最終章:全てを脱ぎ捨てて
全てを脱ぎ捨てて1
不安と期待、そして愛情を胸に八助と夕顔は吉原遊郭という呪縛からの脱出を図った。
「まずは三好に行きましょう」
夕顔はその言葉を聞き自分の手を引く八助の後姿を見ながら「本当にこれで良かったのか?」と自分に問いかけていた。今ならまだ後戻り出来る、と。
「おい!」
すると吉原屋の前と仲ノ町が交差する辺りを半分ほど進んだ所で飛んできた声が二人の足を止めさせた。と言うより八助が足を止めた事で自然と夕顔の足も止まった。
その瞬間、夕顔は胸中で抱えていた不安が爆発するように内心をビクッっと跳ねさせる。
一方で八助は(それが足を止めた理由でもあるが)その声が誰なのか凡その検討はついていた。
そして二人の視線はほぼ同時にその声の方へ。視線を向けられながら二人の方へ走ってきたのは幸十郎だった。
「おい。何やってんだ?」
「幸十郎さん」
だが幸十郎は八助に答えを迫るより先に辺りを見回すと二人を京町一丁目の前まで連れて行った。そこが少しでも物陰になるからだろう。
そしてそこで改めて八助へ疑問を投げた。
「一体何やってる?」
「逃げます。彼女と二人で」
「おまっ……」
言葉を詰まらせた幸十郎は双眸を片手で覆い隠し天を仰いだ。
「そんなの無理に決まってるだろ! それにただでさえこの人はそこら辺の花魁と違う上に明日身請けされるんだぞ? 吉原屋は何が何でも探し出して捕まえるぞ」
「分かってます。それでも彼女と一緒になるにはこれしかないです。もし殺されてしまうとしても僕は止めません」
八助の覚悟を決めた眼差しに言葉が出なかった幸十郎はそれを無理矢理吐き出すように溜息を零した。
「俺は吉原屋の奉公人だ。そして今は少し前から始まった吉原屋の前での見張りの時間。俺は奉公人として足抜けを見逃してはならない」
「どうか――」
「だが! お前が交代の隙を見てこの人を連れ出したんだとしたら俺にはどうすることも出来ない。さっさと行け」
行けと言いながら大門の方を顎でしゃくる幸十郎。そんな彼に八助は感謝の気持ちで胸を埋め尽くしまるでその重みで自然と下がっていくかのように深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「ほんまおおきに」
そんな八助に続き夕顔もお礼を口にする。
そして顔を上げると八助は夕顔の手を引き走り出した。
「八助!」
だが走り出してすぐ聞こえた幸十郎の声に再度、足を止めた八助は彼の方を振り返った。
「また会えるといいな。ここ以外のどこかで」
「幸十郎さん。お元気で」
「捕まるなよ」
その言葉を最後に八助と幸十郎は互いに背を向け合いそれぞれの向かいうべき場所へ足を踏み出した。
月明りを避けるようになるべく建物沿いを走り真っすぐ三好へと向かう二人。警備隊は吉原遊郭が寝静まると数回遊郭内を見回りあとは大門の四郎兵衛(大門の見張り)が人の出入りを管理する。それを知っていた八助の選択したこの時間帯は完璧で二人は無人の仲ノ町を通り三好へ辿り着いた。
「戻ったか八助。一体どこに――」
戸の音に客席へと姿を現した源三郎だったが八助の傍に居た夕顔の姿に言葉ごと固まった。
「源さんこれは……」
説明しようと口を開く八助だったが源三郎の手がそれを止めた。暫しの沈黙に包み込まれた店内は無人のように静かだった。
「自分が何をしようとしてるのかちゃんと分かってるのか?」
「もちろん。ちゃんと分かって考えた上でだよ」
「――とにかく。一体どうするつもりだ? ここに来ても時間を無駄にするだけだぞ?」
「ここに寄ったのはまず夕顔さんに着替えてもらおうと思って。この格好じゃ目立つから」
八助は同意を求めるように彼女を見遣った。
「言う通りにすんで」
「じゃあこっちへ」
そして彼女の手を引いた八助は部屋へと向かいあまり目立たぬ小袖を手渡した。
「これにお願いします。あと髪も小さくまとめてくれると」
「分かった」
「それと女性ってバレないようにしたいのでこれも」
そう言って八助が手渡したのは晒。
「したことってないですよね?」
「そらあらへんなぁ。むしろ女を見せる仕事やさかい。そやけどやり方は知ってんで」
「何でも知ってますね」
「そうやな。そやけど何でもはちゃうけどなぁ」
「じゃあ僕はさっきのところで待ってるんで」
それを言い残すと八助は源三郎の所へ戻った。椅子に座り込む源三郎。八助はそんな彼の向かいに腰を下ろした。
「どうするつもりだ?」
「とりあえずここを出ない事には始まらない。その後は近くの町へ行くよ。そして人に紛れながら出来るだけ遠くに行く」
「ならもう会う事はないかもしれんな」
「ごめん。折角ここまで育ててくれたのにこんな風に出て行って」
「気にするな。お前がそうしたいと望んだのなら儂は何も言わん。そうしろと言ったのも儂だしな」
決心した事とはいえ八助にとって源三郎の事は唯一の心残りだった。たった一人の家族である源三郎とこのまま別れてしまうのが、八助の心に僅かながらの罪悪感と大きな離愁を生んでいた。
「――源さん。今まで本当にありがとう。もし源さんがあの時、声を掛けてくれなかったら僕はどうなってたか想像もつかないよ。それに源さんのおかげで彼女を知ることが出来たし、出会う事も出来た。僕、源さんと一緒に暮らせて本当に良かったと思ってる。こうやって幸せにやってこれたのも全部、源さんのおかげだよ。本当にありがとう」
成功しようが失敗しようがこれが最後になるかもしれない。八助はこれまでの感謝を――心の底からの感謝を源三郎に伝えた。これだけの言葉で伝えきれたようには思えないがそれでも彼は精一杯の気持ちを込めた言葉を口にした。
「礼を言うのは儂の方だ。まさかこうやって子を持つ事になるとは思わなかった。お前がいなければこの幸せは一生味わう事がなかっただろうな。そしてお間と過ごした時間は儂の人生でも一番の時間だ。儂こそ、ありがとう」
莞爾として笑う源三郎の口元に相反し行燈の光を反射するの双眸。それに感化されたと言うより、抑え込んでいたモノが少し漏れ出したと言う方が正しいのかもしれない。八助の瞳もまた気が付いた時には潤んでいた。
「いいか、これだけは覚えておけ。儂はいつでもお前の味方だ。いつでも会いに来い」
「うん。ありがとう。でも僕の所為でここは……」
「なぁに、儂もツテはある。前に行った江戸の友人の所とかな。心配するな」
「ありがとう」
夕顔とのとは違っているがそこには長い年月をかけ生まれ磨かれた親子の愛が存在していた。どんな宝石にも劣らない輝きを放つとても綺麗な愛の結晶が。
そして二人の会話を聞いていたようなタイミングで衣服を着替えた夕顔が客席へと姿を現した。豪華絢爛とした着物を着た普段の夕顔花魁と同一人物とは思えない質素な着物を身に纏った彼女。
だがそんな姿でも八助の目に映る夕顔は変わらず美しかった。
「これでええの?」
「はい。大丈夫だと思います」
「だが大門を女性が通るには女切手が必要なんだぞ?」
「その為にあとは……」
八助は二人を残し客席から少し姿を消すと手にその考えを持って戻ってきた。
「三度笠とこれ」
そう言って三度笠の次に上げて見せたのは一本の大刀。
「お前そんな物どこで?」
眉間に皺を寄せた源三郎はその大刀を初めて見るようだった。
「前に幸十郎さんがくれたんだ。どこから手に入れたかは分からないけど。でも」
言葉の後、八助は三度笠を夕顔に手渡してから鍔に結ばれた下げ緒を解き、大刀を抜いた。だがそこには不気味に光る刀身は無く鞘と鍔だけ。刀身は鍔のところで綺麗に折れていた。
「刀身はないんだよ。だから見た目だけ」
安心していいという説明を終えた八助は鞘に幻想の刀身を納めると落ちないように下げ緒を結んだ。
「そしてこれをここに」
そう言いながら大刀を夕顔の腰に差した。大刀を腰に差す小袖を来た夕顔。その姿を改めて見ていた八助はこれまで会ってきた彼女とは違う事にどこか違和感とは別の不思議な感覚を抱いていた。
「本当にこれで大門を通れると思うのか?」
「分からないけど。後は僕が一緒にいることで三好のお客に見せるとか」
「こんな時間まで残る客はいないだろ」
「そうだけど。同衾してたけどもう帰らないといけないとか」
「そんな適当で大丈夫か?」
「本来の目的は夕顔さんが女性に見えなくするだけだから。彼女を男性だって思ってくれれさえすれば大門を通るのも問題はないわけで」
八助は心配そうにする源三郎にそう言うと夕顔の方へ顔を向けた。
「夕顔さんそれ被ってみて。出来るだけ顔が隠れるように」
その指示に従い夕顔は前に深く三度笠を被った。
「少し俯き気味で」
「こう?」
「そうそう」
三度笠の所為で顔は良く見えないが腰に差した大刀と晒のお陰で隠れた胸が相俟り、その姿は完璧とまではいかなくとも大門を通るには十分な雰囲気は醸し出していた。だが同時に時間帯もあり怪しさは拭い切れない。
「でも流石に夕顔さんが部屋に居ないって事が知られる前に通らないと。だから」
「ちょっと待て。少しだけ待ってろ」
もう行く、そう言いかけた八助の言葉を遮った源三郎は先程の八助のように客席から出て行った。
その姿を何かを言う前に見送ることになった八助。
「ほんまに大丈夫やろうか?」
すると三度笠を上げた夕顔が不安な声で呟いた。別に八助を信じていないという訳ではなかったが、彼女の胸の中では色々な要素の不安が渦を巻いていたのだ。
「大丈夫ですよ。絶対に」
だが八助もまたそこに絶対的な確信と自信は無かったが、夕顔を少しでも安心させようと彼女の手を握りそうい切って見せた。仮面を被るように自信に満ち溢れた表情を浮かべながら。
でもその表情と言葉、何より包まれる手から感じる八助の存在に夕顔の中の不安は煌々とした陽光から身を隠す影のように身を潜めた。消えたわけではないが今の彼女にはそれだけでも十分だった。少しでも目を逸らせるのなら。
「おおきに」
それは小さくすぐに消えそうな声だったが、先程とは違い安堵に包み込まれていた。
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