ため息

 翌る日のことである。

 本来、今日も講義が一つあったはずだが、教授の都合だとかで休講になってしまったのだった。いつだって売るほど有ったが、いくらあっても困らないのが暇である。僕はまったく気を快くして、自室で呆と小説を読んだり、書いたりした。相も変わらず華の無い生活である。

 そんな作業にも疲れてきた午後、暮れかかった部屋のど真ん中で、僕は大の字に寝そべった。

「あ」

 その刹那、僕はそれが遣って来たことを自覚する。

 そいつは不意にやってきて、気づかないうち──大抵、人と話している間とか、腹痛で苦しんでいる間とか──に、無意識の彼方へ消え去っている。人生の浮き彫りにならない背景を塗りつぶしている、普段は意識することもないような、しかし常日頃から付き纏っている何かである。孤独であることを自覚するような、或いは惰眠を貪っていることを内省するような何かである。夢中になっていた本から目を挙いだ瞬間のような、猛烈な忙しさから解放された瞬間のような何かである。僕はこれを『ため息』と呼んでいる。

 ため息は必ず、仄暗い何かと一緒にやって来る。そうして、ある種の酸が金属を溶かしていくみたいに、じわじわと、僕の何かを少しずつ削るのである。僕は削られていることを自覚するが、いったい何を削られているのかは判然とせず、また、それがいったいどんなに僕にとってフェイタルなものであるのか、それも判らない。ただ、窒息するような感触があるばかりで、それこそ真綿で首を絞めると云うのはこんな工合かも知れぬと思ったりもする。

 それはいつも、人間の空っぽなところへ吹き込んでくる。そうして、自分の人生にこれ以上期待すべきところが何ひとつとして在りやしないと囁き続けるのである。何のために生きているのかなどと阿呆なことを疑う時の、あの虚しさに少し似ている。

 僕がため息を知覚したのは、ちょうど大学に入ったばかりの頃だった。それまでもきっと、ため息は僕の肌から数センチのところに在ったのだろうが、僕は気付きもしなかった。こんなに恐ろしい化け物を、きわめて自然に無視することができていた。

 だが、もはや駄目である。濁り始めた僕の目には、どうしようもなくそれが見える。

 それはしばしば、人生の退屈にも似ていた。

 とまれ、この息苦しさを何とかしたいと思って、僕は、真っ先にスマホを手に取った。ため息に最も早くよく効くのは他人との会話である。とにかく意識を他へ分散させるのだ。酒もよく効くが、却ってこじらせることもあるので、なるべく使わないようにしている。

 ヨタカでもガムでもいい、誰かを──祈るようにメッセージアプリを開く。すると、唐突にチャイムが鳴った。

 のっそりと起き上がって玄関へ向かい、ドアスコープから覗いたそこで立っていたのはアサガオさんだった。小さな奇跡の顕現に僕は、えも言われぬ気持ちになって、すぐさまドアを開けた。

「こんにちは」僕の寝癖頭を認めると、彼女は微笑んで言った。

「こんにちは。や、もうこんばんはでしょうか」

「そうね、もうこんな時間。ね、晩御飯は食べた?」

「まだです」

「よかった。じゃ、今からウチへおいで。たしか、カレーは好きだったよね」

「好きですけど…いんですか?」

「私がいいって言ってるんだから、いいのよ」

 どこか自信ありげな口調でアサガオさんは答える。僕は笑って、寝癖頭のままサンダルを引っ掛けた。

 アサガオさんの部屋は一階にある。大学時代から住み始めたそうだが、卒業した今でも住み続けている。彼女のような見目麗しい女性が住むにはちょっと野暮ったいようなアパートだが、本人はそんなところを気に入っているらしかった。

『スイカに塩をかけるでしょう。あれと同じことよ。全部が整ってるなんてつまらないわ』

 もうずいぶん前、そんなことを言っていた。いろいろと整っている彼女のその言葉はなんだかおかしくて、ついつい笑ってしまった記憶がある。その時は怒られると思ったけど、彼女も困ったように笑うばかりだった。

「さ、あがってあがって」

「お邪魔します」

 彼女の部屋へ入るのはもう何度目のことか判らないが、いつ来ても綺麗にしてある。僕などはついつい散らかしてしまう質なので、感心するばかりである。インテリアもシンプルなものが多く、彼女と同様に落ち着いた印象を与える。雨上がりみたいな花みたいな、やはりよく判らない匂いがしていた。

「準備してくるからテキトーに座って待ってて」

 言われるままにローテーブルのそばに腰を下ろした。彼女の白くて細いふくらはぎがキッチンへ移動するのが目に入る。

 僕が入学した頃、彼女は学部の四年生だった。同じアパートに住んでいたから割と頻繁に見かけていたけれど、大人びた雰囲気のせいだろうか、まさか同じ大学に通う学生だとは思わなかった。ガムに言われて学生証を届けなければ、きっと関わることもなかっただろう。馴れ初めはそれだけの些細なことだったが、以来、彼女は実姉のように僕によくして呉れる。

「はい、お待たせー」

 黙って座っていると、彼女は僕の皿まで運んできた。小さく頭を下げて「いつもすみません」と呟く。彼女は「いいのよ」と受けて、僕の向かい側に座った。「さ、食べましょう」

 一人なら述べもしない食材への感謝をきちんと口に出してから、スプーンを動かす。彼女も同じようにしてカレーを頬張った。

「美味しいです、とても」

「よかった。まだあるから、たくさん食べてね」

「ありがとうございます」

 彼女がよくしてくれる理由を訊くなんて、それこそ野暮なことはしようと思わなかった。ぜんぜん恐縮しながらも、結局のところ甘えてしまっているし、彼女もまた、甘えられることを望んでいるようだった。どうやら、ふらふらで頼りないものを放って置けない性分らしい。だからヨタカのことも気にかけているのだ。

「そういえばヨタカに会いましたよ」

「あら、そうなの。元気してた?」

「ええ。太っ腹な客で儲かったと上機嫌でした。おかげさまで僕はタダ飯にありつけたんですが」

 アサガオさんは小さく首を傾げて苦笑した。

「相変わらずみたいね。でも、元気そうでよかったわ。今度連れておいでね」

「伝えておきます」

 流石のヨタカもこの慈母の前では多少しゅんとなる。アサガオさんが説教めいたことを垂れているところなんて一度も見たことがないけど、ひょっとすると、ヨタカは叱られているような気がするのかも知れない。実際、ヨタカはアサガオさんを嫌いではないが、少し苦手だと思っているらしかった。正しいものの前で萎縮してしまうのは人間の性なのかもしれない。

「あ、そうだ。あの子は元気してる?」

 あの子というのが誰なのかはすぐに判った。

「さあ、そういえば最近会ってませんね。今度探してみましょうか」

「ええ、よかったらお願い」

 彼はアサガオさんが放置できようはずもない、ひどく自堕落な男であり、彼女の同級生でもある。僕は畏敬と親しみを込めて、彼のことを先輩と呼んでいる。


 それで、僕は別に先輩のことを能動的に探してやろうと思ったわけではないのだけれど、次の日、大学でばったり出くわしてしまった。こういう時、僕はいわゆる運命論的な何かを感じる。人生上に浮上する全ての出来事の発端は、無意識のうちに自らが呼び寄せているような気さえしてくる。

 売店の前である。最後の講義を了えて、帰る前に飲み物でも買って行こうと思ってやって来たところだった。

 彼はゆらゆらと売店から出てきて、ひどく緩慢な動作で僕を認めた。

「おお、久しぶりだな」

「こんにちは。お久しぶりです」

 顔はこちらへ向けられているが、全然どこを見ているのか判らないような視線をもって、先輩は僕に笑いかけた。普通のゆったりとした白いカットソーが、先輩が着ていると何処か不吉なものを感じさせるから不思議である。しかし身だしなみが特別おかしいわけでもなく、また、話し方だって至って普通である。彼において非凡であると感じさせるのは間違いなく、雰囲気だった。生気が抜けている。遠くから見るとその姿は落ちぶれた浮浪者にも似ていた。

「生きてたんですね」

「ああ、何とかな。最近になってようやっとエイズの恐ろしさを学んでな、それ以来、行為には慎重を期している」

「エイズ、ですか」

「ああ、そうだ。あれは、お前、やっぱり怖いな」

 この人と話している時、僕は自分でどんな顔をしているのか判らなくなる。たぶん苦笑していると思う。見下しているからではなく、ただ、どんな顔をすれば好いのか判らないので、自然、表情に関する自覚が不安定になる。そういう意味では、先輩に引きずられているのかもしれない。

「やばい病気は、まだもらってないですか?」

「うむ、大丈夫だ。まあ淋病なら、ひと月ほど前にもらってしまったがな。あれは痛かった」

「痛いんですか?」

「お前もなってみるといい。激ヤバだ」

「絶対嫌ですよ。というか、そんな調子で研究は大丈夫なんですか?」

 こう見えて彼は、割と頭が良かったりする。特待生としてこの大学に入学して、いわゆる飛び級でもって学部を三年で卒業すると、そのまま大学院へ進学した。いまは博士課程の一年生である。地方の阿呆大学とはいえ、ここまでくると大したものである。

 彼はヘラヘラと笑った。

「叱られん程度にはやってるさ。金を打ち切られると困るしな」

「そういえば、今もお金はもらえるんですか?」

「おう。しかもレベルアップしたんだよ。月に二十万だぜ」

「へえ、すごい」

「だろう?これで俺のQOLもかなり上がるぜ。激安店ばかりでは味気ないからな」

「ちゃんとご飯も食べてくださいよ?アサガオさんが心配してました」

 瞬間、彼は真顔に戻る。しかし二秒後には、またヘラヘラ笑っていた。

「あいつも変わらんな。お節介め」

「何か言伝があれば預かりますよ」

「かまわん、元気だったと伝えてくれ」

 それだけ言って、彼は「じゃあな」と踵を返した。

 理由は知らないが、彼はあまり知人と連絡を取りたがらない。だからSNSもメールも、電話番号すらも、知っている人は少ないし、知っていたとしてもほとんど機能していないらしい。僕が大学で出会った時から、ずっとあの調子だった。期待されているからか、実家からの仕送りもあるらしく、食費を切り詰めては風俗店へ通っていた。大学から特待生へ送られる金も褒賞としてもらった賞金も、親からの仕送りもバイト代も、自由に使える部分の殆どは風俗へ消えているらしい。

 僕には彼が、抜け殻か、化け物にみえる。

 まえに、風俗帰りの先輩に出くわしたとき、強引に先輩の部屋へ連れて行かれて、酒の相手をしたことがある。今と同じ夏の日のことで、先輩の古びた四畳半には蚊取り線香の匂いが充満していた。

 暇だったので僕は嫌ではなかったが、むしろ言い出しっぺの先輩の方が、忌々しそうに顔を顰めて飲んでいた。先輩は酒に強くないので、既にだいぶ酔っている様子だった。

 僕は前々から気になっていたことを問うた。

「どうして風俗に通うんですか?」

「死にたいからさ。性病でもなんでもいい、俺ぁ、その、なんだ……」

 珍しく言い淀んだ彼は手に持っていた缶ビールを汚れた畳に置いて、頭をくしゃくしゃ掻いた。それから二つ、ため息を吐いて、唐突に笑った。どうしようもなく力の抜けた笑みだった。

「や、解らん。何にも解らんのだ、俺には。なにせ、ただの阿呆だからな」

 その言葉を聞いた時から、僕には先輩が誰よりも人間らしくみえるし、誰よりも人間から離れた存在であるようにも感じられる。

 先輩のことは、やはりよく解らない。

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