僕と小説

 僕はいつも、誰かが死ぬ話を書いている。

 別に狙ったわけではなく、勝手にそうなるのである。伏線もオチもクライマックスも、驚くほど何一つ決めないままで書き始めてしまうので、自然、ストーリーは思いついたままになる。ときどき自分で何を書いていたのか忘れることさえある。無意識に近いような状態で書いている。

 それなのに、オチは決まって人が死ぬことだった。

 ある時は少女が死んでしまう悲恋を、ある時は男が自殺してしまうドラマを。またある時は、幽霊が成仏する話を。

 存在が消えて無くなるその瞬間を、僕は描き続けている。ひどく無様で拙い文体で、どうにか伝わってくれと祈りながら書いている。おかしな話だ。だって、僕は誰に読んでもらうつもりもないのに。

 次の主人公は平凡な男だった。これには困ってしまった。

 彼には死ぬ理由が一つだってないのである。

 病気でもないし、借金を抱えているわけでもない。戦争に参加しているわけでも、魔王を倒しにいくわけでもない。彼が死にうるとすれば唯一、それは事故死の形をとって為される他ないと思われる。

 車にでも轢かれるのだろうか。依然、僕は何も知らない。

 行く先は、僕の手も届かぬところにある。


 ヨタカと一緒に映画を観ていると日が暮れてしまった。

 今日はおとなしく家へ帰ると言って、彼女は部屋を出て行った。一人取り残された僕は腹が鳴ったので仕方なく、食べ物を求めて外へ出る。買い物に於いては計画性をもたないので、すぐに食料を切らしてしまうのだ。そのくせしてアイスなんかはしっかりストックしてあるのだから我ながら呆れる。

 あさましい僕はアパートの階段を降りながら、もしかしたらアサガオさんがそこから出て来て何かしら恵んでくれないだろうかと虚しく夢想した。買いに行くのが面倒だから食べなくても可いやと思うことも多々、しかしながら、空腹にはあまり強くないので、食欲を殺すこともできなくて困る。まったく。そんなことをあれこれ思案しているうちに、一階のドアが開いたものだから、僕は、それは、ひどく驚いてしまった。

 しかし期待に胸が躍ったのも束の間、出て来たのは先輩だった。彼は僕を認めると、いつものようにヘラッと頬を緩めた。

「お、なんだ、今から飯か?」

「そうです。先輩は?」

「ちょっとアサガオの奴に顔見せに来た」

「へぇ、珍しいですね」

「まあな」彼は肩を竦めると、なんだか子供じみた口調で続ける。「アイツは意外と頑固だからな。一度言い出すと聞かんのだ」

 なるほど、どうやらアサガオさんに呼びつけられた様子である。なんだかんだ言って、流石の先輩も彼女には頭が上がらないらしかった。

「じゃあ、先輩はご飯食べました?」

「や、アサガオは勧めてくれたんだがな、今日は遠慮した。酒が飲みたくてな。アイツの飯は美味くて食い過ぎるから、酒が飲めなくなる」

「なるほど…」

「ときに少年、今夜は暇か?」

「ええ、まあ」

「ならウチへ来い。晩酌の相手をしてくれ」

「いいですけど…アサガオさんじゃダメなんですか?」

 彼は、普段よりちょっと重さのある苦笑を呈した。こんなのを引き出せるのは、きっと旧知の仲であるアサガオさんの特権なのだろう。

「アイツは俺よりも俺の肝臓を心配してるから」

「止められるわけですか」

「そうだ。さあ、まずは買い出しだぜ」

 そんなこんなで、僕は先輩の家へ転がり込むことと相成った。


 主人公の男には、依然として何も起こらない。日常を逸脱した幸も不幸も、彼自身を死なしめる何かも、一向、訪れる気配がない。ただ時間ばかりが徒らに過ぎていって、日常の悉くも主体である彼も、洗いざらしたみたいに色が抜ける。

 結末は未だ決まっていない。しかし、それを匂わせるものは、確かに近づきつつあった。

 男は考え始めたのである。

 死んだらどうなるのだろうか。


 先輩の四畳半はいつも蚊取り線香の匂いがしていて、別にそれは夏でなくても同じだった。今も窓辺に一つ、紅く燻るうずまきが金支えに載っていて、細く白い煙を夕風にたなびかせている。先輩の部屋にはエアコンが無いので、夏場は網戸に風を通し、扇風機で涼をとる他なかった。それはそれで風情があって、僕は嫌いじゃないけれど。

 先輩はビールを氷水で冷やすのが好きだった。小さな金盥に水を張って、そこへ氷を有るだけ入れてから缶を漬けるのである。今夜、金盥には五百ミリの缶が十本ほど入っていたが、これは余るに違いない。呑んだとて、僕が三つに先輩が二つ、それがいいところだと思われる。

「いつも思うんですが、酒、買いすぎじゃないですか?」

「買いすぎくらいがちょうど好いのさ。酒が足りないことほど惨めなことはないからな」

「そういうものですかね」

「うむ。足りないかもしれぬと少しでも案ずれば、それが酔いを妨げるのだ。酔えない酒は、ただ無意味だ。さぁて、それでは、缶を持ちたまえ」

「乾杯」と、二人ちいさく呟いて、缶をぶつけあった。なんだか僕は、小さな頃、親に隠れてしたイタズラを思い出したりした。この古めかしい和室が、意識をそっちへ引っ張っているのかもしれない。

 それから僕らはちびりちびりと、どちらも酒の強い方ではないので、早々に潰れてしまわぬように呑んだ。酒が入ったからといって多弁になるほど僕は陽気じゃないが、先輩は呑みだすと喋るタイプなので、会話に事欠きはしなかった。

 互いに缶を一つずつ空けた頃、先輩が僕を見て問うた。

「そういや、小説の調子はどうかね?」

 僕は小説を書いていることを誰にも告白していなかった──それは、恥ずかしいからということも大いにあるし、どんな形であれ、自己表現を試しているという事実を人にひけらかすのは、なんだか嫌だったからだ。しかし先輩に対しては、そんなはにかみも消え失せ、どうしてだか僕は、素直に告白することができるのだった。

「や、そうですね」クピリと缶を傾けて、僕は目を合わせずに答える。「うん、まずまずかな」

「ほう。前回は、確か幽霊の話を書いていたよな。今のはどんななんだ?」

「平々凡々な男の話です。オチも伏線も、ちっとも決まっちゃいないので、路頭に迷わないように気をつけてます」

「なるほどな。しかしお前、オチも決まってないと言っても、どうせバッドエンドなんだろう?」

 僕は苦笑して頭を掻いた。

「痛いところを突かないでくださいよ。それしか書けないんですから」

「絶望的なやつだな…まあそれは、俺も変わらんか」

 そこで、ふと気づく。あの主人公は先輩に似ている。別に故意に似せて書いたつもりもないが、言われてみればそうだった。

「実は、その男のモデルは先輩なんですよ」

 僕がちょっと戯けてみせると、先輩は大袈裟に顔を顰めた。

「なんだと?この俺が平々凡々だってのか?」

「違うんですか?」

「や、その通りだ。実に正しい洞察だ」

 先輩は笑って、ちょっと勢いよくビールを流し込んだ。

 先輩みたいなのが平々凡々だと、僕は本気に信じることができない。けれども一方で、確かに或る観点に於いては、先輩は平凡なのかもしれないと感じていた。僕から見える先輩は、ため息のメタファみたいだったから。

「そうか、俺はお前に殺されるのか」

「物騒な言い方しないでくださいよ。それに、まだ死ぬと決まったじゃないんですから」

「ふむ…まあ、本当のところでは、俺は、死因なんてどうでもいいと思ってるんだがな。殺してくれても構わんぞ」

「そんな、じゃあ先輩は、明日死んでも可いんですか?」

 先輩は気障な笑みを浮かべて、どうやら、一寸だけ何か考えたようだった。その演算が何処を通って何処へ至るのか僕には判らないが、そこに掛かる時間だけが、たぶん先輩を生かしているのだろうと思った。

「構わん。もう、やりたいことはやったからな。俺ァ、もう十分生きたと思うのだ」

「…そうですか」

「なに、お前だって解らんとは言わせんぞ。前に語っていた『ため息』とやらがお前にも解るなら、それは、つまり俺の此のこれを視たことがあるということだからな」

 小説に限らず、僕は他の人に敢えてしようと思えぬ話までも、どうしてだか先輩にはしてしまうのだった。

 そうして、たしかにため息は、自殺願望にも似ていた。

「…まあ、はい」

 僕は曖昧に頷いた。先輩は小さく笑って、僕の肩を叩く。

「お前は見所のあるヤツだからな、それこそ作家にでも成ってほしいのだ。そうして、これを書き出してくれ。この、胸に空いた穴とも呼べぬ空白を、俺の代わりに」

「僕だって書いてみたいですけどね、なかなか難しいんですよ、これが」

「やってはみたのか?」

「や、そもそも何かを狙って書くなんてのは、そりゃあ難しいんです」

 プロットという言葉は、別に創作を知らなくても耳にするのではなかろうか。そもそも人が何かを作ろうとする時には、まず骨組みから作られて然るべきなのである。だから物語に骨組みのようなものが存在することなんて、誰にでも当て推量の利くことだと思う。だが僕に於いては、その骨組みが役に立たない。

「プロットを作るとね、てんでダメになるんですよ。なんだか監視されているみたいで、書けなくなるんです」

「監視、か。いったい誰に?」

「さあ、きっとただの錯覚なんでしょうけどね」

 ふと、入居して間もない頃に感じていた奇妙な視線を、僕は思い出した。きっと錯覚だと思い込んでいたけれど、もしかすると僕は本当に、何かに見られていたのかもしれない。

 そのことは未だ先輩にも話していなくて、ちょうどいいと思って、ぽろりと打ち明けてみた。すると先輩はさして驚きもせず、むしろ小さく笑ってみせた。

「疑わないんですか?」

「まあ別に、その程度の思い込みは誰にでもあるものだ。それにな、俺だって実は、妙な幻聴に悩まされてる」

「幻聴?」

「これは、誰にも言っていないのだが、お前には特別に教えてやろう。ここだけの話だぞ?」

 恭しく頷いて見せると、彼はへんに神妙な顔つきになった。とても、これから出鱈目を吐かす心算の面ではなかった。

「ずっとな、頭の真後ろで、誰かが囁き続けている。女の声みたいだが、ときには男であるような気もするし、ひどい時は、自分の声にも聞こえる」

「そりゃまた、ホラーですね…で、何と言ってるんです?」

「自害せよ、死ね、死んでしまえ。そんなことを囁かれている」

 それはあまりに絶望的で、ともなれば一刻も早く然るべき医者にかかるべきだと思われた。しかし僕は大して驚かなかったし、先輩を精神科へ引っ張っていく気にもなれなかった。先輩ならば、なんとなくそれくらいの処に立っていて全然不思議じゃないと思えたからだ。

 ああ、そうだ。この人からは、いつも死の匂いがしている。

 だから僕は先輩に惹かれ、そうしてだからまた、先輩を畏れているのかもしれない。今日明日にでも何処かへ消え入りそうな不吉な気配が、彼には有った。もうずっとである。

「…そうですか」

「お、これを聞いても引かないとは流石だな。やはり見所のあるやつだ」

 先輩はほんのちょっとだけ、アサガオさんへ向けているような重さのある笑みを寄越した。それを見て僕も、ちょっとだけ笑ってみせた。

「先輩が変人なのは今に始まったことじゃないですからね」

「なんだとコノヤロウ、もう酔っぱらってやがるのか」

「至って素面ですよ」

 そうは言いつつも、僕も頬が火照りつつあった。僕よりも少し酒に弱い彼は、嬉しそうにケタケタ笑い声をあげる。僕も彼も、たぶん一般からすれば真面でなくなっているが、こうしてアルコールに頼れば、自然に笑うことができる。それはとても虚しい事実だった。

「しかし、頓死はやめてくださいよ?僕も寂しいですし、何よりアサガオさんが悲しみます」

「や、まあ、うむ…」先輩は缶に口をつけて、曖昧に頷いた。本当にアサガオさんには弱いらしい。

「前から思ってたんですが、先輩とアサガオさんは、結局どういう関係なんです?」

「あいつのお節介が俺を許さないだけの、ただの腐れ縁さ」

「ふぅん…じゃあ、好きとか嫌いとかはないわけですか?」

「まぁな。あいつは間違いなく良い女だが、俺とは何でもない。それに俺は、処女は抱けんのだ。よく解らんが罪悪を感じる」

「ちょ、ちょっと待って。処女?アサガオさんが?」

「ん、そうだが?なんだ、お前知らんかったのか?あいつは正真の処女だぞ。男と付き合ったことすらないと、本人が言ってた」

「あんなに美人で、優しいのに?」

 先輩は畳に缶を置くと、暮れた窓外を見遣った。茜はもう失せていた。

「まァ、人間ちっとは欠点のある方が、可愛げがあって好いのかもせんな。俺とは違うやり方で、あいつもきっと虚しいのさ」

 僕は黙って頷いたが、喉もとには飲み込み難い何かが残ったままだった。

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