終章 愛を知った天界の花は艶やかに咲き誇る
(1)
「起き上がって大丈夫ですか?」
上半身だけ起こしている弦次さまへ、そんな風に声を掛ける。中庭を見ていた彼はこちらを振り向き、ああと頷いた。
「怪我はもう治っているからな」
「そう言えばそうでしたね。後は目覚めの時を待つばかり、という状況でしたし」
「そう言われると、何だか封印されていたみたいだな」
「似たようなものでは?」
そう呟いて、彼の枕元に腰を下ろす。淹れてきたお茶を彼に渡すと、ありがとうと言って受け取って下さった。
「自分を罰するあまり、無意識の内に目覚めてはいけないと思っていたのかもしれんな」
「……」
そんな彼の言葉には答えずに、ずずっとお茶を啜る。彼も湯呑に口をつけたが、熱いと言って必死に息を吹きかけていた。一生懸命な様子が可愛らしいな……なんて思って口元が緩んできたので、ぐっと力を入れて唇を引き締める。
「貴方の罪を許せるのも罰せるのも私だけだと言うのに。随分と勝手ですね」
「そう言われると反論のしようもないな」
ははっと力無い笑い声が聞こえてきたが、知らないふりで残りのお茶を飲み干した。彼だって、別に返答を求めている訳ではないだろう。
「…………すまなかった」
謝罪が聞こえてきたので、湯飲みを置いて彼の方へ視線を向ける。彼の青い瞳が、真っ直ぐに私へと向けられた。
「一目惚れしたと言うのならば、時間を掛けて距離を縮めるべきだったんだ。桐鈴は俺を知らないのだから、まずは知り合いになるところから始めて、警戒されないよう細心の注意を払いながら事を進めるべきだったのに。焦燥に駆られる余り先走ってしまった」
「焦燥に駆られた?」
「そうだろう。急がないと……惚れた女性が別の相手と一緒になってしまうかもしれないんだ。焦るに決まっている」
「……そうですか」
じわじわと頬が熱くなってきたので、視線を逸らして青い視線から逃げる。毅然とした態度で論理的に話をし、彼の罪状を明確にして然るべき償いを……なんて思っていたのに、そんな真正面から謝られた上に曇りのない好意をぶつけられては、恰好つける事も出来ない。
「親切にして下さっていたのは、罪悪感からですか?」
「それが無い訳ではなかったが半分以上は下心だよ」
「下心」
「好いた相手には想いを返してほしいし、恋人同士になってゆくゆくは夫婦に……なんて考えるものだろう。もちろん本気でそう思っていたから褒めていたし、これは似合うとか喜んだ顔が見たいとかも本気で思っていたから贈り物をしたり言葉にしたりしていたが、桐鈴に俺を好きになってほしかったからというのも過分にある」
「……」
とうとう言葉を発する事が出来なくなって俯いてしまった。耳が熱いので、きっと真っ赤に染まっているのだろう。正直、私のどこにそう思わせるだけの魅力があるのかがさっぱり分からないが、彼が嘘を言っているとも思えない。
(腹を括るしかないかな、とは思うんだけど)
彼の思惑通りと言っては何だが、私は彼の事を愛するようになった。だから、出来る事ならばこのまま彼と一緒に生きていきたいと思う……けれど、今の私は試験に合格したばかりの新米歌癒士でもあるのだ。念願だった資格を得たからにはその使命を全うしたいと思うけれど、そうなると四六時中一緒にいる訳にはいかない。どうしたものか。
「それはそれとして……桐鈴は、償いに何を望む?」
「え?」
「正直天界の方が良い物が多そうだが、伝手だけはあるんでな。上等な着物とか琴とか楽器とか、何なら書物でも良い。物でないものが良いなら数日中にとはいかないかもしれんが、桐鈴が望むならばそれでも」
「な……何で、急にそんな事を」
戸惑いを隠せないまま、弦次さまに問い返す。すると、弦次さまの方が余計に驚いたような顔になってしまった。
「俺の体調はほぼほぼ回復した。数日もすれば作業を再開出来るだろう。そうなると、桐鈴がこれ以上ここに留まる理由はない。ならばその前にと思ったのだが」
その言葉に、背筋が凍り付いた。貴方はその口で、私を好いているとはっきり言ったのに。理由がなければ、傍にいる事を許してくれないのか。
「……いけませんか」
「何だ?」
「理由がなければ、ここにいてはいけませんか」
「いや、そういう訳ではないが……桐鈴がこのまま此処にいる理由も利点もないだろう? 桐鈴を地上に留めておきたかったのは俺個人の我が儘だ。実際、桐鈴は天界に帰りたがっていた訳だし」
その言葉に、ふっつりと何かの糸が切れたような気がした。彼は私の想いを知らないのだから仕方ないだろうという理性と、人の想いを勝手に決めるなという怒りが、ぐつぐつと腹の中で煮えていく。
「私の事を好きだとおっしゃったくせに、突き放そうって言うんですか」
「違う、違う。好きなのは俺の方だけなのだから、これ以上無理に付き合わせるのはいけないだろうと」
「自分だけだなんて、勝手に決めつけないで!」
叫んだ後で、こんな風に言う気はなかったのにという後悔の念に襲われた。弦次さまは傲慢になり切れない優しい人なだけで、その中途半端な優しさが痛いと思うくらいに私が彼を好きなだけという話で。でも、それは伝えていないのだから、理不尽と怒るのも身勝手である。
「……そんな事を言われたら、俺に都合の良いように解釈してしまうぞ」
「構いませんよ」
目は合わせられなかったけれど、返答は出来た。それを聞いた弦次さまは、腕を伸ばして私の手をぎゅっと掴む。口から心臓が飛び出ていきそうになったが、何とか堪えてじっとしていた。
「本当に良いんだな? それなら、桐鈴も俺の事を好きだと、自分の意志で地上に残ろうとしていると、そう捉えるが」
「一つだけ相談がありますけど……ええ、そうです。私も、あなた、を」
どんどん声が細くなって、震えていった。けれどもいい加減伝えないといけない事なので、覚悟を決めるため大きく息を吸う。思わずこちらからも彼の手を握ってしまったが、弦次さまは咎める事無くそのまま握らせてくれた。
「……私も、貴方が、好きです」
最後の方は、声が掠れてとても小さくなってしまった。それでも弦次さまの耳にはきちんと届いてくれたらしい。上ずった声音で名前を呼ばれて、握られた手を引かれて抱き締められる。
「すまないが、嫌じゃなければしばらくこうさせてくれ」
「嫌な訳……ないじゃないですか」
「そうか。それなら、しばらく……」
今までの中で一番近い場所から彼の声がする。彼と触れている場所が熱く溶けていきそうで、でも、離れたくはなくて。ばくばくと心臓が煩く鳴っているまま、そろそろと私の方も弦次さまの背に腕を回して抱き着いた。そうしたら、ますます強い力で抱き締められたので更に密着していく。
肩が濡れてきたような気がしたが、気づかないふりをした。
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