(2)

「そこまで!」

 試験官の声が聞こえてきたので、答案から手を放して机の上に置く。順に回収されていくのをぼんやりと見送り、これで全ての筆記試験が終わったと会場の受験者に告げられた。一気に騒がしくなった室内を横目に、手早く荷物を片付けていく。

(……明日はとうとう実技試験)

 試験自体はまだ終わっていないのだ。だから、気を緩めている暇なんてない。このまままっすぐ家に帰って、最後のおさらいをして明日に臨まないと。

 人の合間をすり抜けていきながら帰路へ着く。ただいまと言って部屋に入ると、お帰りと言う姉さまの声が聞こえてきた。

「まずは筆記お疲れ様。ちゃんと名前と受験番号は書いた?」

「書いたわ。答案も三回見直したし、内容以外の注意もきちんと確認した」

「そう。それなら大丈夫ね」

「うん」

 万が一の事がなければ、合格点は超えるだろう。後は、実は解答欄が一つずつずれていたとか燃えて無くなってしまったとか、そういう事態にならなければ大丈夫な筈だ。

「今からお昼食べる?」

「食べる……お腹空いた」

「頭使うとお腹減るものねぇ。ちょっと待ってて」

「うん。荷物を部屋に置いてくるね」

「はぁい」

 姉さまの返事を背中で聞き、自室の中へ入って机の上に荷物を置く。上着も置いて居間に戻ると、美味しそうなご飯が目の前に広がっていた。

「頂きます」

「たくさん食べてね」

「あぁ……美味しい……人の作ったご飯なんて数か月ぶり……」

「地上でも桐鈴が作っていたの?」

「そうよ。あの人も作れない訳ではなかったけど……置いてもらってるお礼として、私が率先してやっていたから」

「自分で帰れないように仕向けておいて、そんな理由で家事までさせていたなんて」

「……だって、その時は事実を知らなかった訳だし。でも、作るの自体は苦ではなかったから大丈夫よ」

「私が結婚してからは一人暮らしだったものね」

「それも、あるけど……」

 弦次さまは、きちんと美味しいって言ってくれたから。作って当たり前だとかそんな事は一切言わずに、毎食作ってくれてありがとうって言ってくれたから。あまり表情が変わらないで口数も少ない人だから、ぽつぽつと告げられるくらいであったけれど。それでも、それでも……確かに、私は嬉しかった。

「ごちそうさま」

「おかわりあるけど」

「お腹一杯になったら眠くなっちゃうから、このくらいでいいわ」

「そう? それじゃあ残りは夕飯に回すわね。この後はどうするの?」

「少し休んでから課題曲のおさらいと譜面の確認をするわ。最終確認を夜にお願いしたいんだけど、良い?」

「もちろんよ。今日は前日だし、あまり根を詰めすぎて怪我をしてはいけないから、琴を弾くのはほどほどにね」

「うん」

 返事をして部屋に戻る。元々愛用していた琴を弾きながら、曲のおさらいをしていたのだけれど……集中しようとする度に、ふとした瞬間の弦次さまの表情や言葉を思い出してしまって、気持ちが途切れてしまう。

(……このままじゃらちが明かないわ)

 こんな浮ついた状態じゃ、演奏に雑念が入ってしまう。それでは力が十分に発揮できないので、どこかで気分転換でもしてきた方が良さそうだ。

 それならば敷地内の湖で少し泳いで来ようと思って、台所でお菓子を作っていた姉さまに声をかける。風邪を引いてはいけないから厚手の上着を持っていくように言われたので、初冬まで着られるくらいの上着を引っ張り出して見慣れた湖にやってきた。

 持ってきた上着を淵に置いて、仙術を自分に掛け水の中に入る。そのまま底まで泳いでいき、水面の方を見上げた。

(……きれい)

 水面から差し込んでいる光が乱反射して、辺り一帯が輝いていた。水の透明度も高いので、遠くまでよく見渡せる。透き通るような、綺麗な、青。

「……弦次さまの、瞳の色だわ」

 知らず零れたその言葉に、泣きたいような気持ちになった。私は裏切られたのに、嘘をつかれていたのに、騙されていたのに……それでも、今、湖の青に彼を重ねてしまったくらいに、彼の事を愛している。

 少し離れたくらいで忘れられる筈がなかった。騙されていたくらいで想いが消える訳なかった。いや……これでも冷めないくらいの強さの想いだからこそ、恋は盲目と揶揄されるのだ。

 本当に自分は愚かだと思う。どんな理由であったって、嘘をついて騙すのはいけない事だ。ずっと一緒にいたいと願うくらいに愛する相手であれば、なおさら誠実でいるべきだろう。

 それなのに、それなのに……どうしても、彼を本当に憎んで嫌いになる事なんで出来そうにない。彼のためにも許してはいけないのに、許してしまいそうになる。愚鈍な寛容こそが愛だと、言えてしまうのかもしれない。

 自分の頬が、湖の水とは別のもので濡れている感触がした。それの出所がどこかなんて、確認しなくても分かる。ああ、こんなにも。彼の事を思い出すだけで、こんなにも私の心は揺さぶられてしまうのだ。

(……ただで許すのだけは止めましょう。それ相応の償いはしてもらわないと)

 そこだけは譲ってはいけない。弦次さまを愛しているというのならば、絶対に。反省していて、償う意思があって、その上できちんと行動してくれた……その時ならば。

 もう一つの覚悟を決めて、湖の中から出た。仙術で髪と体、服を乾かしながら、これからの予定を考える。

 ふと、今弦次さまは何をしているのかが気になった。時間の流れが違うから、地上は夜で眠っているのかもしれないし、昼だから琴を作ったりビワと一緒に出掛けていたりするかもしれない。そんな彼の様子を垣間見れば、少しは私の心も落ち着くかもしれないし。

 そう思ったので、湖を覗き込んで透視の術を使う。弦次さまを思い浮かべて、今の彼の様子を映し出すよう水面へ強く念じた。

「え!?」

 映った景色を見た瞬間、思わぬ事態に動揺して大声を上げてしまった。その光景がとても信じられなくて、更に詳しく状況を確認出来るように術を強化する。

 けれども、結果は……土砂崩れが起こっている山壁と、それに向かって必死に吠えているビワが見えている、という景色は変わらなかった。

「……助けにいかなきゃ!」

 こうしてはいられない。明日の試験は昼からだから、それまでに戻ってくれば大丈夫だ。今行けば間に合うかもしれない。早く、早く行かないと!

 焦る気持ちを必死に落ち着かせながら、上着を抱えて家に駆け戻った。

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