誰にでもあること
僕の生まれは知れたもので、別段に語るほどのことではない。
決して都会とは言えぬ地方の片隅に生まれ、しかし生活に不便をしたと云うような面白おかしいエピソードがあるわけでもなかった。僕は当たり前にアスファルトの上を歩いて通学したが、近所には割と綺麗な川が流れていたりした。そんな感じである。
なんだかんだと言いながら大学までやって来たのは、勉強が好きだとか得意だとか、そんな理由からではなかった。ただ、そこそこ従順に大人の高説を聞いていたからであり、また、僕自身になんらの目標も無かったからである。率直に言えば、学生という身分を棄てるのが億劫で怖くて、変化の少ない道を選んだ結果だ。働きたくないのかどうかは、僕にもよく判らない。
哀しいことには少々頭が足りぬゆえに、かような地方の阿呆大学に流れ着いてしまった。そうは言いつつも、僕は自身の能力や受験における手落ちを悔いるつもりはない。それを悔いるプライドというのか、張り合いというのか、そんなものに於いても持ち合わせが極端に少なかった。
まさに一介の、正真の凡夫である。
それから、雨。
僕は雨が好きだった。曇よりは雨のが好いと思っている。曇っているばかりで泣かない空は、なんだか自分自身を鏡写しにされているみたいで気分が良くなかった。僕の故郷では烈しい雨が多くて、降る時にはとても潔いのが降るのだが、予定のない休日などは、実家の自室の窓の縁からぼんやりそれを眺めているのが幽かに楽しかったりした。部屋から出ないことへの免罪符であるようにすら思われるのだった。
総じて、僕の平均値みたいな人生は滑らかに現在まで続いている。生きているとか死んでいるとか、そんなことを深刻に考える機会は、だからそんなにあるものでは無かった。
異変は一年ほど前、僕が小説を書き出した頃に起こったのだ。世に在る悉くが既知の物質であるように思われ、個々に有意味な差異を見出せなくなった。幸も不幸も、それはたぶん、そこに在るだけのことなのだろう。自分の人生がこのままあと数十年も続いていくであろうことが、ひどく悪い冗談であるような気がしてきた。もう何も欲しくなくなったし、何もしたくなくなった。
そして幾度も繰り返し考えている。
死んだらどうなるのだろう。
幾らか試験が実施された後で、大学は長い夏休みに入った。基本的に講義以外の用は無いので、こうした長期の休みは家で自堕落に暮らすのが毎年のことであった。しかしごく稀に、数少ない知人たちから何かしらへ誘われて、ふらふらと出向くこともある。たまたま、今日はその日であった。
僕はガムに誘われて、ゴミ拾いのボランティアに精を出していた。この暑い中にわざわざやることでは決してないと思うのだが、呼ばれた以上は真面目に取り組むことにした。
河川敷に青々と茂った雑草たちをかき分け、火ばさみでゴミを摘み上げる。実に単純で退屈な労働である。しかも、よくもまあこんなに、と思うほどに、ゴミは至る処に落ちまくっていた。タバコの吸い殻などは、これ全部をかき集めたら致死量になるのではないかと思う。
川辺の空気はじっとりと重く、息苦しかった。熱中症予防のため、こまめに休憩するようにと言われている。僕は隣のガムに声をかけた。
「そろそろ休むよ」
「お、そうか。じゃあ俺も」
二人して橋が落とした大きな日陰へ逃げ込む。普通に生きていて意識することはないが、陽の光はきちんと暖かいのだろう。橋の下はひどく涼しかった。
「しかしあっちぃな。何人か倒れてんじゃね?」
「普通に危険だよね」
「だなー。わざわざ夏にやらんでもいいだろぉに」
「言い出しっぺは君でしょ」
「まあそうなんだがな。や、俺だって友達に言われて仕方なくだよ。お前と一緒!」
ふてぶてしい彼は平気でそう言って、ちょうどいい段差に腰掛けた。少し離れて僕も座る。川面は深緑色をしていて、ただ静かに流れていた。
「でも、なんだかんだ真面目にやるんだね」
「まぁな。やるからにはちゃんとやらんと意味ないだろ」
この辺りの価値観は僕と彼とで共通しているらしかった。講義をすっかり眠って過ごすくらいなら、サボって家で寝る方がいいとの考えである。
蝉の声ときっかり同調して鼓膜が震えているような気がする。それぐらい、いかにもそれは、夏の底であった。
「そういやさ、お前はインターンとか行かねぇの?」
「ああ…そういやそうだったね。や、うん、どうしたものかな」
少し困って、僕は小さく空を仰いだ。院進という道を選ばない限り、僕らは来年度で学生生活を終える。つまり、学生という名の免罪符を失うのである。お金が必要になって、だからどこかに就職しなければならなくて──そんなことは判りきったことで、けれども僕は、一つも具体的な方針を持っていないのだった。
「…君は?就活の準備とかしてる?」
「俺か?まあ、ボチボチな。意識高ぇ連中にはついていけんが、来年困らんように下調べはしてるぜ」
「そっか、えらいね」
「なんつぅ心のこもってない──てか、お前は?マジでなんもしねぇの?」
「考えてないワケじゃないよ。ただ…」
「ただ?」
「どうすればいいのか判らないんだ」
いまの僕には、人生というものが到底途方もない何かであるように思われるのだった。何らの目標も無く、ただ大学へ行けば何か見つかるかもしれぬと浅はかで阿呆な期待をして、まるで、三年がそのままで過ぎようとしている。そんなザマである。
「みんな、どうやって就職先決めてるんだろう。僕には全部が同じに思われて仕方ないのに」
「んー…お前は深刻に考えすぎなんじゃね?みんな、大したことは考えてないと思うぜ。待遇がいいとか、何となくとか、そんなもんだろ」
「そうか…そうかもしれないね」
就職について考えた時、最初に思い至ったのは労働条件だった。職種なんかの細かい話は、それこそ全部おんなじに見えてしまって、頭に入ってこなかった。僕にとって労働とは金銭の対価であり、金銭が生活の対価であり、生活が人生の贖罪だった。
贖罪?
はて、僕はいつから、いったいにそんなことを思いはじめたのだったか。
「…ねえ、君は、子供の頃の夢とか、ある?」
「ガキの頃に成りたかったモンか?んー、そうだな…別に無かったような気がするぜ」
「じゃあ、この大学を選んだ理由は?」
「それも、別にってカンジだな。センターの点見て、行けそうなところ探してただけだ」
「なるほど、僕と同じだ。それじゃ、君は、生きてるの楽しい?」
彼はさすがに怪訝な顔をして、僕を軽く睨んだ。それは怒りではなかったが、何かしら厭なものを見つけた、という顔だった。
「なんだなんだ、藪から棒に。悩み事でも有ンのか?」
「や、そういうわけでもないけれどね、君はほら、僕と違ってアクティブだからさ、何か、僕と違う幸せを発見してるんじゃないかと思って」
彼はすこし黙って、僕の目を見た。何かを探っているようでもあった。
そうして、ただ、口角を少しだけ上げてみせて、ようやっと口を開く。
「そんなこともねぇよ。…お前はさ、ガキの頃、夕方五時くらいに、友達と別れた光景を覚えてるか?」
「まあ、ちょっとは覚えてるけど…それがどうしたの?」
「あれは、虚しいよな。たっぷり遊んで、もう望むべくを全部満たしたあとで、ただ、永い夜の来る気配だけがしてた。俺にはな、あれがずっと付き纏ってんだ」
「どういうこと?」
「俺がなるだけ予定を詰め込んで、あくせく動き回ってるのはな、そいつを忘れるためなんだ。じっと立ち止まってるとジワジワ近づいてくる、その息苦しさを忘れていたいんだよ。何の為に生きているのかとか、そんなくだらねぇことを、頭から追い出したいんだよ」
その言い草があまりに僕のとそっくりなものだから、ちょっと驚いてしまった。それを見た彼は、いつもみたくニッと歯を見せて笑った。
「そんな顔すんなよ。お前が訊いたんだろ」
「…うん、そうだね」
だけど、それじゃあまるで、彼もため息を知覚しているみたいじゃないか。
ため息は、空っぽなところへ吹き込んでくる風ではなかったか。僕のように内向的で自己凝視の過ぎる人間だけの、鬱屈とした虚しさではなかったのか。
彼のように明るく忙しく生きられたなら──僕は、心のどこかで思っていた。もしそう成れれば、もう、ため息と向き合わなくて済むのではないかと、本気で考えていた。
「君も、虚しくなったりするの?」
「そりゃあ、するさ。俺だってお前と同じ、人間だからな」
僕は曖昧に頷いた。
風が吹いている。前髪が揺れて、彼はまるで、何かを待っているみたいだった。
「誰にだって、そんな瞬間はあるもんだろ。ハッと我に返って、それで、
そんな普遍が有難いような、信じたくないような、ひどく複雑な気分だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます