狐降る夕、君を想ふ
夢見里 龍
狐降る夕、君を想ふ
「今晩あたり、狐が降るかとおもって」
風鈴がそよぐように彼女はいった。
さわやかな笑顔もそのままに。午後からは雨が降りだすみたいですよと世間話をするのとなにも違わない口調で――今晩、狐が降ると。
たちの悪い冗談めいた予報と清純なはにかみとがどうにも結びつかず、ぽかんと間の抜けた沈黙を挿んでから訊きかえす。
「…………狐、ですか」
「はい、そうです、狐が」
繰りかえされるその言葉に僕は、それこそ狐にでもつままれたように「はあ」と首を捻る。
困りきった僕の眉をなぜつけるように風が吹いた。つんと、なにかを燃やしたような、それでいてどこか郷愁を誘うにおいが鼻さきをかすめていった。何処かで嗅いだことのある、これはなんのにおいだったのか。
想いだすには僕はあまりにも、おとなになってしまっていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
いつからだろうか。
夏が繰りかえし、巡ってくるようになったのは。
子どもの頃は毎年新しい夏がやってきた。おんなじ夏は一度きりだった。いまとなっては去年の夏も今年の夏もかわり映えのしない、いつもの夏だ。
僕の勤務している職場は山の中腹にある。
六畳一間の安アパートからは車で十五分。曲がりくねった峠の県道をつかって通勤している。道幅は車がぎりぎりすれ違えるかどうかといった程度で、台風などで天候が荒れると崖崩れに巻きこまれるのではないかと心許なくなる。山間には渓流に渡された大きな橋があり、そのたもとには山景を眺望する駐車場が設けられていた。もっともこんな観光地でもないところに展望台駐車場などあっても正直経費の無駄としかいいようがなく、十台ほどが停車できるその土地に車を見掛けたことはなかったし、僕も車を停めてゆったりと風景を眺めるなんて考えたこともなかった。
そんな峠の往復が二十五歳になった僕のほとんどすべてだった。
これといって現状に不満があるわけじゃない。ただ、こんなものかという諦めがあった。頭にぼんやりと厚い雲が掛かっているような。
幼い頃はこうじゃなかった。おとなになれば、いろんなことができるようになるものだとおもっていた。誰にも頼らなくとも遠いところまでいけて、宿題なんかせずにやりたいことができて。けれど実際におとなになって、ふと気がつけばできないことばかりが増えていた。
叶わない夢を語ることができなくなった。夏を感じることもできなくなった。雲のかたちをなにかに例えることもできなくなった。
空を仰がなくなった。
あの頃を、想いださなくなった。
六時に仕事を終えた僕は、いつもどおり峠道を走り家路を急いでいた。家に帰ったら久し振りに掃除をしないと。洗濯も溜まっていたはずだ。そんなことを考えながら駐車場の脇を通りすぎようとした僕の視界の隅でふわりと、透きとおるような白が揺れた。
吸い寄せられるように視線をむければ、展望台の柵にもたれかかるようにして、白い生地のワンピースをまとった女のひとがたたずんでいた。ひとつに結わえた髪が華奢な背でゆらゆらと風になびいている。
いったい、あんなところでなにをしているんだろうか。
気を取られているうちに車がカーブに差し掛かり、慌ててハンドルを握りなおす。駐車場を通りすぎてから、あらためて考える。風景を眺めにきたとか? だとすれば写真家か、あるいは画家だろうか。それにしては三脚も画材も側に見当たらなかった。そもそも車がないのだ。まさか自殺でもするつもりじゃないだろうな――そこまで考えて、ひどい胸騒ぎがした。放ってはおけず、道路の幅があるところを捜してから車をまわして、とっさに橋の側にまで引きかえす。
彼女はまだ、そこにいた。
宵の帳が拡がりはじめて青紫がかった黄昏に、ぽうと白が映えていた。そこだけ、火がともったみたいに明るい。車から降りて、なにをしているんですかと声を掛けてみる。彼女が振りかえった。
薄絹めいた黄昏の帳のなかにぬばたまの髪が拡がる。胡桃のかたちをしたまるい瞳が僕を映す。瞳の両端にある、なきぼくろが何処か幼けない。視線が重なっただけなのに、ただそれだけで親しみを感じそうになる。彼女は見張った瞳をすぐに細め、朗らかにはにかんだ。
あ、しまったなとおもった。杞憂だった。こんなふうに明るい笑いかたをするひとが僕が想像したような不穏なことを考えているはずがない。さて、どう言い訳をしようかとおもったのがさきか、彼女はいった。
「今晩あたり、狐が降るかとおもって」
「…………狐、ですか」
戸惑いを隠せない僕に彼女はあたりまえのように続ける。
「はい、そうです、狐が――例年だとそろそろ降ってくる頃あいなんですけど。今夏の狐はちょっとばかりお寝坊さんみたいで……あ、よろしければご一緒にどうですか」
にっこりと誘いかけられて、あいまいに視線を泳がせた。
狐なんて降るはずがない。にわか雨のことを狐の嫁入りということはあるが、激しい雨なんか降ってきたらそれはそれで峠を抜けて帰るのが面倒になる。
断ろう。
「はあ、いや、僕は」
「そんなにお時間は取りませんから」
腕を握られて、どきりと脈がはねる。細い指が縋りつくみたいに汗ばんだ僕の肌に絡みついてきた。こんなに細いのにとがった印象はなく、ひたすらに柔い。無理に振りほどいたら、ほろほろと壊れてしまうのではないかとおもうくらいに。こちらをじっと覗きこむ彼女の瞳は黄昏を映して、あまやかに潤んでいた。
放ってはおけないきもちになって、とっさに頷いてしまう。
「よかった。誰かと一緒に狐が降るところをみたかったから、嬉しい」
なきぼくろに薄い影があつまって、まだ眠たい黄昏どきの星みたいだ。前触れもなく、胸がざわついた。僕の知っているひとにもあんなふうにふたつ、愛らしいなきぼくろがあった。けれどそれが誰だったか、なぜだか僕は想いだせない。
「あの、何処かで遇ったことがありませんでしたか」
僕の腕をつかむ指さきから一瞬、微かな動揺がつたわってきた。雨垂れがひとつ青葉に滴るのにも似た、細かな震え。けれども無防備な戸惑いは続かなかった。彼女はいたずらっぽく唇を綻ばせる。頬にちいさなえくぼができた。
「ふふふ、それならきっと、想いだしてくださいね」
首を傾げて、薄らと紅の施された唇に人差し指を寄せる。幼い内緒話でもするみたいに。ちくりとまた胸の片隅が軋んだ。けれど感傷の尻尾が、僕にはやっぱりつかめない。
それきり彼女は黙ってしまった。
遠くに瞳を馳せて黄昏を眺めている。何度か他愛のないことを喋りかけてみたが彼女がいっこうに振りむかないので、諦めてこちらも風景に視線を移す。青屏風めいた夏の山懐に熟れた
夕映えに
僕はもともと、地元の出身ではない。
中一のときに親の転勤でこの町にきて、ひと夏、暮らしたことがあるだけだ。あの夏は僕にとって特別な夏だった。雑草だらけのでこぼこ
夏祭り。頭の端でゆらりと、ゆかたの袖が燃えるみたいに揺れる。
髪をひとつに結わえた、可愛らしいおんなのこ。僕の腕をつかんで――ころころと鈴を転がすようにわらいながら。
「――――きつねはなび、やろうよ」
その袖のさきにいたのが、誰だったのか――けむりにでも巻かれているかのように想いだせない。
思索をうちきって、隣をみる。いつからか彼女も僕のことを見つめていたのか、視線がぶつかり、慌てて顔を背けられた。絵筆で払ったようにかっと頬に紅が差したのはきっと夕映えのせいだ。
今年は昨年に続いて夏祭りがないんだったか。やっていたからといって、いまさら夏祭りにうかれて出掛けるつもりはないけれど、むしょうに寂しくなった。
けっきょく夏の終わりには、僕は父親の異動で都会に戻ることになった。
そうして十年の時が経ってまたこの町に引越してきたのは昔を懐かしんだわけではなく、就職した会社の都合という非常につまらない事情で――つまりは、偶然だ。子どもの頃は遊び場だらけだった山も川も森もいまとなってはただの風景で、季節は一から十二までの数字になった。日常の些細な不便ばかりが気に掛かって、あんなに胸を弾ませて通いつめた場所にも出掛けなくなっていた。
うす紫がかった青の帳にほたりと、なにかが流れた。
「ほら、始まったみたいですよ」
強い風が吹きあげて、彼女の声がやけに遠く聴こえる。一瞬だけ漂ったあの懐かしい香りに気をむける暇もなく、瞳が、天に吸いこまれた。
紫に暮れなずむ空にひとつ、またひとつと火が垂れるように黄金のひかりが横ぎった。それは瞬くうちに群となる。
火の群。流れ星というには低すぎる。
「……狐だ」
それらはあきらかに狐のかたちをしていた。
ゆらりと、雅やかにたなびいた尻尾を燃やして――狐が降る。青い影絵になった山の線をしゃなりと跨ぎ、白浪うつように狐たちはひかりをくゆらせた。黄金の火がほたりほたりと渓にくだり、ひと際あかるく照っては燃えつきていく。
「きつねはなびみたいだ……」
想わず懐かしい言葉が溢れた。
きつねはなび。そう、あの
あの晩――お祭りをめいっぱいに楽しんで、そろそろ帰ろうかというときにあの娘は僕の腕を引っ張って神社の裏に連れていった。ここは稲荷神社の分社だから境内には狛狗ではなくお狐さまの像がある。後ろ脚をぴんと後ろに伸ばして何処か高いところから降りてきたみたいなポーズをしている。彼女はそんな狐の側の石段に腰掛けて、ゆかたの袖からなにを取りだした。
「おとうさんとおかあさんには内緒だよ?」
それは線香花火と、おそらくは家から盗んできたのであろうライターだった。人差し指を口もとに添えて、彼女はきゅうと瞳を細める。
「ほら、いっこずつ、火をつけるよ……落とさないようにね」
お狐さまの影に隠れてふたりきりで燃やした線香花火はなんだか特別で――火薬のにおいと草いきれとがまざりあって、噎せかえるような夏のかおりがした。
遠くから聴こえてくる祭りの喧騒が、僕たちの側に横たわる静寂を逆にくっきりと浮き彫りにする。ぬるんだ水みたいな、心地のいい沈黙。彼女の浅い呼吸が耳たぶに触れては離れていく。
はなびをみている振りをして隣を覗えば、火が細かく弾ける度に瞬く、彼女の瞳があった。そうだ。その果物みたいな瞳に映るひかりが、僕はなによりも美しいと想ったのだった。
「後はひとつだけだね」
最後の線香花火はふたりで一緒に摘まんで、火をつけた。まるまると豊かに膨らんだ火の珠がぽとんと落ちる一瞬、ひと際眩しく火が燃える。
すっかりと忘れてしまっていたあの娘の横顔が、記憶の闇なかに浮かびあがった。
季節はずれの雪みたいな白い肌に柔らかなほっぺた。幼くとも男とは違うんだとわかる、まるい肩。髪をきゅっと結わえた細い項。ふたつの瞳を飾る星屑のような、なみだぼくろ。
彼女は僕の、はつ恋だった。
「きみは……鈴ちゃん?」
降りしきる狐を仰いでいた女のひとがこちらをみて、嬉しそうにわらった。
「よかった、想いだしてもらえて」
なんで、忘れていたんだろう。あんなに好きだったのに。
想いかえせば僕の腕をつかんで、夏を教えてくれたのはいつだって鈴ちゃんだった。「蝉を捜しにいこうよ」「郭公の卵があったんだよ」なんていいながら、なかば強引に僕を引っ張っていく小さな手。面倒だなとおもうこともあったけれど、その瞳があんまりに楽しそうに弾んでいるから、僕はついつい彼女に連れられていってしまうのだった。
けれども夏は永遠には続かない。楽しかった夏が終わって秋風の吹きはじめる頃に僕たちはさよならをした。父さんの転勤で都会に戻らないと――僕の言葉に鈴ちゃんはそっかといったきり、うつむいて黙りこんでしまった。夏よりも長くなった服の袖をきつく、しわくちゃになるほど握り締めて。
僕はたまらず、小指を差しだした。
また逢いにくるよ――そういって確かに指と指を絡めたのに、それきり彼女と逢うことはなかった。
「約束してくれたよね。また逢いにくるよって。だからわたし、ずっと待ってたんだよ」
「ごめん……なんでだろ、ずっと忘れてて」
すっかりとおとなになった鈴ちゃんは背もすらりとして、熟したあんずみたいな口紅がよく似あっていた。でも照れながらはにかむ瞳は子どもの頃とまるで一緒だ。気まずくて項を掻きながら、頭の片隅ではなにか、とても重要なことがもうひとつ想いだせていないと叫んでいる。はつ恋の女のひとと再会できて、それだけでいい。嬉しいはずなのに。なんとも言葉にできない気持ち悪さに急きたてられる。
「いいの、だってちゃんと最後に想いだしてくれたから。……この夏がね、最後だったの」
「最後……」
「ほんとはもう、わたしの番だったから」
瞳のなかに狐が映って、きらきらと燃える。
ほたり。縮れて、いまにも燃えつきそうになりながらも
鈴ちゃんは――亡くなったのだということを。
夏が間近にせまる雨の季節だった。またねといって手を振った、そのたった九カ月後だった。
鈴ちゃんは持病が悪化して急死したとの
けれどそれは僕があまりもばかで、気がつかなかっただけなんだ。
夏にあれだけ日に晒されて、ちっとも灼けない青白い肌。生き急ぐみたいにあれもこれもと夏を楽しもうとする瞳。
あれが最後の夏だったのだと、鈴ちゃんの両親はいった。安静にして延命できたとしても一年くらい。それだったら、めいっぱいに最後の夏を楽しませてあげたかった――鈴と遊んでくれて、ありがとう。
お葬式のときに鈴ちゃんの両親はそういって、なみだぐんでいた。
なのに、いま、おとなになった鈴ちゃんが僕の腕をつかんでいる。きつねはなびに誘ったときと同じ幼い瞳でわらいながら。
「ね、一緒にいこうよ」
鈴ちゃんはあの遠い夏の日みたく、ちからいっぱいに僕の腕を引っ張った。瞳を縁取るようにならんだ、なみだぼくろがきらりと
ああ、鈴ちゃんはさみしかったんだなと、僕はいまさらながらにおもった。最後の夏。彼女はどんな想いで駈けぬけたのだろうか、僕の手を繋いで。どんな想いであのとき、指きりを結んだのだろうか。
強く、ひき寄せられるがままに僕は、彼女の側に踏みだそうとする。踏んではいけない境界線が、そこにあることを知りながら、それでも。
「なんてね」
ぷつんと。
細い糸を絶つみたいに彼女は、絡めていた指をほどいた。
「鈴ちゃん――……」
鈴ちゃんはいつのまにか、火の燃えたつような
祭りの晩に着てくれたあのゆかた、だ。身丈のあわないゆかたのすそから白い素脚を惜しげもなく晒して、彼女は駈けだす。突然に腕を放された僕はたたらを踏んで転びそうになりながらも遠ざかる袖をつかもうとした。
けれども彼女はするりと、いともかんたんに僕の腕をすり抜けてしまう。
そうだった。僕はいつだって君に腕をつかまれ、引っ張られる側で――君が手を放したいま、僕はぜったいにその背中には追いつけない。追いつけるはずがない。
「わすれてもいいよ、わたしのこと」
すそを跳ねあげながら軽く踏みだした裸足のつまさきから、ごうと焔が燃えさかった。焔はあっというまに細い脚を取りまく。紅いゆかたの袖がひらひらとつむじ風をはらんで拡がった。錆びた柵を軽々と乗り越えて、彼女は一度だけ振りかえる。
目映いくらいに瞬く、まるい瞳。いまにもぽとりと、こぼれ落ちてしまいそうな火の珠が重なる。
「でも、また、想いだして」
はなびが咲いた。
紅い絹をちぎれんばかりに風になびかせて、彼女は弾けるように暮れなずむ空に舞いあがる。脚だけではなく、ひとつに結わえた髪までもがごうと燃えあがった。灼然ときらめきながら、彼女は緩やかに袖を振る。袖のたもとから散った細かな火が、紫から青に移ろいはじめた
ああ、
ぼう然と振り仰ぎながら僕は頬に熱い雫が流れるのを感じていた。
遠ざかっていくその背を、二度とは追い掛けていけない、その哀しみ。喪われたいのちにたいする悼み――けれどもそれだけじゃない、それだけじゃなかった。せわしない日常に惑わされて久しく想いだすことのなかった、とてもあどけない感動。
それがいま、僕の胸を震わせて、やまなかった。
天
地平線のふちにほたりと、落ちた。
等しく、やさしさを施すように夜が訪れる。
狐の群が降りやんで静まりかえった群青の帳にひとつふたつと、銀星があがりはじめた。遠く峰々のかなたではまだちりちりと細い火が燃えのこっていたが、じきに宵闇の蓋いが被さるだろう。何処からともなく聴こえてくる蜩の喧騒。ぜんぶが夢か、まぼろしだったといいたげに、真夏の夜が降りてきた。
けれども濡れた頬をなぜていく風はまだ何処か、煙たくて。僕は胸いっぱいに夏のにおいを吸いこむ。こんなふうに息を吸ったのはいつ振りだろうか。胸のなかに蝉しぐれと、草いきれと、ひと握りのさみしさが充ちる。
今度の休暇には、きつねはなびをしよう。きっとあの頃みたいにうまくはできないけれど。
ぽってりとまるくなった火の珠を最後まで、落とさないように。
夏を捜そう。
きっと、二度とは、巡ってこない夏を。
狐降る夕、君を想ふ 夢見里 龍 @yumeariki
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