第一章 天界の花は地上の男と出逢った

(1)

 ぽん、ぽんと弦を弾く。それに合わせて旋律を乗せ、回復の祈りを込めて。痛いの、痛いの、飛んでいけ。

「……ふう、一旦休憩しよう」

 そう呟いてうーんと伸びをし、琴を弾くためにつけていた爪を外す。何とはなしに外を眺めると、陽が沈もうとしている所であった。

(……あと二か月もすれば試験が来る。順調に仕上がっているって、先生も太鼓判を押して下さった)

 仙力を込めた歌を歌う事で病や怪我を快方に導く専門家、歌癒士。私がまだ幼かった頃に、歌癒士の方が怪我を治して下さったのきっかけに憧れた。そして、私も歌癒士になりたいと言って両親に頼み込み、姉さまが通っていた専門の教室へ一緒に通わせてもらえるようになった。嬉しくて嬉しくて、夢中になって勉強した。

 しかし、正式な歌癒士になるには中央の認定試験に合格する必要がある。そして、試験は原則一定以上の年齢に達した仙人か仙女しか受けられない。

 だから、その年齢になるまでずっと待っていた。最短で受けて合格出来るように、修練に励んでいた。そして、今年の誕生日にようやく基準の年齢に達したので、意気揚々と出願し無事に受理してもらえたのだった。

「試験項目は筆記と実技。歌の種類や歌詞、医学的な知識や歴史を中心に出題されて、軽症治癒用の歌を実技で披露する事になっているけれど……」

 筆記に必要な知識も頭に叩き込んだし、伴奏の琴は目を瞑っていたって正確に弾けるくらいに練習してきた。後は、その知識と感覚を忘れないよう何度も繰り返し復習するだけだ。歌詞と旋律の暗記だけならば重症用の歌だってばっちりである。

(……未だによく分からないのは、あの歌だけね)

 小さい頃に姉さまと二人で噂を聞いた、歌癒士が歌う中でも特別な一曲。死ぬ間際の状態の人ですらあっという間に治せるくらい、強い力を持つ歌なのだという。

 元々天界では、病や怪我というものは身体と気の異常であり、身体の異常は薬湯で、気の異常は仙力を込めた歌で治すというのが一般的である。軽い症状ならばどちらかだけでも完治出来るが、症状が複雑だったり深刻だったりする時はどちらも用いる事で相乗効果を狙うのだ。

 しかしその歌は、力が強いから身体の異常すら全て回復する事が出来るのだという。そんなに凄い歌ならば、是非とも歌えるようになりたいけれども。

「使える相手が、自分が心から愛した人だけ……だもんなぁ」

 生まれてこのかた恋なんぞした事がない自分では、たとえ歌唱や伴奏、仙力の使い方を完璧に習得したとしても使えないのだ。だから気にしていても仕方がない……のだけど、気になるものは気になるし、興味が惹かれるのも止む無しだろう。

「やめやめ。今は、目前の試験を突破する事だけ考えなきゃ」

 自分の中の探求心を抑えるように、わざと大きな声に出してみる。やるべき事を蔑ろにしていては、他者の命に関わるような仕事は務まらない。

(……そうよ、類稀な才能があったが故に特別に許可が下りて最年少で歌癒士になった姉さまだって、恋を知ったのはこの一年以内の事なんだもの。焦る事はないわ)

 重ねて自分に言い聞かせ、夕飯の準備を始めるために琴を片付ける。無事完成し全て食べ終わった頃には、すっかり陽が落ちて星がきらきらと瞬いていた。


  ***


「姉さま、こっちこっち!」

 眩しそうに目を細めている姉さまへ大声で呼び掛ける。いつも以上にはしゃいでいる自覚はあるが、久しぶりに会うのだから致し方ないというものだ。

「どうしたの? 桐鈴」

「こっちの方が冷たくて気持ち良いから」

「あら、本当ね」

 姉さまは浴衣の裾を捲って足を水に浸けていた。綺麗に結ってある銀髪に差し込まれているかんざしが、しゃらんと音を立てて揺れている。

「こうやって二人で出掛けるのは何時ぶりかしら」

「姉さまが結婚してからだから、半年ぶりくらい?」

「そんなに経っていたのね。試験の準備はどう?」

「順調よ。筆記もほぼ満点に近いし、実技だって太鼓判をもらったわ」

「そうなのね。それは楽しみだわ」

「うん! まずは試験を突破出来るよう頑張るから!」

 意気込みを語ると、姉さまは嬉しそうに顔を綻ばせた。明るくて優しくて、笑顔も綺麗で容姿も整っていて歌癒士としても優秀で、妹ながら本当に出来た姉だと思う……ある一点を除いて。

「それにしても、なかなか会いにいけなくて……半年間あの家に一人で、寂しい思いをさせてしまってごめんなさいね」

「仕方ない事だもの、気にしてないわ」

 姉さまが結婚すると決まった時点で、私が実家に一人残されるなんて分かりきっていた事だ。本当の事を言えば、幼い頃からずっと一緒だった姉さまと離れるのは寂しかったけれども引き留められるものでもない。

「せめて、どっちかでも戻ってきてくれたら良いのにねぇ」

「母さまはともかく、父さまは勤めがあるんだから難しいでしょ」

「そのお勤め、もうそろそろ任期が終わる筈だから」

「でも、すぐにまた飛ばされちゃうんじゃないの」

「うーん……めぼしい場所は全部派遣されたと思うのだけど……」

 父さまは薬師としてとても有能だから、各所の立て直しを期待した天帝さまの命で地方の典薬部署へ順々に派遣されている。そのせいでいつまで経っても本来の所属である中央に帰れないままなので、父さまに付いていった母さまが繰り返し中央に戻してくれと願い出ているらしいが、人手不足を理由に断られ続けているのだとか。

「本当に……私が、もっとこまめに帰る事が出来ていれば」

「何を言っているの。姉さまは嫁いだ身なんだから、義兄さまを優先しないと。大体、私はもう子供じゃないし」

「それはそうだけど、桐鈴が私の妹だという事実は何があっても変わらないわ。いつだって気にかけて心配しているに決まっているでしょう」

「それは、素直に嬉しいけれど……」

 仕事の関係で両親共に留守がちだったから、小さい頃から私の中心は姉さまだった。何かあれば姉さま姉さまと甘えていて、何をするにも一緒で。だから、結婚が決まった時は祝福する気持ちと同じくらい行かないでほしいという気持ちもあったし、今日だって久々に二人きりで出掛けられて本当に嬉しいのだ……けれども。

「……義兄さまが面倒なのだもの」

 その一言は、姉さまには聞こえないように呟いた。私にとっては、義兄は周到な手口で姉さまを攫って不必要に束縛している嫌な奴という印象だが、姉さまにとっては自分の事を深く愛して大事にしてくれている愛しい旦那様なのだ。一日の大半を自宅で過ごすよう強要されても、姉さまの友人を家に呼ぶ事を制限されようとも、実家に帰る事すら滅多な事では許可を出さなくても、姉さまはそれを受け入れてずっと義兄の傍にいるくらいなのだから。

 そんな事をぼんやり考えていると、かちかちと何かを打ち鳴らす音が聞こえてきた。音が鳴っている方へ向かう姉さまを何とも言えない気持ちで眺めながら、私もそちらへと近づいていく。

「あなた? 大丈夫よ……少し離れた場所の方が、水が冷たくて気持ち良かったから」

 けたたましい音を鳴らしていた貝型の仙具に向かって、姉さまが話しかける。遠く離れた天界と地上での遠隔会話が可能な仙具なんて、よくもまぁ作れたものだ。

(……才能の無駄遣いって、こういう事を言うんでしょうね)

 義兄は仙具を開発している部署で働いているから、実に様々な仙具をこの世に生み出している。仙術を覚えたての幼子が簡単に使えるようなものから複雑な仙術に使うような緻密な物まで幅広く開発しているので、中央の中では有名な人らしい。

 だからこそ、地方派遣の合間に中央に訪れていた父さまに近づいて姉さまとの見合いの席を準備し、一回会った後は絶対に逃さないとばかりに外堀を埋めて囲い込んで姉さまの心まで掴んで……ふつふつと恨みがましい気持ちまで湧き上がってきたので、大きく息を吸って深呼吸した。私の中の感情がどうあれ、姉さまはもうあの義兄の妻なのだ。本人同士で納得がいっているなら、悔しいけれども口を挟む権利などない。

「話は終わったの?」

「ええ。私の仙力が感知出来なくなったから呼び出したみたい」

「……そう」

「私も桐鈴も大人なのに……心配性で困っちゃうわ」

「あれを心配性の一言で済ませて良いのか微妙だけど……」

 今日の水浴びも、元々は私だけで行くつもりだったのだ。だけど、姉さまが久々だから私も一緒に行きたいと言い出した。私としては大歓迎だったので早速行こうと言ったのだが、一応伝えておくと言って義兄に話したら相当渋られたらしい。

『どうしても……どうしても行くと言うのなら、今からそっちに転送する仙具を全部持って行って』

 姉さまが粘りに粘って何とか許可はもぎ取れたらしいが、義兄はそう言うや否や地上とでも会話出来るような特殊な仙具やら登録された仙力を感知出来る仙具、大型動物や盗賊なんかを一瞬で撃退する術を埋め込んだ仙具等々の多種多様な仙具を転送してきた。ざっと見ても十数個はあったと思う。

 送られてきた仙具の量に引いて言葉を失っている私の横で、姉さまはぱちぱちと青い目を瞬かせていた。そして、仙具の一つを手に取って眺めながら――。

『こんなに沢山だと持って行くの大変だから、纏められるような袋も送ってくれる?』

 事も無げに、そう言った。横で唖然としている私の事を、不思議そうに眺めていたくらいだった。 

 そして、その後すぐに送られてきた袋は青を基調に銀の模様が入った巾着袋。何か既視感があるなと思った瞬間、義兄と姉さまの髪色だと気づいて胸やけを起こすかと思った。

「でも、ここまでの事をして下さるなんて、私の事をとても大切に想って下さっているからでしょう?」

「……まぁ、そうね」

 そういう純粋な愛情も確かにあるのだろうが、絶対にそれだけではないだろう。隠し切れていない束縛的なほの暗い感情も見えるからこそ、外野である私はそうまで盲目になり切れないのだ。

「彼は、初めて君を見掛けた時に一目惚れした、絶対に君と結婚したいと思ったから君の父君に娘御と見合いをしたいと申し入れたっておっしゃっていたけれど、私の方は……最初は、綺麗なお方としか思わなかったのよね」

「そうだったわね」

 中身はさておき、義兄の外見は確かに美形の部類に入ると思う。長身で青い長髪はきちんと手入れされていて、顔の作りも整っている方だ。加えてそれなりの名家の嫡男で中央政府の役人なので、身分も仕事も安定している。諸々に目を瞑るか気にならない度量があるならば、客観的に見ても結婚相手として悪くない方だろう。

 だけど、姉さまはそれまでずっと歌癒士の仕事一筋だったから、およそ恋愛事とは無縁の生活を送っていた。求婚の手紙自体は家に沢山届けられていたけれども、手紙の山を見る度に困ったような表情で溜め息をついていた。ある時は、過去の患者にしつこく言い寄られたとかで怖い思いもしたそうだ。だから……男性は正直苦手なのよねとすら言っていた。

 なので、当時義兄との見合いが決まった時も、気乗りしないと言って落ち込んでいたのに。帰ってきた姉さまを労わるべくお茶を淹れて、いざ見合い相手当人に会ってみた感想を聞いたら……綺麗なお方だったわ、と言われたので凄く驚いたのだ。

「ね。でも、何度か会ってお話ししていく内にあの方の凄さとか愛情深さが分かって、だんだんと心を傾けるようになったのよね」

「そうだったわね……」

 義兄は、姉さまには蕩けるような甘い言葉を吐き壊れやすい宝玉のように接していた半面、姉さまの唯一の枷であった私には大分冷淡だった。それは、今でも変わらない。

『君達の実家を空ける訳にはいかないから、当然君はあの家に残るんだよね? 付いてこられても困るよ?』

『麗鈴が妹である君を大事にしているのは重々承知だけれど、結婚した後は僕の妻であるという立場が最優先だからね』

『君達がもっと年の近い姉妹だったのなら、麗鈴の心配も減っただろうにね』

 姉さまのいない場所で、ちくちくと言われた言葉は数知れず。不愉快極まりなかったのは確かだったけれども……義兄に会う毎に姉さまが綺麗になっていって、義兄の話をする度に幸せそうに嬉しそうにしていたから、表立って反対はしなかったのだ。

「あのね、桐鈴。あの方にはまだ内緒にしていてほしいのだけれど」

「うん、何?」

「私、きっと……あの方相手になら歌えると思って、例の特別な一曲を練習中なの」

「……え」

 刹那、硝子が割れたような音が聞こえてきた気がした。頬を染めている姉さまとは裏腹に、私の血の気は引いていく。

「歌そのものは違えず歌えるようになったし、仙力の込め方も一通り習ったわ。伴奏も覚えたから、後は練習を重ねて精度を高めていくだけ」

「そこまで、もう」

「ええ。勿論、実際にその歌を歌う……となると、あの方が苦しんでいるって事になるから想像するだけで辛いけれど。でもね、そんな時に助けられてこそあの人の妻じゃないって思って」

 ふわりと花のように微笑む姉さまからそう告げられ、冷や水を浴びせられた心地になった。結婚して相手を愛した以上は、そうなる可能性も十分考えられたけれど。

「……姉さまは、心から愛する人を見つけたのね」

「ええ。でも、いずれ、貴女も見つけると思うわ」

「そうかしら……想像がつかないけど」

「私が保証する。だって、桐鈴は私の可愛い可愛い妹だもの!」

 拳を握り込んで力説してくれた姉さまに、何とか笑みを返す。天界に戻った後も、言いようのない重苦しさがずっと胸の中に残っていた。

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