海と仮死
幸いにしてアサガオさんに不調を気取られることなく部屋へ戻った僕は、体の動くうちにシャワーを浴びて、さっさと横になってしまった。未だ陽は高く、午後二時にもなっていなかったが、目を閉じてしまえば、睡魔はすぐにやってきた。
奇妙な夢を見た。
目を開けると、僕は眠っている僕を見下ろしていた。一種の幽体離脱というのか、いわゆる明晰夢もかくやと思われるほど意識も五感もはっきりしていて、これが本当に夢の中なのか否か、僕自身も判じかねた。体だって自由に動かせたけれど、しばし僕は僕自身をぼんやり眺めていた。彼の顔は少し青ざめていて、まるで死体みたいだった。
自分の顔を眺めていることほど退屈で不気味なこともないので、僕は顔を背けると、そのまま部屋を出た。感触では幽霊にでもなったみたいだけど、ドアをすり抜けることは叶わなかった。それがちょっと愉快だったりした。
町はいつも通りの様相だった。よく晴れていて、陽の高さから、眠りに落ちて半刻と経っていないだろうと思われる。日に焼けた少年たちが、カゴにボールの入った自転車で颯爽と走っていく。そんな景色を何となしに見ていると、ふと、知った顔が視界に入った。先輩である。
「こんにちは」
近づいて声をかける。が、先輩は僕に目も呉れないで歩いている。虚ろな瞳は矢張りぜんぜん生き物の感じを与えない。試しにもう一度「こんにちは」を繰り返してみたけれど、終ぞ先輩は気のつかないまま歩き去ってしまった。
人の目には映っていないようである。
幽霊になったってしたいことなどあるはずも無く、そこには僕のよく知る昼と、呼吸の重さが横たわっていた。奇妙なことだと思った。遣る瀬無く、僕はふらふら歩き出した。
向かったのはコンビニである。
欲しいものなんて無かったので、そのままレジへ向かった。近い方のレジに居た女性店員に挨拶を投げてみるも、彼女は明後日の方を向いたままで「いらっしゃいませ」と返した。僕は子供の頃にした悪戯を思い出して、ちょっと笑った。
目当てのガムは今日もしっかり働いていた。レジに立って、ニコニコと接客をこなしている。僕には目も呉れなかった。
しばらく彼の働きぶりを眺めていると、なんの因果かヨタカがやって来た。手には避妊具とお茶を持っていた。ガムが苦笑を浮かべる。
「お前な、顔出すたびにゴム持って来ンじゃねえよ」
「それがお客様に対する態度?」
「せいぜい性病にはお気をつけくださいね、お客様?」
「どーも。あ、てかさ、アイツ見てない?」
「あー、見てねえな。昼飯買いに来ることも多いんだが、今日は来てないぜ」
「そっか。暇してたら絡みに行こうと思ったのに」
「連絡入れてみたらどうだ?アイツは断ったりしねえだろ」
「それもそうだね」
ガムからレジ袋を受け取って、ヨタカは帰っていった。
それに続いて、僕もふらふら退店した。
したいことも欲しいものも無いし、誰とも話せないので、バスに乗って海を目指した。先輩が身を投げた海岸へ向かったのである。
果たしてその辺りは、確かに穏やかで静かな海辺であった。さざなみが打っては返している音が、時間を教えるみたいに鳴っていた。寂れた漁港の前を通り過ぎる。先輩はここで引き摺り込まれたのだろう。
不思議と陽光が暑くなかった。汗一つかかないままでしばらく歩くと、白っぽい砂浜に出た。もう九月だからか、海水浴に誂え向きな波打ち際に、人の姿は無かった。
僕は靴を脱いでしまって、海の中へざぶざぶ入っていく。ひどく生温く、潮風が全身にまとわりついた。すっかり服が濡れてしまって、やがて肩の辺りまで浸かった。呆と水平線を眺めている。
「あぁ……」
なんだ、死んだって何も変わらないじゃないか。
やがて明るいのか暗いのか判らなくなって、僕は目を閉じた。
誰かが呼んでいるような声がしていた。
自分の呻き声で覚醒した僕は、部屋の真ん中で仰向けになって、
ひどい寝汗をかいていて、どうやら微熱があるみたいだった。窓の外はもう暗く、時刻は午後七時に近かった。あんなに晴れていたのに、今は雨の音が聞こえていた。あれからずっと眠っていたようである。
動くのも億劫だったが喉が渇いて、僕はキッチンまで這い摺った。冷蔵庫に入れてあった水を流し込む。傍のテーブルに放り出してあったスマホが、真っ暗な部屋の中でチラチラ光っていた。
ヨタカから着信があったようである。
数時間前のことなので無視しても
「おそーい。何してたの?」
「ごめん、具合が悪くて」
「え、マジ?熱とかあるの?」
「測ってないけど、たぶん微熱がある」
「大変じゃん。風邪かな…今から行くから待ってて。何か欲しいものある?」
「特に無いよ。何も、もう欲しくない」
「何それ、熱にやられてんの?まあいいや、とにかく横になって待ってるんだよ?」
こんな時ばかりは優しい彼女は、スピーカーの奥で何やらゴソゴソやりながら通話を了えた。今、こっちへ向かって来てくれているのだろう。座っているのも辛いので、言われた通りに横になって、ぼんやり彼女を待つことにした。
それにしても妙な夢だった。今、こうして目覚めていても、あれが夢だったという実感が一つも湧かないのである。
熱のせいか時間の感覚が曖昧で、どれだけ経ったか判らないうちに、ヨタカがやって来た。玄関の鍵を開けていたのは僕だけれど、チャイムも鳴らさず入ってくる彼女もどうかと思う。そんなことを指摘する元気もなかったので、暗闇の中で僕は「やあ」と呟いた。パッと灯りが点けられる。
「こんばんは。ずいぶんな
「まあね。熱が出たのは久しぶりだよ」
「看病してあげるから大人しくしてなよ。なんか食べる?」
「なんでもいいよ」
「あそ。じゃあお粥作ったげる。キッチン借りるねー」
前がいつだったか思い出せないけど、この二年半ほどの間に、少なくとも数回は熱を出したことがある。もともと、あまり身体の強い方ではないのだ。ヨタカはその度ごとに押しかけて来ては、頼んでもないのに世話を焼いてくれた。「弱ってる時に独りで居ると死んじゃう」というのが、彼女の持論であるらしかった。
狭いアパートのキッチンはここからでも小さな視野角でもって観察することができて、そこではヨタカが慣れた手つきであれやこれやと準備を進めていた。有難くも、それを素直な感謝の情に変えられないでいると、やがて柔らかで人肌な好い匂いが微かに漂いはじめた。
「はい、お待たせ。起きられる?」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして。熱いから気ぃつけなよ」
試みに半身を起こしてみると可成り気怠かったけれど、腹は減っていて、お粥はするする喉を通った。彼女手製の卵粥が僕の気に入りと知っていて、これを作ったと
「おいしい?」
「とても。君は料理上手だね」
「へへ、そう?いいお嫁さんに成りそ?」
「きっとね。だから好い加減に
「あー、言ったな、この恩知らずめ」
そう言って、ヨタカは少しだけ頬を膨らませてみせたが、直後には小さく微笑んだ。心做しか棘が抜けて、いつもより丸くなっているように思われる。
「病人には優しいんだね」
「誰に対しても優しいでしょーが。アンタみたいな醜男に構う女なんて、私くらいじゃないの?」
「そんなふうに思ってたのかい?」
「うそ。私はアンタの顔、結構好きだよ」
「なにそれ、口説いてるつもり?」
「まあね」
「え?」
思わず顔をあげてしまった僕を見て、彼女はくすくす笑った。バカにしているというよりは、小さな生き物の可愛くて堪らないことに笑みの溢れたような、そういう感じだった。
「何その顔。本気にしちゃってんの?」
「……や、別に。君はほら、僕とは寝たくないって言ってたから、
「それは別に、必要が無いと思ってるだけ。セックスなんて無くてもアンタは面白いし、普通に話せるじゃん……てかさ、ヤリたいなら言いなよ。私は、アンタとなら幾らでも寝てあげるよ?それくらいしかしてあげられないけど…」
「何を言って──」
「だからさ、死んじゃヤだよ……」
それは大変に僕を驚かせた。どうして彼女が、僕の明晰夢を知っているのか、まるで見当つかなかったのである。そうして、ヨタカがそんな台詞を存外に真剣な顔つきで吐かしていることに若干の目眩をおぼえた。
「どうして、僕が死ぬだなんて思うの?」
「そりゃ思うよ。最近のアンタ、うわ言みたいにずっと繰り返してるじゃん。『死んだらどうなるんだろう』って」
「僕が、そんなこと言ってたの?」
「そうだよ?ガムだって心配してる」
「そう、か…」
それらは、まったくの無意識下にまろびでた
「…君、今日コンビニへ行ったでしょう。ガムのところへ、コンドーム買いに」
今度は彼女が目を見開いた。
「どうして知ってるの?」
「夢を見たんだ」
「ゆめ?」
「そう、夢。幽体離脱してるみたいになってね、フラフラ町を歩いてた。先輩や君を見かけたけど、誰にも見えてないみたいで。それで、仕方が無いからバスに乗って、海へ行って……」
「……それから?」
「それから……」
はじめ、僕は僕の身に起こった事実だけを素直に叙述しようと思っていた。けれどもそれはちっとも本質ではなく、まるで意味の無い上澄みであると、話すうちから気づき始めた。そうして、それ以上にあれこれと語ることの無意味を虚しく思った。
長く息を吐いて、僕は続けた。
「なんということはないよ。どうということもない」
「そんなワケないでしょ。アンタは、いったい何をそんなに…」
「僕はね、幸せでも不幸せでもないんだ。それが、もうどうしようもなく厭なのさ。それだけなんだよ。それはつまり、人間であることの否定で、だからそれが僕の人間の限界で、嫌いなんだ、ぜんぶ、僕が生まれてきたことの気怠さを今の今まで何かしらの価値に置き換えて自分を虚しく納得させるだけの、この日々に飽くのにも疲れたんだ」
「何を言って…」
「君も言ってたろ。別に否定してくれなくていい。そんなもので、僕がどうにかなれることなんて期待していないから」
もう、ヨタカは何も言わなかった。
「……これ、ホントに美味しいよ。それは本当のことだ」
それから十分ほどで粥を平らげた僕は、彼女に貰った風邪薬を飲んで、じっと目を閉じていた。部屋には僕と彼女の息遣いだけが在って、それだけだった。彼女は怒ってはいないみたいだったけど、何も話そうとせず、静かに寄り添ってくれていた。
夜が更けていくのと一緒に熱が下がっていくのが判る。
こんなことすら凝っと在り続けて呉れないことの薄弱が、つまりは人生の正体なのだろう。
もう、その位のことしか判らずに、けれどもそれだけが確かに平盤な生活の溜め息の底に蟠って、僕を殺していくのだろうと解った。
リード・ミー 不朽林檎 @forget_me_not
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