天界の花はただ一人のために愛を歌う

吉華(きっか)

プロローグ

プロローグ

 その瞬間、一切合切の言葉を失った。

「姉さま!」

 そう言って振り返り、視線の先にいる女性に呼び掛けた際に見えた、彼女の美しい微笑みが。溌溂とした可愛らしさが、ふわりと広がった紫の髪が。この目の中に鮮烈に飛び込んできた。

「――っ!!」

 ふわりと彼女の髪が舞い、跳ねた水滴がきらきらと太陽を反射する。目の前の光景全てがこの世のものとは思えない程、正に幻想的で物語のような美しい景色だった。

(あんな……あんな、に、綺麗な女性がこの世にいるのか)

 かっと耳の先まで熱を持つ。ただでさえうるさい心臓が、更に更に加速していった。

(これ以上、見てはいけない)

頭の中に警鐘が鳴り響いて、気づかれないよう注意しながらその場を離れる。無事家に辿り着いて部屋の中に入った瞬間、下肢から力が抜けてへたり込んでしまった。

「あ、あぁ……」

 失った言葉が戻ってこない。口を開けて何か話そうとしても、意味をなさないうめき声にしかならなかった。


  ***


 窓の隙間から差し込む光に照らされて、ふっと意識が浮上した。目に入ってきたのは、見慣れた天井、見慣れた壁……特に代わり映えするような景色はない。けれど、未だ視界の端では光がちかちかと瞬いていて、まるで彼女の残滓を見ているようだ。

『姉さま!』

 透き通るような声音が、脳内にこだました。琴職人として生計を立てるようになって幾星霜。その関係で様々な楽器を見て、音色を聞いてきて、中には一級品と称される素晴らしい楽器も数多あったけれど。それでも、あんなに美しい音は聞いた事がない。

 いや、美しいのは何も声だけではなかった。振り返った瞬間に舞った紫の髪は艶々と煌めいていたし、着物の端から伸びる手足は白くしなやかでほっそりしていた。

 極めつけは、あの溌溂とした可愛らしい笑顔だ。翡翠色の大きな瞳をぱっちり開いて、血色良く染まった頬をして、ふっくらとした唇をしていた。その姿を思い出すだけで動悸が激しくなり、心臓が握られたように痛くなる。

(これが……俗に言う一目惚れというやつなのか)

 話には聞いた事があった。俺の周りにも、何人かした事があるという奴がいる。だけれども、元服して直ぐに家を出て、以来ずっと一人暮らしで琴を作ってばかりの自分に、そんな機会がやってくるだなんて。雅を解せない男だとか朴念仁だとかと言われて笑われていた自分が。そんな。

偶然一目見ただけの女性に、こんなにも心を掴まれてしまう未来があるだなんて、そんな事、微塵も思っていなかった。


  ***


 それからは、毎日のようにあの泉に行って、彼女はいないかと探し回るようになっていた。必要な分の資材を調達した後は、もう山の中には入らず工房で作業をするべきなのだけれども……どうしてもどうしても彼女にもう一度逢いたくて、彼女を一目見たくて、想いが抑えきれなかった。

 とは言え、最初の出逢い自体が偶然の産物だったのだから、そう簡単に再会出来る筈もない。時間を変えてみたり方角を変えてみたりと色々試してはみたが、彼女には会えないまま二か月は過ぎてしまった。

「やっぱり、彼女は疲れから見た幻覚だったのだろうか……」

 そんな事を考えてしまうくらいには、気落ちしていた。だけど、こちらが勝手に追いかけているだけなのだ。彼女からしてみれば追い回されるだけの話なので、迷惑にも程があるだろう。

 それでも、どうしても、あの笑顔がもう一度見たかった。ここまでくると恋ではなく執着なのではと心配になってきたが、ここまで欠かさず毎日湖にまで行っているのだから的外れな考えでもないのだろう。

 何となく自覚はしていたが、あと一回だけ、あと一回だけ……と呪文のように唱え今日もまた山道を登って湖を目指していた。最近はついでに薪や果物も拾って持ち帰るようになったので、背中に籠も背負っている。

 えっちらおっちら歩いていると、湖が近づいてきた。特に変わらぬ様子のその場所が目に入り、ああ、今日もだめかと思って落胆する。

 どうせなら喉を潤して帰ろうと思い、更に湖に近づいた。その瞬間、かすかな歌声が耳に届く。

 まさか、まさか。期待で一気に逸った心臓と浅くなる呼吸を懸命に宥めながら、音をたてないように移動する。意識して深く呼吸をし、木陰に隠れてこっそりと水面の方を覗き見た。

「――っ!!」

 着ている着物の色は違うが、あの紫の髪、あの華奢な体、間違いない。髪の隙間から見えた横顔にも、見覚えがある。

(もう一度、会えた)

 歓喜で体が震え、思わず息を飲む。湖一帯にこだまする透明な歌声に聞き入って、ずっとその場所に立ち尽くしていた。

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