色と自殺
異性に興味が無いと言えば嘘になる、そう言える程度の性欲は持ち合わせていたけれど、実際に僕は、そのアプリでの出会いを期待していなかった。しかし結果的に、それは暇つぶしにちょうど良かった。
ヨタカが使っているだけあって、そのアプリはアダルト色が強かった。不倫に売春にと、むしろ真面に友人や恋人を探している人間の方が少ないようである。そうして、眺めていると色々な人がそれぞれに壊れているのだと判った。そこでは、現実で己を曝け出せない人たちが、まるで拾われるのを待っているガラクタみたいに佇んでいた。
かく言う僕も、たぶんガラクタの一つだった。それでいいと思った。
何人かと遣り取りをしたものの、途中で音信不通になってしまうことも多く、また、上辺では健全を装いながら、会話が始まってからおずおずと売春の交渉をもちかける者もあった。結局、真面に話が続いたのは一人だけだった。僕より三つ歳上の女性で、とても礼儀正しかった。彼女だけは、このガラクタの海でひどく正常に浮上していた。この人となら会ってもよいと思えるくらい、彼女の態度は好ましかった。
そうして僕は、とうとうデートの約束を取り付けることに成功した。
先輩が自殺未遂をやらかしたのは、ちょうどそんな折であった。
この町から車を三十分ほど走らせると穏やかな海岸にたどり着くのであるが、先輩はそこで身を投げて、死ぬに死にきれず、あぶく吹いているところを散歩途中の人に助けられたとのことである。人けが無かったこともあり、公的には先輩の主張通り、それは事故による転落だとされている。
しかしながら先輩と親しい人間たちは、それが自殺未遂であるとすぐに気づいた。僕だって自殺未遂を疑わずにはいられなかった。
アサガオさんは真っ先に様子を見に行ったそうだが、僕が先輩と会ったのは、自殺未遂の当日から四日が経った頃だった。しかも純粋に先輩を心配してとか、そんなわけではなく、ただ、退屈を持て余していたからという由である。
もっとも、彼は心配されることなんて望んでいるはずがないけれども。
すっかり快復したという先輩は、すでに四畳半へ戻っているとのことであった。僕は手土産に先輩の好きなビールを買って、ふらふら歩いて向かった。
ドアチャイムを鳴らすと、向こう側で何やらゴソゴソ鳴ってから、足音があって、ガチャと開いた。眩しいのか眠いのか、目を糸みたいにしていた先輩は、僕に気づくとヘラッと笑った。
「おお、お前だったか」
「海に落ちたと聞きまして、見舞いに」
「嘘を吐け、心配なぞしとらんくせに」
「僕にしては心配したつもりです。ほら、ここに手土産もある」
ビニール袋を掲げてみせると、先輩はちょっと目を開いた。
「でかした。まあ上がれ」
言われるまま、僕は先輩の四畳半に上がり込んだ。やはり蚊取り線香の匂いがしていて、それは、ひどく夏の終わりを予感させた。
僕が袋を手渡すと、先輩は流れるように缶を取り出して封を切った。そのまま壁を背にして座り込むと、ぐいぐい飲み始める。
「ああ、そんなに飲むと酔っちゃいますよ?」
僕が窘めても彼は口をつけたままだ。ようやっと離して息を吐いたかと思えば、また、ヘラヘラ笑ってみせた。
「構わん。酔いたいのだ」
まるで与太者の風体である。
その様は、間違いなく僕のよく知る先輩だった。自殺未遂の後とあって、多少はがっくり来ているだろうと思っていた僕は、なんだかおかしくて笑ってしまった。
「とても、自殺をしくじった後とは思えませんね」
「なに、別に自殺ではない。あれは事故だ」
「ほんとですか?」
「うむ。あの日はな、朝からずーっと、呆としていたのだ。実験の予定が入っていたが、とても大学へ行く気にもなれなくてな。何も考えずにふらふら出かけていって、気がついたら、あの海岸にいたのだ」
「まるで、何かに呼ばれたみたいですね」
「ああ、しかも、奇妙なことにな──」
そこまで言って、彼は再び酒を呷った。喉が渇いて堪らないと言わんばかりである。
「あの日はな、いつもの幻聴が聞こえなかった」
「幻聴というと、あの、死ねというやつですか?」
「そうだ。頭はまるで働かなかったが、気分はひどく軽かった。そうして俺は、漁港の岸壁に立って、水面を眺めていた。すると、ぐいぐい何かに引っ張られたのだ」
その話は怪談めいていたが、僕の脳裏にはまるで直に見たがごとに、鮮明な映像が映り込んでいた。輪郭だけがハッキリした、色が薄くてぬるい風景。彼は焦点の定まらぬ目でもって水面を眺めている。そして──。
「……いったい、何に引っ張られたんでしょうか?」
「わからん。辺りには誰もいなかったようなのだが…気づけば俺は、ほとんど溺死しかけていた。もちろん苦しくて悶えたが、なんだか、こう、上手く言えんのだが、正しいような感触がした。息のできない海の中で、驚くべきことに、俺は割合に幸福だったのだ」
「はあ…」
「ま、直後に海産物よろしく引き揚げられて、何が何だかという感じだ」
先輩はちっとも表情を変えずに話し了えると、また一口、ぐぴりと酒を煽った。
然るに自殺は、ある種の事故なのかもしれない。
だからといって、死んだらどうにかなるのだろうか。
その翌日こそは、果たしてデートの日であった。
僕は余裕をもって、待ち合わせ場所の公園に到着した。女性の姿はない。
自分でも驚くほど緊張はしていなかった。どうせ何もかもが過ぎていくのだろうと判っていた。近くに置いてある自販機で缶コーヒーを一本買って、呆と待つ。既に暦は九月に入り、日増しに空の高くなりゆく気がしていた。未だ暑いが、空気はずいぶん冷たくなって、陽ばかりが眩しくて痛い。夏休みに焼けてしまったのだろう、健康的な子供たちが離れたところでボール遊びをしていた。
やがて約束の時間が近づき、僕は彼女からのメッセージを確認した。新着がある。
『着きました!どの辺りにいますか?』
『ベンチに座っています』
ややあって、返事が来た。
『もしかして、白い服の方ですか?』
雨上がりみたいな花みたいな、よく判らない良い匂いがしていた。
ハッとして目を挙いで、流石に、僕も硬直してしまった。何も言えないままでいると、先に、優しい彼女の方が笑った。
「まさか、君だとは思わなかった」
白いワンピースを揺らした彼女は、夏が暮れたような顔で、だけど笑っていた。
僕が頭に想定していたデートプランは当然に遂行されず、そのままアサガオさんの部屋へ向かった。
「何か飲む?」
「あ、いえ、お構いなく」
「じゃあ麦茶にするねー」
彼女はそういう人なので、こんな遣り取りはいつものことだった。そして意外だったのは、僕はともかくとして、アサガオさんがそれほど取り乱していないことだった。正常な彼女はてっきり、気まずく感じたりするのではないかと憂いていたのだけど。
「どうぞ」
「いただきます」
彼女は僕の正面に座ると、コクコク鳴らして麦茶を飲んで、息をついた。僕もほんの少しだけ喉を湿してから、コップをローテーブルに置いた。部屋は不自然なくらいに静かで涼しい。
「…あの、アサガオさん」
「なあに?」
「あなたみたいに素敵な人が、どうして、あんなアプリを?」
直裁に訊いた僕を見て、彼女は口元を隠して笑った。少し照れているようでもあった。
「何それ、口説いてるの?」
「そうじゃないです。別に、あんなものに頼らなくたって…」
「あんなものって、君だって使ってたじゃない」
「僕は、ガラクタだからいいんです」
「だったら──」彼女は机上のコップを両手で包んで、頬を緩めた。「私だってガラクタよ?」
「そんなことは…」
「んーん、一緒。あなたと一緒なの」
一緒なワケがないと思っていた。
一緒であってはいけないと思い込んでいたし、一緒であってほしくないと願っていた。僕みたいな根暗にも、ガムのような陽キャにも、ヨタカのような洞穴にも、先輩のような亡霊にも、そうして、花みたいなアサガオさんにも、少しも変わらずに寝そべって有る人間の根底みたいなものが此の世に存在することなんて、僕は少しだって認めたくはなかった。
ため息。生活に於いて、僕ら自身を浮き彫りにしている背景。
「前にね、スイカの話をしたの、覚えてる?」
「甘いだけじゃつまらない、ですか?」
「そう。私ね、ちゃんと塩のかかったスイカになりたかったの。頑張って伸びて蕾をつけて、咲いて、ちゃんと萎れていく花になりたかった」
「どういう、ことですか?」
「なんの問題も無い真っ平らな人生をね、ずっと大事に抱えてみたけれど、私、ちっとも幸福じゃなかった。私は穴が欲しくて、だから彼みたいな穴だらけの人間を、放っておけないの。憧れてるのかもしれない」
そこで彼女はコップを持つと、残りを一気に干してしまった。
「無いから欲しいし、有るから要らないだけなのよ。なんだってそう。人生だって、そんなものなの」
「そう、ですか…」
彼女の話を聞いているうちに頭がクラクラしてきて、ひどく具合が悪くなってきた。体もなんだか火照っている感じで、あまり感覚がない。もし何かの病気だったとして、彼女に
「アサガオさん」
「うん?」
「死んだらどうなると思いますか?死んだら、どうにかなるんですか?」
彼女は目をぱちくりしたが、すぐに微笑んで答えた。
「さあ、判らないわ。私は未だ死ねないもの」
僕は簡単に礼を述べて、彼女の部屋を後にした。
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