信じてくれた人が、いるから

「僕」は25歳の青年。仕事の関係で、幼いころに過ごした街へと戻ってきた。そこは山の中腹、近くの建物はあまり多くなさそうだ。僕はぼんやりと、「今」というものに諦念を覚えている。そんなある日、僕は展望台に一人の女性の姿を見つけた。彼女は僕に、狐が降るのを待っているのだと言った――。

この作品は非常にものがなしく、センチメンタルな側面をもっています。叙情的な文体が主人公のもつ諦念によく似合っています。しかしながら本作は、作者のなかの「生」の部分が前面に出た作品、すなわち生きる力を感じさせてくれる短編に仕上がっていると感じました。
もともと生と死というのは表裏の関係なのですが、各作品においてどちらにフォーカスするかというのは、これは作者の狙いに従ったものになります。本作で、僕と女性は「ある決断」をしませんでした。少し間違えば「ある決断」に至っていた可能性もあります。しかし「ある決断をしなかった」という事実が、僕の胸のなかに種火を点します。

本作の前半部では、僕は現在について語ります。今こういう暮らしをしていて、目の前の人(=女性)に対してなにを思っているか。これは現在の語りです。一方後半部では、僕は過去について語るようになります。これは、作品内における僕の変化ではないかと思うのです。もしかすると前半部の僕は、過去を「語らない」のではなく、「語れな」かったのではないでしょうか。だけど、僕を信じてくれた人が、いるから、僕はかつてたしかに存在した時間を語ることができるようになったと思うのです。
それは強烈な「生」の感覚です。私が思う「生」とは全てがベストに回る時間のことではありません。様々な表情を見せてくれる時間のなかで、自分がここにいること、自分をとりまくものを楽しもうという態度ではないかと考えているのです。プラスの状況においても、マイナスの状況においてもです(さらに加えれば、中間の状況においても)。この物語における「僕」は、過去に抱いた希望に現状が敵わないと認めつつも現在を生きていこうと決意します。時間に潔癖を求めるのではない。この楽観性こそが、「生」の本質の一つではないかと思うわけです。

ところでこの作品における「狐」とは、さらに言えば「女性」とはなんだったのでしょうか。まず本編を読んでいただければ、狐と女性がどういう役割を担っていたかがわかると思います。しかしながら、解釈は別です。読者に委ねられています。一義的な正解はありません。僕が見、そして話したモノはなんだったのか。これに対して、私の解釈を(抽象的にですが)述べて、後は皆様の解釈に委ねたいと思います。

私はこの「狐」を「過去」であると捉えました。うつくしく、空の彼方に弾ける猩々緋。私たちが「あのころはよかったなぁ」と覚えるアレです。過去がうつくしい姿のまま、僕の目の前に現われるわけです。僕が過去に後悔を覚えていたから、狐を呼び寄せたのかもしれません。そして過去への後悔は、時間が経つとともに人間のなかで昇華されていきます。そのワンカットが、本作のクライマックスだったのではないかと感じるわけです。

繰り返しますが、本作は叙情的ながら強いエネルギーを秘めた一作です。あなたのきつねはなびはなんですか。「過去」は今のあなたを信じてくれています。信じて、送り出してくれたのです。だから「過去」に申し訳なさを覚える必要など、一つもないのです。

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