死なず呆け
翌朝、僕は未だ眠っている先輩を敢えて起こさずに部屋を出た。酒に強くない僕らが二人で宅呑みをすると、決まって零時ごろには寝てしまって、明け方、へんな動悸に目を覚ました僕が勝手に帰ってしまう。それを先輩に咎められたことはないし、なにより、酔い潰れて寝ている彼を起こす気にはなれないのだ。彼はいつも、寝息も聞こえないくらい死んだように眠っているから。その寝顔は覚醒時には考えられないほど安楽で幸福そうで、或いは眠りという仮死状態だけが、先輩の救いなのかもしれない。
未だ午前六時半の空は清々しく、色が薄くて遠かった。じわりじわりと昼へ向かって、これから水をはらんでいくみたいに色づいてくるのだろう。少しだけ風が吹いていて、それなりに涼しい。
ふらふら歩いているうちに、呼気に残っているようだったアルコールも薄くなってきた。ほとんど音のしないアパートのドアを開けて、シャワーを浴びてから水を飲んで、横になった。無用心にも窓は網戸のままだったが、おかげで開ける手間が省けた。頬に感じる扇風機の微風がなんとも言えず優しい。
次に目を覚ましたのは正午ごろだ。
我ながらずいぶんよく寝たものである。一つ大きく伸びをしてから、窓外を見遣った。それは青くて、すでに気温は上がりきって、僕は全身にじっとりと汗をかいていた。そばへ放り出してあったスマホを手に取れば、そこには着信の跡が残っていた。
寝起きということもあって億劫だったが、かけ直してみる。そいつは三コール目で出た。
「おっすおっす。これからヨタカと会うんだけどさ、お前も来ねえ?」
「君とヨタカだけなの?」
「おう」
「へぇ、珍しいね。場所は?」
「あそこのカフェだよ。ほら、お前も知ってんだろ?」
そう言って彼が教えたのは、僕の家から歩いて行けるくらいの処だった。落ち着いた感じの喫茶店なのだが、ヨタカの気に入りで、幾度か連れて行かれたことがある。
「わかった。行くよ」
ほんとうに何も考えることなく、僕はそう答えた。
しかし、死んだらどうなるのだろうか。
約束は午後一時だったけれど、家から近いので慌てずに済んだ。入り口のところでガムと落ち合ってから入店し、注文を済ませる。木材の風合いを活かした内装はノスタルジックだが清潔で、どことなく小学校の校舎を思わせた。客はといえば僕らの他に、初老の男性が奥の席でぼんやり窓外を眺めているだけだった。
それから五分くらい、あんまり意味のないようなことを喋っているうちにヨタカと飲み物が一緒に来た。そのついでに、彼女はアイスコーヒーを注文した。
「あー、サイテーだよ、あのオヤジ。口には出すなっつったのに」
そうして席に着くなり、いかにも忌々しそうな口ぶりで言った。常識的には戦慄を誘いかねない一言だが、僕らは特に驚かなかった。
「また割り切りか?」
「そ。まあ、脱いでないし、追加くれたから許したけどね。アイツはブラックリスト入りだよ」
「ほんとに懲りんヤツだな。大人しくバイトしろよ」
「ムリー、いまさら戻れないよ」
わざとらしくベッと舌を出して、彼女は笑った。ああ、そうだ。彼女の笑顔は、炭酸の抜けたジュースに似ている。
「あんたは、彼女は未だできてないの?」
「残念ながらな。というか、お前みたいなのが多すぎて辟易してる」
コーヒーを楽しみながら聞いていた僕だが、これには頷けないで首を傾げた。「何の話?」
ガムは頬杖ついたまま机上のスマホを操作して、「これだよ」と何かを提示した。見覚えのない画面に瞬時、僕は困惑したが、それは、どうやらマッチングアプリの類らしかった。
「ヨタカに教えてもらって始めたんだよ。もうしばらく彼女もいなくてな」
「君が?女子なら周りに幾らでもいるでしょう?」
「や、まあ居ることは居るんだがな、駄目なんだよ。俺は、人に対しては決まったようにしか振る舞えないのさ」
それは、ちょっと遠いことに思われたけど、その飛躍を埋める気は彼には無いらしくて、先を続ける。
「ま、とかく、ものは試しとしたはいいが、進展ナシだ」
「ふぅん…」
僕には時々、人が恐ろしく不確定なものであるように思われる。実際に日頃から思うことはないけれども、こうして、案外に知らない一面の存在を知った時などには、それを強く感じる。ある種の科学理論的な、観測すること自体が引き起こす珍妙で不可解な効果みたいなものの実体が、ぬっと目の前に立ち上がるような錯覚。
「まーた何か、ごちゃごちゃ考えてるでしょ」
ヨタカが笑って、僕は我に返った。気づけばガムまで苦笑している。
「どうして判るの?」
「見てりゃ判るって。顔に書いてある」
「だな。しかし最近は、お前、なんかぼーっとしてることが多いぞ。大丈夫か?」
「まあ、うん。特に変わったところはないけど…」
傍からはそんな工合にみえるのだとしたら、どうしたことだろうか。ああ、でも確かに言われてみれば。
「最近は少し考え込むことが多いような、気はするよ」
「おお、自覚はあったんだな。何をそんなに考えるんだよ?」
「なんでもないようなことだよ。どうということもない」
「死にたいとか言わなくてよかったけど、それはそれでヤバいよな」
ガムはスマホを引っ込めると、ポケットに仕舞った。窓際で木漏れ日が揺れている。その光の粒が暗い板張りの床を舐めとる様をぼんやり見遣って、僕は曖昧に頷いた。
「じゃあさ、アンタもやってみたら?それ」
「僕が恋人を?まさか」
「や、案外いいかもよ。だってアンタ、未だ童貞でしょ?」
「まあ、うん」
「ほら、恋愛やセックスを知れば、何か変わるかもよ?」
まったく場違いでお門違いだけど、僕は彼女のその発言をひどく不快に思った。厭でどうしようもなく、怒りすら覚えた。僕が思い煩っているこの空虚と、愛だの恋だのと云った実に人間らしいそれらが秤にかけて釣り合うものだと感じられているのが、えも言われぬくらいに心外であった。そうして、そんなことでも僕は一向に救われないし、恋も性行為も何かしら既知の物質であるかに錯覚されるであろうと解っていた。
「…うん、まあ、そうかもしれない」
「でしょ。ほら、じゃあ登録してみなよ」
しかしながら、僕は己が自然の行動原理に基づいて、何も考えずに頷いた。それが詐欺の類でなければ、僕には何だって構わなかった。一々、ガムが登録のやり方を教えてくれている間も、始終、僕は呆としていた。
死んだらどうなるのだろうか。
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