僕とヨタカ

 僕とヨタカの出会いはどうしようもなく下品で低俗で、まったくの偶然だった。彼女は大学へ入ってあまり経たないうちに売春を始めたらしいので、僕らが初めて話した時には、すでに手慣れた様子であった。ちなみに処女を捨てたのは中二の夏、高校でも彼氏を取っ替え引っ替えしてたので、大学デビューでセックスにハマったとかいうわけではないらしい。訊いてもいないことを話してしまうのが彼女の悪癖であるので、僕はそんな知りたくもないことまで知っている。とは言え、彼女だって誰彼構わず不埒なことどもを吹きまくってるわけではない。大学で彼女の売春を知っているのはガムやアサガオさんなど、限られた数人だけである。

 その数人を彼女がどうやって選定したのか、また、そもそも誰かに話す心算があったのか否か、僕は知らない。ただ僕に限って言えば、僕の存在感の薄さに起因している。この辺りは、数奇なことにガムと同じような工合であった。

 僕らは互いを承知していなかったのである。

 買い出しに近くのスーパーまで行った、その帰りだった。買い物袋を下げて外へ出たら、割に酷い雨が来ていた。入り口の庇からもボタボタ垂水が落ちて、そこらじゅう重吹いている有様である。予期しなかった人もいたのだろう、入り口付近には雨宿りに立つ人も数人あった。これほどとは思わなんだが、多少の雨はあるだろうと傘を準備していた僕は、したり顔で帰宅を開始する。

 その時、右隣に立っていた同い歳くらいの少女に声をかけられた。

「お兄さん、ちょっといいですか?」

「はい?」

 そのとき彼女はマスクをつけていたが、やはり可愛らしく、垢抜けていた。流石の僕も少しドギマギしてしまう。

「私、学校に傘を忘れてしまって、迎えのアテもないんです…よかったら、お兄さんのおウチで雨宿りさせてくれませんか?」

「えっと、まあ、いいけど…」

「ホントですか!やったやった!じゃあ、相合傘しましょう」

「あ、え、はい」

 果たして、僕らは二人して一つの傘に入って歩き出した。手と手が触れそうな距離なので、僕は未だ少し緊張していた。直裁に肉体的な何かを期待したわけではなかったし、また、これがいわゆる恋の種になるとも思っていなかった。僕は昔から大層に怠惰な人間だったが、人から頼み事をされると断れない──というか断らない性格であった。イエスノーを考えることが何よりも億劫だったので、余程のことでない限りイエスを選ぶことにしていた。

 それでも、まあ、それを全然期待していなかったと言えば、少しだけ嘘になってしまうだろう。これでも若い男子なので。

 彼女はあまり話さなかった。だから僕も話そうとしなかった。雨足の強いお蔭で、その沈黙はそれほど不自然ではなかった。

 そうして、まもなく僕のアパートに到着しようとした時である。

 彼女は唐突に口を開いた。

「お兄さん、彼女とかいますか?」

「や、いませんけど…」

「そうなんですね…」

 妙に熱っぽく呟くと、彼女は傘を持つ僕の手に、自分の手を添えた。

「私、こうやってお会いしたのも、何かの縁だと思うんです。だから、お兄さんが宜ければ、雨宿りのお礼、させて欲しいんですけど…」

 こんなのは善いところが美人局であって、不法や暴力の匂いが阿呆にも感ぜられて然るべきである。しかし今でも童貞だし、そんな今よりずっと女慣れしていなかった僕は、大層面食らった。彼女の言うところのお礼がそういう意味合いであることは、その表情から察するに余りあったのだ。

「そんな、君ね、今日話したばかりだし、それに雨宿りくらいで…」

「だめ、ですか…?」

「や、その…」

 胸元の緩い服から、白くて柔らかそうな肌が覗いた。そうして、上目遣いで小首を傾げる彼女に半ば理性を持っていかれ、ついに押し負けてしまう。もう僕は何も言わず、かぶりを振るばかりだった。この時点で当然に抱くべき猜疑心や呆れは、僕の純粋さによって抹殺されてしまったのである。なるほどどうして、性欲とは抜き差しならぬものだ。

 僕はアパートを指さした。

「…そこが、僕の住んでるとこ」

「ゲッ」

「えっ」

 あまりに誇張めいた感嘆詞を、彼女はしっかりと字面通りに発音した。その唐突さに二人して硬直し、しばらく言葉が途切れる。

 数秒の後、彼女は何事もなかったかのように笑ってみせた。

「あ、いえ、なんでもなくて!ただ、知り合いが住んでるアパートだったので、びっくりして」

「あ、ああ…そうなんだ」

「い、行きましょ行きましょ!」

 どうしてだか彼女の方が、僕の袖をぐいぐい引っ張っている。なんとも珍妙な状態であった。

 ともあれ階段の下まで歩き、傘を閉じた。一安心である。僕らは一瞬だけ目を合わせて、どちらからとなく逸らしたりした。

 心臓がうるさかった。

「…二階なんです。上がりましょう」

「はい」

 その時、一階でドアが開き、男がのっそりと歩き出てきた。

「おお、酷いな、これは。アサガオ、傘借りるぞ」

「いいよー、そこのビニール傘使って」

「悪いな。今月はマジで飢え死にするかと思ってたから助かったぜ。じゃあまた」

 そこへ現れたのは、もちろんアサガオさんだった。彼女は先輩に手を振りながら、きわめて自然な動作でこちらへ目をくれた。

「あら、あなたたちは…」

 ──とまあ、なかなかどうして非道い馴れ初めなのである。


「そういや、そんなこともあったねー」

 ひどく強引に部屋へ上がり込んできた彼女は、我が物顔で冷蔵庫からアイスを取り出した。しかもハーゲンダッツである。ついでにスプーンも手に取ると、壁にもたれて座っている僕の隣へやってきた。

「良いもん置いてあんじゃん」

 すとんと腰を下ろして、彼女は上機嫌に言う。

「よくもまあ君は、他人ん家でそんなに寛げるね。それ、とっておきなのに」

「そーなの?いや、誰の家でもってわけじゃないよ、アンタだけだよ?」

「なおさら重罪だよ。そんな売女の必殺技が僕に通じるとでも?」

「ああもぅ、解ったよ、今度同じの買ってきたげるから。たかがアイスで目くじら立てちゃって、そんなんじゃモテないぞ?」

 その言い草に思うところが無くもなかったけど、同じのを買ってくれるというので溜飲を下げる。別に僕はアイスを惜しんでいるわけではない。彼女の横暴を不快に感じているだけだ。

 彼女はフタを取ってテーブルへ置くと、冷え冷えとして滑らかなそれにスプーンを突き立てた。恨めしそうな僕の視線などお構いなく、スプーンは彼女の唇へ吸い込まれる。

「んー、おいひぃ」

「そりゃよかった」

「ほい、一口あげる」

「僕のだけどね。いただくよ」

「あーん」と差し出されたスプーンからアイスを食べる。フレーバーが口腔で優しくふくらみ、まろやかに溶けていく。実に美味である。これを食べると夏が来たことを実感できる。

「美味しい?」

「もちろん」

「そ。よかった」

 そう呟くと、次の一片を口へ滑り込ませつつ、僕に肩を預けてきた。彼女の方に扇風機があるので、小さく靡く髪から甘い匂いがしていた。

「いつも思うんだけどさ、君は、どうしてそんなに距離が近いの?」

「寂しいからだよ?」

「友達も沢山いるでしょう」

「まあね。でも友達は友達だから、寂しさは無くならないよ」

「恋人だって、作ろうと思えばすぐでしょう」

「そーだねー。でもまあ、維持する方がめんどくさいよ」

「セックスも、思うままでしょう」

「うん。でも、あれは、終わったらそれで終わりだよ?」

 言葉を交わすあいだ、彼女は一度もこちらを見なかった。ただ、苺色のアイスを淡々と味わっていた。

 彼女はいつだって、実体を求める影絵みたいだった。ふらふら彷徨って自身の由来を探しているが、それは自分の形そのものであって、永久に照らされることのない暗部であるから、見つかりやしない。

「…まるで、足りないものを知らないみたいだ」

 僕が呟くと、彼女はくすくす笑った。力の抜けた、諦めたような笑いだ。

「バカだなあ、アンタは。そうやって考え込むから、ロクなことにならないんだよ」

「どういうこと?」

「足りないものなんて何一つ無いんだよ?」

 僕はちょっと言葉に困ってしまって、黙った。彼女は何かを試すように、じっと僕の顔を覗き込んでいた。

「………そうかもしれない」

「うん、そうだよ、きっと。余計に考え込むから、そんなふうに思うんだよ」

 なら、どうして彼女は寂しいのだろうか。

 当たり前にそんなことを思ったけれど、訊ねる気にはならなかった。

「でもね」スプーンがまっさらなところを抉り取った。「こんなふうにくっついてたいと思うのはアンタだけだよ。これはホント」

「どうして僕なの?」

「さぁ、私にも解んない。ほい、あーん」

 まるで子供を宥めるように僕にアイスを含ませてから、彼女はやさしく笑った。いつも何を考えているんだか判らないが、それは、どうやら本物らしい表情だった。ゆっくりとアイスが溶けていく。

「私、デートだけでも結構高くつくんだよ?感謝してよね」

「そりゃどうも」

「へへ、どういたしまして。…なんかさ、アンタを見てると、落ち着くの」

「落ち着く?」

「うん。なんていうか、アンタ、すごく人間らしいよ。光でも影でもないようなところに立ってさ、呆と、死にもしないで」

 そんな有様を人間らしいと呼ぶのか否か、僕は判じかねた。それは死んでいない何かであって、その生きているものは、果たして人間と呼ばれるべきなのだろうか。

「ほら、そうやって何かを考え続けてる。解るはずのないようなことを、それでも」

 彼女は不意に僕へ体を向けると、やおら両腕を広げてみせた。そのまま、僕の横っ腹へ抱きついてくる。

「ふふ、あったかいね」

 そのとき、ひどく奇怪なことに、僕は彼女の体温を感じなかった。

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