夕顔花魁2
部屋へ一歩踏み入れた所で佇み、左耳たぶを右手で弄ったりと落ち着かない様子を見せていたのは、数日前に丁度この窓から手を振ったあの若男。あの時はよく見えなかったが幼い顔をした小柄な男だった。
秋生はお客がいなくなり時間の出来た私に少しでも稼がせる為にこれを了承したのだろう。夕顔花魁とは吉原屋の最高位遊女でありその存在は誰もが追い求め、手にする事が出来れば周りから一目置かれるある種の戦利品。そこには常にそれだけの価値がなくてはならい。容易には手にする事の出来ないという価値が。
だからそこら辺の男が手を出せるようでは困る。普段なら目の前の彼じゃ私を呼ぶことすら叶わないはず。なのにたった一夜だけとは言え何度も通い詰めることも無く、酒池肉林を開くことも無く、私と同衾しようとしているのだから。秋生が口止めする理由も分かる。
そしてこの特殊な状況を理解した私は表情に微笑みを戻し止まっていた言葉の続きを口にした。
「おいでくんなまし」
だが若男は依然とそこで立ったまま視線があっちこっちへと落ち着かない様子。いつも自信に満ち溢れ自分こそは夕顔花魁に相応しいと言わんばかりの男達を相手にしている所為か、その姿は新鮮でどこか愛らしくも思えた。その微笑ましさはさながら小型犬。
「ずっとそうしてるのもいいでありんすが、こっちに来るのもいいと思いんせん?」
私は敷かれていた布団に腰を下ろすと隣を二度、三度と叩いて見せた。それを盗み見るように確認した彼は躊躇うように少し遅れて足を動かし始める。緩慢だが着実に歩を進め、最終的には私の隣へと静かに腰を下ろした。
だが手が触れられる位置ではなく少し距離を取るように離れて座った彼。でも私はその間を一気に埋めすぐ隣まで移動した。ここへ来てから一度も目の合わぬ彼を改めて見てみても、こうして面と向かっていることが不思議でしょうがない。どこか夢の中にいるようなそんな感覚に襲われていた。
「お初にお目にかかりんす。わっちは夕顔と申しんす」
これまでのどの男よりも心を籠め丁寧に頭を下げた。
「は、初めまして。八助……で、です」
それは緊張に染まる少し上ずった声。顔を上げた私はそんな八助さんの顔をじっと見つめていた。
すると彼は何度か横目で私を確認し顔を俯かせる。
「な、なんですか?」
「なんでもありんせん。あん時は夜でありんしたしここからだとよく見えなかったから、こな顔してたんやなって思っただけでありんす」
私はそう言いながら俯いたままの八助さんの顔に手を伸ばし頬に触れた。微熱を帯び、微かに震えているようにも感じる。
そしてゆっくりと導くように顔を上げさせると初めて彼の目から私の目へ一本の真っすぐな線が引かれた。
「やっと目が合いんしたね」
でもそう微笑みながら言ったのも束の間、八助さんの顔はすぐに逸れてしまった。私はその初々しくも小動物のように愛らしい反応につい笑いを堪え切れず小さな声を零してしまう。
するとそんな私へ他所を向いていた八助さんの視線が少し戻ってきた。
「ごめんなさい。僕……緊張しちゃってて……」
「気にしなくてもいいでありんすよ」
私は今一度、八助さんの頬へ手を伸ばし彼の顔を自分の方へ向けさせた。それから腿に左手を触れさせ顔をゆっくりだが彼に近づけていく。目はじっと見つめたまま。途中、彼は顔を先程同様(だが今回は僅かに)逸らしたが私は逃がさないと言うようにそれを追い正面で向き合ったまま顔先まで近づいた。だが近づくにつれ避けるように彼の体は後ろへと引いていく。それでも私はそんな彼を追いかけた。
最後は緊張で乱れた息を感じられる程の距離まで。両者の顔が止まると秒針が数歩進む間、少し見開いた目と見つめ合った。
そして男達の耳元で囁くように。
「しとつ残さずわっちに任せてくれれば大丈夫でありんす。そうすれば忘れらりんせん最高の夜にしてあげんすから」
そう言って頬から離した手を襟から滑り込ませ素肌に触れながらそっと服を外へ追いやり始める。焦らすようにゆっくりと。指先から伝わる鼓動は酒宴の太鼓よりも強く、そして激しく脈打っていた。
「あ、あの!」
すると八助さんは突然ここへ来てから一番の声を出し、私は手を止めた。次の言葉まで若干の間はあったものの私は黙りただ彼を見つめたままそれを待った。
「ぼ、僕。こういう事をしたくて、来たんじゃないんです」
緊張のあまりそう言ってるんだな、と率直に思った。それが普段の男達には無い反応だから思わず口元が緩んでしまう。
「遊女を買って一夜を共にする事がどんな事か、まさか知りんせんっていう訳ではないでありんすね?」
ずっと腿に触れていた手を少し上へ撫でるように滑らせ、襟から出した手で服の上から胸を二度、三度と突く。
「もちろん。知ってます。でも僕は、そうじゃなくて……」
「なら、どういう事なんでありんすか?」
「――ただ。夕顔さんと……」
最早その言葉との間に出来る僅かな沈黙でさえ愛らしく思えてしまう。
「わっちと?」
「お話がしたかっただけなんです!」
あまりも予想外なその言葉に私は思わず笑い声を零してしまった。お客の前で演技などではなく本気で笑ったのはいつぶりだろう。いや、初めてだ。
「ご、ごめんなさい。こんなの変ですよね。すみません」
二度も謝りながら彼は視線を落とした。
「確かに変やな」
「ごめんなさい」
「けれど嫌いではないでありんすよ」
私は最後に八助さんの頬にひと触れしてから最初に彼が取ったよりは近いぐらいの距離まで離れた。この布団の上でお客とこんなに距離を取る事なんて無かったし、こんなに気楽な事なんて今まで無かった。
「それで?」
「え?」
「話しがしたいんでありんすよね? どないな話しがしたいんでありんすか?」
そう小首を傾げると少し慌てて座り直した彼は落ち着きなく視線を泳がせた。
「えーっと。その。えーっと……」
どうやら何も決まってないらしい。
「ほな。お仕事は何をしてるんでありんすか? あの時間帯にここにいたゆー事は遊郭内で働いてるんでありんすか?」
「普段は三好という場所で働いてます。妓楼や引手茶屋などに食事を運んだりしてます」
「あぁ。三好ならよう知っていんす。わっちもよく出前を取っていんすからね。いつなるときも美味しい料理をありがとうございんす」
お礼と共に軽く頭を下げた。これは別にお客だからとかではなくて本心からのお礼。
「いや。料理をしてるのは源さんなので。僕は何も」
「そうけれど届けてくれてるのは主さんなんでありんすよね?」
「それはそうですけど。毎回って訳じゃ……」
「そうなら、ありがとうございんす」
「――こちらこそ。いつもどうも」
さっきよりも軽く頭を下げた後、彼は店の者としてのお礼で返した。
「それにしてもよくわっちを買う事ができんしたね。引手茶屋を通して無ければ酒宴もしてないとは言え、わっちは安くはないでありんすから」
「頑張りました。あとは優しさですかね」
「まさか高利貸しから借りた訳ではないでありんすよね?」
「いえ! そんなまさか!」
「まことでありんすか?」
「本当です!」
「なら安心しんした。実際、わっちとの関係を続ける為にお金を借りる人もいんすからね」
「僕は大丈夫です」
そこにはここに来てから一番の自信に満ち溢れた表情があった。同時に最初と比べ彼を縛り付けるような緊張も幾分か和らいだようにも見える。
「そうけれどここで働いているなら知っていんすよね? わっちを買う手順も、それ通りなら主さんでは買えないという事も」
私の言葉に八助さんの表情から自信は姿を消し、顔が俯く。
「はい。もちろんです」
「それなのにここへ来んしたんでありんすか?」
「ダメ元と言うか。無理だとは思ってたんですけどとりあえず訊いてみたんです」
「なら良かったでありんすね。丁度、わっちのお客が帰った時で」
「はい!」
俯いていた顔が上がるとそこには太陽のように煌々とした笑顔が浮かんでいた。私が今後どうあがいても浮かべる事の出来ない穢れも偽りも無き、純真無垢な笑顔。それは今の私には余りにも眩しくて――羨ましかった。
「こんな経験は二度とないどころか人生で味わえるはずの無い素敵な時間です」
多くの男たちが私の事を高嶺の花だと、触れる事はおろか言葉を交わす事すら叶わない存在だと思っているようだけど。今の私にとってはこの遊郭で働く夕顔花魁と比べればなんてことないただのいち料理屋の彼の方が、いくら手を伸ばしても届かない存在に思えて仕方ない。多分それはこの場所ですっかり穢れてしまった私と違い彼がまだ綺麗なままだからなんだろう。嫉妬や羨望とは違う純粋な憧憬の念がそこには存在していた。
もしかしたら私はそんな彼に少しでも近づきたかったのかもしれない。もう手に入らないと分かっているからこそ少しでも。
私は彼の体に手を触れさせるとそのまま布団へ押し倒した。
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