浮かべながら手を振った。
「行くぞ」
だけどその直後、老夫が荷物を持ち上げながらそう言うと若男は私へ手を振り返す事なくそのまま自分の分を持ち上げ行ってしまった。
「わっちも反応を貰えへん時があるんやねぇ」
いつもならむしろ男達が、私からの反応を貰おうと躍起になるのに。別にそこに何の感情も無かったけど私はただ一人皮肉っぽく呟いていた。
いつからだろう、男達が私に対してどんな想いを持とうともどうでもよくなったのは。その全てが単なる偽りだと分かっているからなのか。ただ吉原屋の遊女、夕顔として生きるしかないと諦めたからなのか――私には分からない。気が付けばこうなっていた。吉原遊郭の女王。そんな地位まで上ってきた私が自由と引き換えに得られたのはこの景色と御馳走だけ。あとは欲に塗れた視線も、か。
そんな思いと共に見上げた夜空に煌めく星々は酷く輝いて見えた。
私の一日はお客を起こすところから始まる。
「またおいでなんし」
そして早朝、開いた遊郭の大門前まで奉公人を連れお客を見送る。
「あぁ。また来るよ」
私はお客の耳元まで口を近づけると昨夜のように囁いた。
「主さんとまた楽しい夜を過ごせるのを心待ちにしていんすよ」
顔を離すと表情の緩んだお客と目を合わせその胸に軽く手を触れさせる。
「お仕事頑張ってくんなまし」
「あぁそうだな。ありがとう」
言葉と共に体へ伸びた私の手にこちらをじっと見つめるお客の手が触れる。そして別れを惜しむようにそのままの状態がほんの少しの間だけ続いた。
「それじゃあ残念だがもう行くよ」
「またおいでなんし」
後朝の別れを済ませた私は吉原屋へと戻り、仮眠の後いつもと変わらぬ一日を再開した。化粧や着付け、お客からの手紙への返事や妹分の教育。時間になればお客の元へ。
毎日、毎日。この吉原遊郭の中で同じ日を繰り返す螺旋的な日々。でも悲しくもそんな日々にすっかり慣れ、疑問すら持たなくなってしまった自分がいる。これが当たり前なんだと。受け入れている自分がいる。
だけどそんなある日。私の日常に一つの変化が起きた。それはその日、同衾するはずだったお客が直前で急用により帰ってしまい(それに加え他の客も今日はいなかった)、いつぶりかの静かな夜を一人過ごしていた時の事。時刻は子ノ刻ぐらいだろうか。
煙管を片手に窓際へ腰掛けていると戸の向こうから声が聞こえ、返事の後この吉原屋の楼主である吉田秋生が部屋へと入ってきた。彼は父親でもある前楼主が亡くなり若くしてこの吉原屋の経営者となった。それは同時にこの吉原遊郭の主という意味でもある。
そんな秋生は鋭い双眸を真っすぐ私に向けながら目の前まで足を運んできた。
「客だ」
「折角、今夜はゆっくりできる思っとったのになぁ。わざわざ稼がせる為に大門も閉まってるゆうのに探してきたん?」
「いつも通り選択権はお前にある。一夜限りだが嫌なら帰らせろ。そうなるのも了承済みだ。それと。今夜の客の事は一切口外するな。吉原屋の信用に関わる」
「そないな危ない橋渡ってええんか?」
そう質問を返しながら私は傍にある煙草盆に灰を落とし煙管を戻した。
「問題ない。もし漏れたとしてもお前が認めさえしなければどうとでも出来る。だが面倒はごめんだ」
「ならそもそもその客を取らなええんちゃうん?」
「稼げる内に稼げ」
それだけを言い残して秋生は部屋を後にした。そんな彼と入れ違うように一人の男が部屋へ。私はその間に窓際から立ち上がり簡単に着物を直した。
「ようこそ……」
私はその姿を目にした瞬間、一驚を喫し言葉が止まると同時に秋生の言葉の意味を理解した
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