(3)

「一旦休憩しましょう。半刻後に再開するので、その間に体をほぐしたり水分や軽食を取ったりなさい」

「分かりました」

 試験の直前講習ばりの徹底指導に、必死に食らいつくこと三刻。漸く一通りの仙力の練り方を掴んだので、後は精度を高めていく段階に入った。やっぱり貴女達姉妹は優秀ね。そう顔を綻ばせた先生の言葉を聞いて、喜びとも憂いとも言えぬ思いが胸中を渦巻いていく。

(姉さまが、私の身を案じて心配してくれているがゆえに、反対しているのは分かっている。だけど……姉さまにだって恋しい相手がいるのだから、少しくらい私の気持ちを分かってくれても良いのに)

 今やるのは無謀だから準備を整えて万全を期してから行うべきだ、という考えは理解出来る。私だって、時間があるとか弦次さま以外が相手とかならば、迷わずそっちの慎重策を取った。私達が扱うのは命というとても重いものだから、僅かの間違いだって許されない。その理屈は、歌癒士という医療者になった以上理解しているつもりだ。

 だから、本当ならば教えを乞うのではなくて、彼を助けてくれとお願いするべきだったのだろう。私の好きな人を助けて下さいって頼った方が、弦次さまの治療は良い方向に向かったのかもしれない。だけど。

 どうしても、それが出来なかった。大好きだからこそ、私の手で彼の意識を取り戻して快方へと導きたかった。それは愛情からくる願いかもしれないけれど、愛情が強い故に冷静な判断が出来なくなっているとも言える考えだ。

 そんな偏った思考で身を滅ぼした仲間や助けられなかった患者を見てきたからこそ、姉さまは反対しているのかもしれない。そう考えるのならば……私が今やろうとしている事は、やはり間違っているという事なのだろうか。

(……だめよ、桐鈴。どんな経緯や理由であれ、こうすると決めたのならばまずは突き進まなきゃ)

 思考が鬱々としてきたので、頭を振って追い出した。必要に応じての振り返りや修正は必要だが、気弱だけを理由に根本的な目的を折ってしまうのはいけない。手法や目的を変えるべき時なのは、全力で頑張ってもどうにもならなかった時や生命の危機だけだ。まだやりきっていないし、現状弦次さまは小康状態なのだから、その前に諦めては意味がない。

「もうそろそろ再開しましょう。準備は良いですか?」

「大丈夫です。お願いします!」

 先生に呼び掛けられたので、返事をして琴の前に戻った。言われる通りに旋律を歌い伴奏を弾き、仙力を練る。時折中断して指導が入って、また続きを演奏して。それを何度も繰り返している最中に、教室の入り口が騒がしくなった。

「ちょっと様子を見てきます。貴女は今までの指導のおさらいを」

「はい」

 返事をして、先生の背中を見送った。気を取り直して、指導内容の覚え書きを確認し実際に指を動かして歌っていく。一通り終わっても先生はまだ戻ってこなかったので、もう一度伴奏と旋律だけを練習していたのだけれども……それが終わってもまだ、先生は戻ってこなかった。

(大丈夫かな……様子を確認しに行ってみようかしら)

 単に旧知が訪ねてきて談笑しているだけというのならば良いのだけれども、何か困った事態が起こっているというのならば問題だ。念のために、姿隠しの術を自分に掛けてからそうっと部屋を出て入口の方へと向かった。

(……まさか、この声)

 入口に近づいていくにつれて、話す声が鮮明になっていく。聞き覚えがある、けれど本来ここにいる筈のないその声を聞いて、じわりと背中に冷や汗が伝ったのが分かった。

「どうして止めて下さらなかったんですか! あの子には、まだあの歌は早すぎます!」

「そんなのは承知の上ですよ。それでもあの子は引かなかったから、勝機があると思って教える事にしたんです」

「先生は桐鈴が大事ではないのですか!」

「大事だからこそ、本気で学びたいというあの子の思いに応えたんですよ」

「そんなの詭弁です! 生徒が身の程を知らない無茶をしようとしているならば、止めるのが指導者でしょう!」

「ちょっと落ち着きなさい、麗鈴。何がそんなに不満なの」

「私は、妹に苦しい思いや辛い思いをしてほしくないだけです!」

 言い合っている二人を見て、居てもたってもいられなくなった。術を解いて、先生を庇うようにして二人の間に割り込む。

「姉さま! 先生は何も悪くないわ!」

「桐鈴!」

 少しだけ高い位置にある、青い瞳を睨むように見上げる。私を見下ろす姉さまの表情には、ありありと怒りの感情が浮かんでいた。


  ***


「言ったわよね? くれぐれも早まらないように、自分の力量を見誤るような愚行だけはしないようにって!」

「……じゃあ、姉さまは今の私と同じ立場だったならば、義兄さまの治療を別の人に預けたの?」

「当たり前でしょう? あの方が生きて元気になるのが肝心なのよ。その大義の前ならば、私の自尊心なんて掃いて捨てるわ」

「それで悔しくないの? 自分の愛する人を、自分の専門分野で、自分以外の人に預けるなんて!」

「悔しいかどうかなんて問題じゃないのよ! 真にあの人を想うならば、あの人に生きていてほしいと願うならば、きちんと自分の力不足を認めて出来る人に任せるべきなの!」

「それなら、姉さまは私が弦次さまを助けてってお願いしたら助けてくれたの!?」

 我慢ならなくてそう叫ぶと、姉さまはぐっと押し黙った。気難しそうな表情が、何よりも姉さまの否を映している。

「姉さまは弦次さまが、弦次さまを好きな私が気に入らないだけでしょ! 気に入らないから助ける義理なんてない、私が助けに行くのも嫌だって、そう思ってるだけなんだわ! 自分の感情で助けるか否かを決めるなんて、それでも医療人なの!?」

 全部が全部そうとは思っていないだろうけれど、奥底にそんな感情があったから、ここまで反対しているのでは。そんな感情をぶつけると、姉さまの青い瞳が大きく見開いた。唇がわなわなと震えてだして、両手が固く握られる。

「これ以上私に口出ししないで! 私はもう子供じゃない!」

 拒絶の言葉を投げつけて、こうなったら絶対に成し遂げてやると固く心に誓いながら踵を返す。歩き出そうとしたその瞬間、何かに私の頭が掴まれた。

「……そう、そういう、事」

「な、何?」

「自分を顧みない捨て身の愛を抱いたのは、それの所為ね」

「何を、言って」

「貴女がそこまでその男に執着するのは、その呪具が理由ね!」

 めったに聞かない、姉さまの本気の怒鳴り声。あまりの気迫と呪具という言葉に驚いて、一瞬だけ足が竦んでしまった。その隙を逃さずに、姉さまは私がつけていたかんざしを乱暴に引き抜いてしまう。

「何するの! 返して、姉さま!」

「その男人間だと思っていたけれど、実際は妖怪だったのかしら。ああ、でも、人間でも妖術を使える奴はいるものね……どのみち、貴女は誑かされていたという訳よ」

「馬鹿な事言わないで! 私は術なんてかけられてない!」

「それはこれから分かる事。こんなの燃やしてやる!」

 姉さまがそう叫んでかんざしを持っていた手を握ったのと同時に、手の中が赤く光った。そして、入り口の扉を開けて握っていた物を外に放る。

「あ……」

 投げ捨てられたかんざしが、勢いよく燃えている。あの人が、弦次さまが私にくれた大切な贈り物。その気遣いが嬉しくて、贈り物を貰った事が嬉しくて、外ならぬ彼から贈られたのが嬉しくて。毎日磨いて手入れをして、その重みが幸せだった。

「そ、そんな……」

 花に纏わりついている炎が、ごうごうと音を立てている。この想いを責めるかのように、この愛が間違いだと言うかのように。

(いいえ、そんな訳ない!)

 そんな衝動のままに、その場を駆け出した。姉さまの脇をすり抜けて外に出て、憎く燃える炎に手を伸ばす。

「何をしているの!?」

 焦っているらしい姉さまの声は、耳を擦り抜けていった。ただただ私の脳裏にあったのは、あの人からの贈り物を守るんだという願いだけ。

「離して! あのままじゃ燃え尽きちゃう!」

「あんなもの貴女には必要ないわ!」

「弦次さまからの贈り物を、あんなものなんて呼ばないで!」

 私の腕を掴んで止めてくる姉さまを振り切って、燃え盛る花に手を伸ばした。必死に炎を消そうとするのに、さらに燃え上がってそんな努力をあざ笑う。すごくすごく熱くて私の手まで燃えていきそうだったけれど、構っていられなかった。

 けれども……そんな私の努力は届かずに終わる。かんざしは空しく燃え尽き、見るも無残な灰に成り果てていた。

「これで目が覚めたでしょう。それじゃ、あの歌を覚えるなんて馬鹿な事は忘れて初回の研修の準備を」

「う、う……」

「桐鈴? どうしたの?」

「う……うわああああああああん!!」

 ただただ悲しかった。悔しかった。あの人から貰った花を守れなかったのが。失ってしまったのが。もう二度と戻らない私の大切なかんざし。初めて愛した、ずっと傍にいたいと願って、絶対に助けると誓った最愛の人が、私の為に贈ってくれた愛の花。こんなにもあっけなく、失ってしまうなんて。

「姉さまの馬鹿! 何て事してくれたのよ!」

 衝動のままに、姉さまの胸元を掴んで揺さぶった。驚いたような表情を浮かべた姉さまは、はっと我に返って私を睨みつける。

「ば……馬鹿はどちらよ! そんな下心だらけの下賤な男に、大事な妹を奪われてたまるものですか!」

「いくら姉さまでも、弦次さまを馬鹿にするのだけは許さないわ!」

「どうして!? どうして、呪具を絶ったのに、まだそんな事を」

「んー。それは、あのかんざしが呪具じゃなかったからじゃない?」

 突如、この場にそぐわない間延びした声が響いた。慌ててそちらの方を振り向いて確認すると、そこにいたのは青い髪を緩く縛った執務服姿の長身の男。

「義兄さま?」

「あなた!」

 どうしてこんなところに図ったように、と訝しむ私の横をすり抜けて姉さまが義兄さまに文字通り飛びついた。義兄さまは、そんな姉さまの体を優しく抱き込んであやすように銀の頭を撫でている。

(……ん?)

 義兄の手元をよくよく見ると、見慣れない着物を一着持っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る