(5)
「さあ、ゆっくりと目を開けて」
肌を撫でていた筆が離れていき、合図と共に目を開く。姉さまが見せてくれた鏡を確認すると、そこに映っていたのは見慣れぬ自分の姿だった。
「……これ、私よね?」
「他に誰がいると言うの」
「それはそうなんだけど……見慣れないっていうか……」
「桐鈴は完全正装するの初めてでしたか?」
「そうですね……小さい頃によそゆきの服を着たくらいで」
「なるほど。本来ならば、結婚式か神事の際にするくらいですものね」
それならば、これは正に晴れの日の恰好という訳だ。見慣れなくて落ち着かない心地がしても不思議ではない。
(艶やかでとても重い……責任の重さの具現かしらね)
今回の恰好は完全正装というだけあって、腕を上げるのにも苦労するくらい着物を重ねて着ているし、化粧もかなり念入りに施されていた。儀式的な意味合いが強い、豪華な化粧をするのは初めてだ。
「それだけ着飾れば、十二分に術の補助となってくれるでしょう」
「ご協力頂きありがとうございます」
動ける範囲で腰を折り、先達二人に謝辞を述べる。中心となる着物は姉さまの手作り着物だけれども、羽織は先生が過去の実務中に使っていた物を貸して下さったのだ。
「……ここにいる全員、最善は尽くしました。あとは、貴女次第です」
「はい」
「気負わず、焦らず。心を込めて、本領を発揮してきなさい」
「分かりました」
「最後におまじないをかけておきましょうか。手を貸して」
先生にそう促されたので、そっと右手を差し出した。一言二言呪文が聞こえてきた後で、軽く握られる。体の芯が少しだけじわりと温かくなって、逸っていた心が少しだけ落ち着いた。
「……桐鈴」
「姉さま」
声のした方を振り返ると、どことなく寂しそうな表情の姉さまがいた。両腕を体の前で組んでいるのは、強がろうとしている時の姉さまの癖だ。
「本当は、私も一緒に行って手伝いたかったけれど……それは叶わないから、せめて成功を祈っているわ。お互い頑張りましょう」
「うん。姉さまも頑張って」
無事に習得し、準備を始めた段階で入った一本の通信を思い出す。それは義兄のお母さま……姉さまにとってはお姑さまからで、義兄の弟が訪ねてくる際に事故に巻き込まれ重傷を負ったから、助けてほしいという内容だった。合間合間に何かの指示を出していた義兄の声も入っていたが、義兄の、あんな切羽詰まった悲痛な声は初めて聞いた。それは一緒に聞いていた姉さまも同じだったようで……私の支度を終えたら、直ぐに彼らの元へ向かう事になった。
「それじゃ、行ってきます!」
二人の目を交互に見て、気合いを入れる為に声を張り上げた。二人分のいってらっしゃいを聞いた後で、天の衣を羽織る。
「愛しいかの人の元へ、連れて行け!」
そう命令した瞬間、視界が光に包まれた。
***
すっかり見慣れた部屋の中に、もう一度舞い戻ってきた。簡素な部屋の中にいる豪奢な格好の自分がとても場違いな気がするけれど、構っている暇はない。
目の前で眠っている彼は、うっすら汗をかいていた。今のところは規則的に呼吸しているようだが、いつ変わるか分からないので早いうちに治療した方が良いだろう。そう思って、部屋の端に置いていた地上での相棒を彼の傍に持ってくる。
「ワン! ワンワン!」
「ビワ」
私が帰ってきたのに気付いたらしいビワが、嬉しそうに吠え始めた。きらきらとした瞳をこちらに向けられ、ふとある事を思い出す。
「ビワ、こっちまでいらっしゃい」
「ワンッ」
「そうそう良い子ね、そのまま……よっと」
ぶんぶん尻尾を振っているビワの背に手を伸ばして、体の毛を数本切った。きょとんとしているビワの頭を撫でて、もう大丈夫よと声を掛ける。
『貴女と同じように彼の回復を願う存在があるのならば、その者達からも力を借りると良いですよ』
小休止していた時に、先生にそう教えて頂いたのだ。仙力に連なる力は髪や体毛に宿るから、数本貰って身に着けると助けになると。出来れば彼の顧客の方々や教え子のあの子、そのお爺さまからも貰えれば良かったのだが、貰いに行く時間が惜しい。なので今回はビワの力だけを借りよう。
準備が整ったので、琴の前に座って呼吸を整える。体内で仙力を練って歌詞と旋律を脳裏に浮かべ、大きく息を吸った。
『未だ揺蕩い 彷徨うは
愛しあなたの 御魂なり』
歌に仙力を纏わせ、彼の元へ飛んでいくよう声を出す。基本的に重症治癒の歌でも一行二行で終わるものなので、四行もあるこの歌は規格外と言えよう。そんな長い間、大量の仙力を込めたままで歌う必要があるのだから、なるほど負担が大きい訳だ。
『君の目覚めの ためならば
この心こそ 糧にして』
疲労を感じ始めたけれども、最後の一音まで気を抜かずに歌い切る。残った伴奏まで弾き切った後で、息を乱しつつ弦次さまの様子を伺った。
「ん……」
今までの呻き声とは違う、零れ落ちたような寝言が聞こえてきた。眉間に皺が寄っているが、顔色はこれまでの間で一番良い。
「……とう、りん……?」
「弦次さま!」
うっすらと開いた瞼から、焦がれた青が現れた。まだ意識がぼんやりとしているのか焦点は定まっていないが、私の声は聞こえているらしい。
「とうりん……ほんとに……」
「はい! 私です、桐鈴です!」
ふいに、布団がもぞもぞと動いた。彼の腕がこちらへと伸びてきたので、そっとその手を掴む。しかし、そのまま私の顔の方へと伸ばしてきたので、逆らわずに頬の辺りに触れてもらった。
「やっぱり……きれいだ」
「……え」
「とうりんは……きれいだな」
その言葉と共に、瞼がはっきりと開いた。唇は緩く弧を描いて、頬には久方ぶりに赤みが差す。頬に体温がしっかりと触れるのは初めての筈なのに、何故かとても懐かしいような心地がした。
「……ふ、う、うわああああああん!!」
張りつめていたものが、全て決壊した。彼が目を覚ましてくれた事が、もう一度微笑んでくれた事が、ただただ嬉しくて、ほっとして。ただそれだけで、さっきまで感じていた疲労感はあっさりと消え失せた。
「良かった……良かった……!」
せっかくしてもらった化粧が崩れるのも構わず、幼い子のようにわんわんと泣いてしまう。けれど、弦次さまは何も言わずに黙って頬を撫で続けてくれた。
「これでも目を覚ましてくれなかったらどうしようかと……これでもだめなら、いよいよもって、とか……」
「心配、してくれたのか。俺は……桐鈴を騙していたのに」
「それはそれ、これはこれです。償いはきちんとしてもらいますから」
「もちろん、だ」
頬に触れていた手が、頭の上に乗った。そのままよしよしと撫でられて、その重さと温かさでまた視界が滲んでくる。
(……ああ、ようやく、届いた)
そう実感した瞬間、頬に再び一筋の涙が伝っていったのが分かった。
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