(2)

「……はぁ」

 ぷかぷかと湖の水面に浮かびながら、何度目か分からない溜め息をついた。近くの木に掛けてある天の衣はひらひらと揺れていて、その先に広がる空は憎らしい程真っ青だ。

『それじゃあね、桐鈴。何かあったらすぐに連絡するのよ』

 何度も何度も振り返りながら念を押して、姉さまは婚家に帰っていった。一人になってしまったという寂しさ半分、漸く義兄の監視から逃れられたという安堵半分……という何とも複雑な気持ちのまま数日が過ぎてしまったので、気晴らしをしようと思って再び地上にやってきたのだ。

「ほんっと、義兄さまの束縛心は一体どこから来てるのかしら。実家に泊まりに戻った自分の妻に発信具と盗聴具を付けてただけでも信じられないって言うのに、その上で毎朝毎晩電話してくるなんて。そんなに電話してくるなら盗聴具要らないじゃないのよ」

 初日は姉さまがそんな仙具を付けてるなんて知らなかったから、義兄に対する不満を姉さまに対して言ってしまって大層面倒な事態になった。記憶の片鱗が脳裏を掠めただけで気分がどんよりとしてきたので、勢いをつけて水の中に潜り底の方へと泳いでいく。

(……水の中は綺麗ね)

 昔から、嫌な事があった時はこうやって湖に潜っていた。仙術を使えば水の中でも呼吸出来るし、体がふわふわと浮いている感覚が心地よくてほっと出来たのだ。

「……さむっ」

 地上は夏だから大丈夫だろうと思って少し長めに潜っていたが、それでも体は冷えていたらしい。もうそろそろ上がって帰るとしよう。

「帰ったら洗濯物取り込んで薬草園の水遣りしてから、筆記の方の……え?」

 湖から上がり、木の枝にかけていた天の衣を取ろうとして愕然とした。潜る前までは風に乗って揺れていた天の衣が、影も形も無くなっていたのだ。

「嘘でしょ、そんな!?」

 天の衣には、天界の入口への転移術と通行証となる仙術、そして目的地や自宅への転移術が重ねて掛けられている。だから、衣を使えば地上の山頂の湖に行く事も、天界の自宅に帰る事も、瞬きの間に行う事が可能なのだ。

「どうしよう……入口の方から帰るって言ったって……」

 地上から天の衣を使わずに天界へと帰るには、限られた山の頂にしかない天界への入口を探して、そこの門番に通行許可を得る必要がある。生まれた時から天界で暮らしている仙人や仙女なら簡単に許可が降りるらしいので入口を通る事自体は問題ないが、そもそもその入り口がある山……一定の高さがある山は、この辺りにはなかった筈だ。

 想定外の事態に、視界が滲んでくる。けれども、泣いている場合ではない。私が帰らなければ父さまの薬草園や自宅が荒れてしまうし、ずっと待ち望んでいた大事な試験が二か月後に迫っているのだ。

「天の衣は、薄くて軽い生地で作られている。だから、風で飛ばされてしまったのかもしれないわ。周辺を探してみたら見つかるかも」

 先程まで風が吹いていたから、十分考えられるだろう。仙術を使って自分と服を乾かした後で、周りの木々の揺れ具合から風向を割り出し、風下の方へと歩を進めた。

「……ん?」

 歩き始めてしばらく経った頃、進行方向からがさがさという物音が聞こえてきた。もしかして、木か草かに絡まった天の衣が立てている音だろうか。

 逸る気持ちを抑えながら音のする方へと走っていくと、開けたその場所にいたのは一匹の茶色い犬だった。こちらにお尻を向けた状態で、一生懸命穴を掘っている。その際に耳や尻尾が周りの草に当たって音を立てていたようだ。

「何だ……それじゃ、他の場所をまた探さないと」

 早とちりを恥ずかしく思いながら、くるりと後ろを振り返った瞬間、地面に沿って生えていた木の根に足を取られて派手に転んでしまった。咄嗟に掴んでしまった枝がばきばきと音を立てて折れてしまい、申し訳ない気持ちになる。仙術で治しておこうと思って枝の方を向いた瞬間、殺気を感じて思わず身震いした。

「ぐるるるるるるる……」

 恐る恐る振り返った先にいたのは、先ほど一心不乱に穴を掘っていた犬だった。牙をむき出しにして唸りながら、じりじりと近づいてくる。

「や、やだ……来ないで……」

 鋭い牙が、低い唸り声が、とてもとても恐ろしくて。手に持っていた枝を投げつけ、立ち上がって駈け出した。しかし、慣れない地面に足を取られてうまく走れない。

 こっちがもたもたしているうちにどんどん距離を詰められて、とうとう追いつかれてしまった。その犬は大きく口を開けながら、噛みつこうと私へ飛びかかって来る。

「きゃああああああああ!!」

 反射的に目を閉じて、腕で顔を庇い頭だけは守れるような姿勢をとった。しかし、噛まれたような激痛が一向に襲ってこない。

 どういう事かと思って恐る恐る目を開ける。すると、視界に映ったのは先程の犬ではなくて……一人の男性の背中だった。


  ***


 あがった息を整えながら、広い背中をぼんやりと眺めていく。目の前の男性は、袖が筒状の着物と袴を身に着け、袴の裾を絞って布で足に巻き草鞋を履いていた。確か、地上での一般的な装いだった筈だ。

「あんた、大丈夫か?」

 ぱんぱんと音を立てて手を払いながら、男性はこちらを振り返って声をかけてきた。短く揃えられた黒髪に、湖みたいな青い瞳。地上の人間……だとは思うけれど。

「え、あ……あなた、は?」

「俺か? 俺は、弦次という」

「弦次さま、ですか?」

「ん……まぁ、さま付けされるような大層な人間じゃないが、好きに呼ぶといい」

 がりがりと頭を掻きながら、弦次さまが呟いた。男性特有の、低くて固めの声だけれども恐怖は感じない。それどころか、ほっと安心出来るような響きだ。

「あの……助けて戴いて、ありがとうございました」

「気にしなくていい。ああ、でも……次からは、ああいった場合下手に逃げずにじっとして向こうがいなくなるのを待つか、目を逸らさずに後ずさりしながら距離を取った方が良いぞ。背中を向けて逃げるのは逆効果だ」

「そうだったんですね。教えて戴き感謝します」

「まぁ、そもそも出会わないのが一番ではあるが……時に、あんた」

「はい?」

 そこで言葉を切った弦次さまは、座ったままの私と視線を合わせるかのように屈み込んだ。切れ長の青い瞳がまっすぐに私を見つめてきて、落ち着いてきた筈の心臓が再びせわしなく動き始める。

「人間じゃあないな。神霊の類か?」

「……仙女です」

「仙女か。道理でそんな成りをしている訳だ」

「そんな成り?」

 どういう事かと思って首を傾げると、弦次さまは動きに合わせて揺れた私の髪を一房掬うようにして手に取った。視線の熱に当てられたからか私の頬まで熱くなってくる。

「ここまで綺麗な紫の髪は、地上の人間じゃ有り得ない。翡翠色の瞳もだ」

「地上の方は、黒髪黒目の方が多いですものね……それならば、貴方も人間とは別の血が混ざっておいでですか?」

「いや、俺はまごうことなき人間だよ。この国以外の人間の血が混じってるだけさ」

「外国の方は、青い瞳をされているのですか?」

「そういう人間もいるし、茶色の人間もいるし。黒い方が少ないらしい」

「へぇ……」

 博識な人であるようだ。感心しながら頷いていると、ふと、視界の端に先程の犬が映った。ぐったりと横たわっている様子に、もしやと思って弦次さまの方を振り仰ぐ。

「当て身を食らわせて気絶させただけだ。殺しちゃいない」

「そうだったんですね……良かった」

「優しいんだな。自分を襲ってきた奴の心配なんて」

「だって……最初に見た時は、私に気づいてなかったみたいなので……私が転んだりしなければ、襲い掛かってくる事もなかったでしょうし」

「成程な」

 そう言った弦次さまは、先程の犬に近づいて行った。注意深く観察した後で、後ろ足の辺りを確認しながらそういう事かと呟いている。

「こいつ、怪我してたんだな。だから穴掘って隠れようとしたり、身を守ろうとして襲い掛かったりしてきたんだろう」

 分析を終えたらしい弦次さまが、おもむろに犬を抱え上げた。そして、そのまま歩き始める。

「つ、連れて行くのですか?」

「見てしまったからには放置出来ない。このまま放置してたら、こいつが別の動物に襲われる可能性もあるし」

 だから近くの自宅に連れて帰って手当をしてあげるらしい。この人の方こそ、優しい人ではないか。

「そう言えば、あんたはどうしてこんな山の中にいたんだ? 女一人でいるような場所ではないと思うが」

 手を差し伸べられながら、そんな事を問われた。確かに、こちらの事情を知らない弦次さまは不思議に思っても無理はない。少しだけ躊躇った後で、覚悟を決めて伸ばされた手を握り立たせてもらう。

「水浴びに来ていたんです。短時間だし、何度も来た事があったから大事にはならないだろうと思って一人で来ていたんですけれど……」

「けれど?」

「ここへ来るのに使った、天の衣を無くしてしまって」

 そう告げた瞬間、弦次さまの目が見張った。呆れられてしまったのだろうか……と思ったが、地上の人々はそもそも天の衣の事を知っているのだろうか。

「天の衣、ご存じですか?」

「聞いた事は、ある。それがないと、帰るのは難しいか?」

「難しいですね。方法が無い訳ではないのですけれど」

「それなら、天界の知り合いと連絡を取って迎えに来てもらうとか。あんたは、天界と連絡を取る手段とか持ってないか?」

「持ってないです。そもそも、そんな仙具そうそう作れるものじゃないですし」

 天界は仙術があるから地上よりは利便性があるが、それでも出来ないものは出来ないのだ。あの義兄が、試作品とはいえ天界と地上を繋ぐ通信具を作っていた事の方が常識外れなのである。

「……あんたも一緒に来るか?」

「え?」

「俺は一人暮らしをしているが、家は広いんでな。部屋もいくつか空いているし」

「で、でも……」

「身を寄せる相手が他にいるんなら、そこまで送ってやるが」

「そんな方いないです……でも……」

 未婚の身で会ったばかりの男性の家に泊まるなんて、非常識ではないだろうか。今までの様子からは想像出来ないけれど、もしも、彼が無体を働くような人だったら……。

「不安に思う気持ちは分かるが、困ってる女に無理やり手を出すほど俺は落ちぶれちゃいない。心配しなくて大丈夫だ」

 少しだけ眉を寄せた弦次さまが、ぼそりと呟いた。彼は、こちらの心配を見透かしていたらしい。一瞬でも疑ってしまった事が申し訳なくなって、謝らなければと思うのに焦ってしまって喉がからからに乾いていく。

「そもそも、その手の類が面倒で山の中に住み始めたんだ。まぁ、それ以外の理由が無い訳でもないが」

「そ、う、だったんですね」

「それに、あんたのその色彩じゃ、麓の村に行くのもかえって危なかろう。地上じゃ仙女は珍しいから人売りに攫われる可能性もあるし、あんたみたいな美人なら、どこぞの領主が無理やり妻にしようとするかもしれない。朝廷になんて話がいけば、余計に話がこじれるだろうし」

 そう語る弦次さまの瞳が憎々しげに歪んでいて、少しだけ恐怖を感じてしまった。落ち着こうと思ってこくりと唾を飲み込むと、私の様子に気づいたらしい弦次さまの表情が落ち着いたものに戻る。

「無理強いも出来ないし俺が言うのも何だが、このままついて来てもらった方が一番安全とは思う。どうする?」

 そこまで言ってもらって、それでも断るなんて出来る訳ない。弦次さまは私を助けてくれたし、物知りだったし、冷静に状況を判断出来るだけの器量があるのだ。このまま付いていった方が得だろう。

(……いざとなれば、仙術でどうにかすれば良いし)

 私は仙女だ。地上の一般的な女性達と違って仙術が使える。それは、どうしても体格で劣ってしまう私達女性にとって結構な武器となるだろう。

「……私は仙女の桐鈴と申します。天の衣が見つかるまでの間、私を弦次さまの所に置いて頂けますか?」

「分かった。客人なんてそうそう迎えるような場所じゃないから、碌なもてなしも出来ないとは思うが」

「構いません。むしろ、置いて頂く私の方が、何かお礼をしなくてはいけないくらいですし」

「そうか……まぁ、その辺は話しながら考えよう。それじゃあ付いてきてくれるか」

 そう言って歩き出した弦次さまの背を追いながら、聞かれた事に答えていく。ようやく彼の自宅に着いた時には、日はすっかりと沈んでいた。

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