狐が降るってなんだろう?
わたしの中の夢見里さんの作品といえば、絵画のような美しい、圧倒的描写力です。
写真を真実を切り取るものだとするならば、夢見里さんが書くお話は本当に絵画。リアルを飛び越えて、想像力にダイレクトに映像を与えてくれます。
それがとても美しくてたまらないのです。
今回も例に漏れず、引き込まれました。
現実に戻らずずっと浸っていたい……おっと、失礼しました。
海無し県陸の孤島住まいとして、想像しやすい蛇が横たわってるかのような山のぐねぐね道。そこを歩く白いワンピースの女の子。主人公の嫌な予感、とても気持ちがわかります。
そして、狐が降るというキーワード。
線香花火。曼珠沙華。
ストーリーの全容が見えたときの寂しさ。切なさ。
心揺さぶられました。
素敵な作品をありがとうございました!
夏になったら、また鈴ちゃんに会いにきますね。
「僕」は25歳の青年。仕事の関係で、幼いころに過ごした街へと戻ってきた。そこは山の中腹、近くの建物はあまり多くなさそうだ。僕はぼんやりと、「今」というものに諦念を覚えている。そんなある日、僕は展望台に一人の女性の姿を見つけた。彼女は僕に、狐が降るのを待っているのだと言った――。
この作品は非常にものがなしく、センチメンタルな側面をもっています。叙情的な文体が主人公のもつ諦念によく似合っています。しかしながら本作は、作者のなかの「生」の部分が前面に出た作品、すなわち生きる力を感じさせてくれる短編に仕上がっていると感じました。
もともと生と死というのは表裏の関係なのですが、各作品においてどちらにフォーカスするかというのは、これは作者の狙いに従ったものになります。本作で、僕と女性は「ある決断」をしませんでした。少し間違えば「ある決断」に至っていた可能性もあります。しかし「ある決断をしなかった」という事実が、僕の胸のなかに種火を点します。
本作の前半部では、僕は現在について語ります。今こういう暮らしをしていて、目の前の人(=女性)に対してなにを思っているか。これは現在の語りです。一方後半部では、僕は過去について語るようになります。これは、作品内における僕の変化ではないかと思うのです。もしかすると前半部の僕は、過去を「語らない」のではなく、「語れな」かったのではないでしょうか。だけど、僕を信じてくれた人が、いるから、僕はかつてたしかに存在した時間を語ることができるようになったと思うのです。
それは強烈な「生」の感覚です。私が思う「生」とは全てがベストに回る時間のことではありません。様々な表情を見せてくれる時間のなかで、自分がここにいること、自分をとりまくものを楽しもうという態度ではないかと考えているのです。プラスの状況においても、マイナスの状況においてもです(さらに加えれば、中間の状況においても)。この物語における「僕」は、過去に抱いた希望に現状が敵わないと認めつつも現在を生きていこうと決意します。時間に潔癖を求めるのではない。この楽観性こそが、「生」の本質の一つではないかと思うわけです。
ところでこの作品における「狐」とは、さらに言えば「女性」とはなんだったのでしょうか。まず本編を読んでいただければ、狐と女性がどういう役割を担っていたかがわかると思います。しかしながら、解釈は別です。読者に委ねられています。一義的な正解はありません。僕が見、そして話したモノはなんだったのか。これに対して、私の解釈を(抽象的にですが)述べて、後は皆様の解釈に委ねたいと思います。
私はこの「狐」を「過去」であると捉えました。うつくしく、空の彼方に弾ける猩々緋。私たちが「あのころはよかったなぁ」と覚えるアレです。過去がうつくしい姿のまま、僕の目の前に現われるわけです。僕が過去に後悔を覚えていたから、狐を呼び寄せたのかもしれません。そして過去への後悔は、時間が経つとともに人間のなかで昇華されていきます。そのワンカットが、本作のクライマックスだったのではないかと感じるわけです。
繰り返しますが、本作は叙情的ながら強いエネルギーを秘めた一作です。あなたのきつねはなびはなんですか。「過去」は今のあなたを信じてくれています。信じて、送り出してくれたのです。だから「過去」に申し訳なさを覚える必要など、一つもないのです。
この作品に込められた筆者のアイデアとしてのセンスの美しさは素晴らしいです
筆者は物語の中で曼珠沙華をひとつのテーマとして根幹に取り上げられています。……物語には曼珠沙華に纏わる重要な伏線が美しいアイデアとして作品に美しくもりこまれています。
筆者はまず、曼珠沙華の果てしなく数多くある呼び名の中で、曼珠沙華ではなく、狐花(きつねばな)という呼び名をあえて選んでいます。
線香花火が、華やかに飛び散る様を曼珠沙華(狐花)に見立てて比喩し、きつねはなび(狐花)と、重ねるノスタルジーな思い出。そのワンシーンが映し出されるセンスも美しいものですが……何よりも美しく心がうたれたのは、少女の切ない想いそのものが、曼珠沙華の花言葉に由来していく美しさ、曼珠沙華の花言葉そのものが少女と主人公の関係を比喩しているところにあると感じました。
曼珠沙華の花言葉は、「再会、思うのはあなた一人、転生、悲しい思い出、また会う日まで……」
その隠れた秘めやかな少女の想いが、気持ちを後押しし、少女自身が本当に曼珠沙華(狐花)そのものの化身のように思えてきました。
物語のラストでは少女がまさに狐花(曼珠沙華)の化身であるかのように、華々しく昇華されていきます
筆者の秘めた美しい意図を紡ぐ、曼珠沙華の花言葉を比喩したかのような存在の少女。少女の切ない想いを紡ぐ美しいノスタルジー作品……。
曼珠沙華(狐花)の化身の少女、
忙しい現実の中で、すでに存在しない初恋の少女の記憶を、初恋そのものを忘れていた主人公自身と少女の再会
そこよりおりなす物語は曼珠沙華の花言葉通り、少女の想いそのものが語られてゆくようでした
幻想的なとても素敵な作品です(^_^)
とある夏の日のこと。
日常と連続する非日常。
かつてあったあの夏の、あの夜のこと。そこにたしかにいた、自分とあの子。
不意に越えてはいけない境界線が二人の間に引かれたとしても、それでも、あの夏は、あの夜はたしかにあった。
きつねはなびのように、咲いて、香って。落ちて消えた。
「わすれてもいいよ、わたしのこと。でも、また、想いだして」
振り返るのではなく、いつでもともにありたい。そういう願いを抱ける相手というのは、多分、探しても見つかるようなものではないのでしょう。
もしかして、だからこそ、この物語の主人公は、まだ知らない夏が来るたび、そこに鈴はいやしないかと探してゆくのかもしれません。
美しい文章が夏の夜にしかしないあの香りをも描き出す、エモさ満点の物語でした。ありがとうございます。